「よかれと思って」考

人間はふだん、「よかれと思って」行動してるつもりだと思う。ところがどうも、「よかれと思って」はほとんどの場合、自分勝手で、トラブルに陥るように思う。
人間はしばしば、これが正しいと思って行動する。よいことしてるつもり。ところが反発されると「よかれと思ってやったのに」とイラつく。

親切のつもり。優しい行為のつもり。正しい行動のつもり。なのに思わぬ反発、文句を受け、「なんでやねん!よかれと思ってやったのに!」と腹が立つ。
でも「よかれと思って」はたいがい、親切の押し売り、正義の押し付けであり、感謝や恩義を求める「ゆすり・たかり」でもある。

なぜそうなってしまうのか。

相手に相談してないから。

「よかれと思って」と、後で言い訳(自分の正当化)をするハメになる行為は、まず間違いなく相手に相談していないように思う。自分で勝手に状況判断し、こうしたほうがよいと勝手に決め、行動してしまう。相談せずに。

「よかれと思って」行動は、相談していないばかりでなく、相手を観察していない。「空想の中の相手」を見て「これをやったら相手は喜ぶに違いない」と考え、相談なしにやってしまい、相談なしにやられたから相手は「私の意向を無視された」と怒る。しかも感謝まで要求される理不尽。

ところが「よかれと思って」派は、「お前のためを思ってしてあげたのに、感謝どころが不満を言うとは何事か」と怒る。やってあげたのだから感謝すべきだろうと信じている(期待している)。なのに期待通りに相手が反応しないものだから怒る。しかし相手からしたら、勝手された上に感謝のゆすりたかり。

「ゆがみちゃん」という漫画で、父親が娘のためにお土産を買ってくるのだけど、それがまた微妙なものばかり。娘が不満げな顔をすると激怒し、叱られたというシーンがある。娘はこのため、嬉しくもない、むしろお荷物なお土産を渡されても全身で感謝と喜びを表現せねばならなかったという。

「よかれと思って」は、感謝や恩義のゆすり・たかり。相手を見ず、相手を観察せず、相手に相談もせずに自分の価値観だけで行動してしまう。相手からしたら意向は無視されるわ、感謝を強制的に要求されるわ、踏んだり蹴ったり。

「よかれと思って」は、相手に「無視された、意向を全然聞こうとしない、自分勝手に決めてくる、それでいて感謝を要求される」ということが瞬間的に読み取れるから、ムッとするのだろう。ところが「よかれと思って」派は、正しいと信じ込んでるからそんな反発を予想していない。だから腹が立つ。

YouMeさんの実家の義父母は、私に何か親切してくれるとき「ごめんね、〇〇しようと思うんだけど、いいかな」と、私の意向を必ず聞いてくれる。私に相談し、私の意向を必ず確認しようとしてくれる。私は「ああ、きちんと見てくれている」と思うし、尊重してくれることに自然に感謝の気持ちが湧く。

ところが実母だと、家族だという思いがあるからか、頼んでもいない世話を焼こうとするので「後で自分でやるから置いといて!」と怒ることがしばしば。せっかく親切にやってくれようとしてるのに、自分の了見が狭いのかな、と思っていたけど、だんだんと「違うな」と思うようになった。

こちらにも心づもりがあるのに、相談もなしに勝手にされた、無視されたということに私はイラつくのだろう。それでいて「よかれと思ってやったのに」と感謝を要求されるので、「親切を押し売りされた上に感謝をたかられる」という二重の不満を持つからだろう。

「よかれと思って」には、相手への畏(おそ)れ、畏敬の念がないように思う。
恋人同士のときは、相手を喜ばすための工夫を一所懸命に考えるけど、それが裏目に出るかも、という不安、恐怖を同時に抱えずにはいられない。だから必死になって観察する。どうしたらよいか必死に考える。

あるいは、相手の好みとか、どうしたら喜んでくれるかを相談しようとするだろう。自分を無視しない、気持ちを尊重しようという姿勢がわかるから、相手も嬉しい。
「赤毛のアン」の続編で、アンは大して親しくもない小学校以来の同級生から求婚される。相手はアンに恩恵を与えてると信じて。

「みなしごのお前と結婚してやろうというのだ、どうだ、嬉しいだろう、感謝するがいい」ということを信じ切ったその様子に、アンは拒絶反応を示す。相手の意向を知ろうともしない「よかれと思って」は実に身勝手な正義だと思う。

私は、この世に正義や善は存在しないように思う。あるのはあなたと私の間の関係性のみ。
ところが私達はしばしば正義をカサに着、自分を善だと思い込んで行動する。でもそれは、「技術は高いかもだけど誰とも上手く踊れないダンサー」のようなものだと思う。

もしダンサーが相手に全く頓着せずに「ここはこうステップを踏むものだ」と頑なな姿勢を貫けば、それに合わすことのできない相手はギクシャクして上手く踊れないだろう。
しかし相手のレベルやクセに合わせてステップを踏むダンサーなら、相手もそれに合わせてステップを踏むことができるだろう。

「これが正しいのだ」を押しつけることは、相手を観察できていない。ただ正義を押しつけているだけ。正義や善を忘れ、相手との関係性をともに紡ぎ出そうと言う気持ちこそが大切。すると相手も合わせようとし、息が合ってくる。すると、相手にはそれまでなかった技能まで引き出されるようになる。

「よかれと思って」は親切の押し売りであり、感謝のゆすりたかり。だから相手に反発される。それを避けるには、相手と相談すること。相手をよく観察すること。自分の空想の中の相手を見るのではなく。
これをするためには、「自分のほうが優れている」という考え方を捨てることが必要。

自分のほうが優れている、と思ったとたん、相手の意向を軽視し、自分の判断を優先してしまう。相手に相談することを怠るようになり、相手を観察することをしなくなってしまう。このため、「よかれと思って」を正義の盾にとり、自分の行動を正当化し、相手を無視することになる。

自分のほうが優れているから、というのは言い訳に過ぎない。というか、言い訳にさえならない。自分のほうが優れていても、それは相手の意向を無視してよい理由にはならない。この世に正義などないのだから。善などないのだから。ただただ、相手との関係性があるだけなのだから。

自分のほうが優れていることも、正義も善も、相手を無視してよい理由にはならない。関係性を紡いでいくことを怠った言動は、「よかれと思って」であっても、それは相手を無視する行為、親切の押し売り、感謝のゆすりたかり。

「よかれと思って」といえば無条件に無罪放免、というのは違うように思う。相手を観察し、相手と相談し、相手と自分との同意(コンセンサス)を紡ぐことが大切。
関係性を相手と紡いでいくこと。この意識がとても大切なことのように思う。

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