「勉強できない子」は難しく考えすぎ(指導の言葉多すぎ)

勉強できない子は一般に、理解力がないからだとされることが多い。塾で主に「勉強できない子」とされる子らを見てきた私からすると、そうは思わない。むしろそうした子の9割は「考えすぎて混乱」していることが多い。糸がもつれてこんがらがって、イヤになってるという感じ。

「勉強できない子」は、しばしば分数でつまづく。そもそも、分母と分子が区別ついてない。これには指導者側にも問題があって、私にも覚えがあるけど、分母と分子を指導者が言い間違えることが結構ある。聞いてる側からしたらよけい混乱。

私は「下の数字はケーキをいくつに切るか、や」「上の数字は何切れあるか、や」と、口語表現にして説明していた。しかし「説明」という言葉自体が混乱を招いている。言葉に縛られて混乱していることが多いから、言葉は最小限にして、「体験」で学んでもらったほうがよい。

1/3を見せて「さあ、このマルをいくつに切る?」と言いながら、マルとハサミを渡す。そもそも3つに切れないことも多い。「円の中心に向かってハサミを入れる」という「コツ」を知らないことが原因。これもあれこれ指導者が言葉を尽くすより、体験を重ねることで「ああ、そういうことか」が訪れるのを待つ。

1/3は、マルを3つに切った上で1切れ。2/3なら3つに切った上で2切れ。3/4なら4つに切った上で3切れ。これを、ハサミ入れながら体験的に覚える。ハサミを入れる、という余計な時間が意外と大切。計算以外の記憶が、理解を深めるよすがとなるから。

「勉強できない子」は、これまでの指導者たちの「多すぎる言葉」がこんがらがって、目の前の事実に向き合えばよいだけなのに、先生の過剰な言葉で惑乱していることが多い。これをほぐすには、指導者は言葉をなるべく減らし、本人の言葉で紡ぎ直す必要がある。

マルを3つに切ったり、棒を3つに切ったり。分数を見せてその作業を繰り返してるうち、子どもは「何や、ともかく下の数字の数字に切って、上は切ったやつのいくつか分ということやな」というのが腑に落ちるのを待つ。分数とは、上下にそうした約束事が隠れていることを、自分で気づいてもらう。

「勉強できない子」は、速度の問題を苦手としていることが多い。これも過剰な説明のせいで、混乱させられていることが多い。そのため、考えすぎてできなくなってる。速度は距離を時間で割るわけだけど、逆に時間を距離で割る子が非常に多い。これがなぜ起きるかというと。

大阪だと「ハジキ」、名古屋だと「キソジ」という、妙なテクニックを学ぶのが原因だったりする。どれかを隠せば何をどう計算すればよいのかの式がわかる、というものだけど、「勉強できない子」は、式の上下を逆さにしてしまったりする。

私は「いったんこれまでのテクをすべて忘れろ」という。そして、できるだけ体験を思い起こしながら、体験的な問いを発する。「同じ時間かけて速かったら、遠くまで行けるんか?近いんか?」と聞くと、「勉強できない子」でも間違わずに答えられる。

「同じ速さで時間短くなったら、遠くに行けるんか?アカンのか?」「同じ距離で到着する時間が短かったら、それは速いんか遅いんか?」などと、体験的な問いを発すると、中学生ともなれば「勉強できない子」でもほぼ全員が間違わずに答えられる。

そしてこの体験的な感覚を基礎に、計算を考えるクセをつける。
「ちょい待て。お前またハジキで計算しようとしたやろ。そんなテク忘れてまえ。それより、速度が速なったら早く着くんか?よけい時間かかるんか?」と尋ねると、間違わずに答える。

「そや!ほんならなんで時間を距離で割るねん。こんな計算したら、時間かかればかかるほど速いゆう話になるやないか」と言うと、「あ、そうか」と納得するようになる。ハジキでもキソジでもなく、時間と距離と速度の関係を、体験に照らしてチェックするクセをつけるように仕向けると。

それまでの指導でこびりついた、過剰な説明を洗浄し、自分の体験に基づいた理解を基礎に学習を組み立てるクセが身についてくる。こうすると、「勉強できない子」も、絡まった糸を全部捨て、それらは意味がないと理解し、自分の体験に基づいたしっかりした理解が可能になる。

大人でもこうしたシーンはよくある。指導者がジーッとこちらを監視してると、手元の作業より「監視者」の視線が気になってパニックになり、手元がおろそかになる。何か間違ってないだろうか、とか、指導者の機嫌を損ねないだろうか、などと考えすぎて、指導者の言葉に縛られて、かえって手元の理解ができなくなる。

だから私は、作業をできるだけシンプルにし、一通り教え、それを一度マネてもらった後、「じゃあ、さっきの作業、ここにあるの全部終えたら私を呼んでください」と言って立ち去る。私という監視者の目を気にせずに、手元の作業を繰り返し、体験的に理解できるように。

一人になって作業するなら、「ええと、さっきはどうしたんだったっけな」と思い出しながら作業できる。なぜこんな作業をするのだろう?という疑問も、一人なら遠慮なく考えることができる。「ああ、だからこの作業が必要なのか」という納得もしやすい。自分の言葉で作業を説明し直すことができる。

私を呼ぶ頃には、その作業の意味を理解し、体にその作業のことがしみ渡ってるから、もう忘れない。私がその場を離れ、本人が体験しながら、本人の言葉で理解を紡ぎ直すからそれができる。
しかし教えたがりがつきっきりで説明すると、パニックになりやすい人はよけいに混乱する。

「違う!さっきこう指導しただろ!」「それはそうじゃなくてこう!」などと、言葉も多く、指導も多いと、教えられる側は、指導者の機嫌を探るという余計な作業も加わるものだから、処理しきれなくなり、手元の観察をするゆとりを失い、言葉に縛られてパニックに陥る。

「勉強できない子」、仕事のできない人、と呼ばれる人のかなりが、過剰な言葉を与えられた結果、その言葉に縛られ、手元の理解、体験に基づいた理解を妨げられている。もつれた糸を全部捨て、体験に基づき、自分の言葉で理解を紡ぎ直すことから始めると、すんなり理解できるようになる。

大人が変に考えすぎ、事細かく指導するために「勉強できない子」は、その言葉に縛られ、体験や手元の作業を見ることができなくなっていることがほとんどのように思う。理解の糸を他人の言葉の糸でこんがらがらされてる、という感じ。

肝腎なのは、指導者の言葉を理解させることではなく、本人の中に理解が成立すること。そしてその理解は、本人の中に形成されてる体験に基づき、本人の言葉で紡ぎ直されたものであること。その作業の邪魔になるなら、指導者は言葉を控えることが必要。

私のように、「勉強できない子」に特化して指導してきた人は、いわゆる教育者でも多くはないように思う。勉強できる子と一緒に指導しながら比較すると、「理解力がない」と片付けたくなる気持ちはわからなくはない。でも、「理解力がない」というのは、とても解像度の悪い言葉。

私からすれば、難しく考えすぎ、これまでの指導者の言葉で惑乱させられすぎ、というのが実態に近いように思う。「勉強できない子」は、これまで叱られることが多すぎて、「これもオレをひっかけようとしてるんじゃないか」と警戒心を強めている。で、考えすぎて間違える。

そこで私は、それまでの指導者とは逆の言動をとる。正しい解き方をしてるときに「え?それで本当にいいの?」と問いかけ、揺さぶると、テクに走って理解がおろそかな子は「え?逆だった?勘違い、勘違い」と言って、平気で間違った方法を始める。私はニタニタ笑って様子を見る。

間違って間違って、1時間経ってようやく、もとの解き方でいいのだとわかったときに「先生、だましたな!最初の計算方法でよかったんやないか!」と怒る。私は「揺さぶられるからや〜」と言って楽しむ。こうしたことを2、3回繰り返すと。

指導者である私に揺さぶられないよう、自分の言葉で確固とした理解をしようと努めるようになる。「先生はすぐ揺さぶるからなあ。信用ならん!」と言う。私は「最近、揺さぶっても混乱せえへんなあ。つまんねーの」と言って笑うことになる。

大切なことは、指導者の言葉を理解することではない。その子の中に体験が蓄積し、その体験に基づいた理解が成立すること。その理解が、たとえ拙くてもよいから、本人の言葉で紡がれ、揺るがないこと。それが成立する指導法である必要がある。

指導者側の細かいテクは、極論すればどうでもよいように思う。子どもの中に何が成立するかが大切。そしてしばしば、指導者の過剰な言葉が、子どもの理解の妨げになる。そのことを指導者は十分に理解しておく必要があるように思う。

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