宿題で勉強の習慣はつくのか?「反復」の学習効果の是非

宿題は「机の前に座る習慣、勉強する習慣づくりに役立つ」というご意見複数。しかし私にはどうもそう思えない。もし仮にそうした効果を示す子どもがいたとしても、女の子でも1〜2割、男の子だと希少価値だと思う。私の指導体験や観察からは、ほぼそんな子は見覚えがない。ただまあ、一つには。

私が観察するのはもっぱら勉強でつまづいた子ばかり。圧倒的。優等生は関心の外なので、観察数が多いとは言えない。
ただ、優等生にとって(公立では)宿題は勉強の習慣と関係ないと思うし、学力向上に役に立ってるか疑問。すでにできること、知ってることを繰り返す「作業」になってしまっている。

で、非優等生に宿題が役に立ってるかと言うと、非常に効果が薄いと感じている。
私が高校三年生の時、友人が意欲的な計画を興奮気味に話してくれた。「オレは今日から英単語10個を毎日百回書いて完全に暗記する。一年経てば3000単語以上を暗記できる計算。受験対策バッチリだ!」

一ヶ月ほど経ってから進捗具合を聞いたら、「篠原〜、聞いてくれよ、一週間前に百回書いたはずの英単語、見覚えもないんだよ」。百回書けばいくらなんでも覚えるだろうと思っていた友人の計画は、一ヶ月も経たないうちに破綻していた。
これを考えても、宿題のイヤイヤ反復が役立つと思えない。

ところで、漢字好きの息子(小4)を見てると、見た漢字はだいたい一発で覚えている。どうやってるのか観察してると、部首に分解してる。私はヘンやカンムリなどの部首名はほとんど知らないのだけど、息子はそうした部品が大好きで、「これはツクリがこれでヘンはこれで」とか説明してくれる。

部首から読みもアタリをつけ、テレビなどで耳にした言葉を思い出して「アレはこの漢字だったのか」と思い当たり、その言葉が使われていた情景を思い起こして「こういう場面で使うのだな」と見当をつけ、似た字形の漢字との違いを発見し・・・という作業を楽しんでいるらしい。

息子の中の「体験ネットワーク」と「言語ネットワーク」の中に新出漢字を当てはめていくだけ、という感じ。その漢字だけが宙に浮いた感じで暗記するのではなく、ネットワークの中のどこに位置して、どれに結びつくのかの作業をしばらく心の中で行うから、ほぼ一発で覚えてしまうらしい。

つまり、「新出漢字」とは言うけど、すでに息子の中にその漢字を受け入れるネットワークがすでに存在している。新しい漢字をネットワークに位置づけ、どれに結びつくのかの確認を行えば、知識がネットワーク状に結びついてるから覚えやすいらしい。

人工知能の研究をしてる学会発表を拝見したことがある。なんと、その発表は、4歳になる娘の観察結果についての内容だった。
その研究者は娘が言葉を獲得していく様子を観察して、人工知能に言葉を獲得させるヒントを探っていた。それによると、「娘はシチュエーションまるごと覚えてるらしい」。

その研究者が衝撃を受けていたのは、教えてもいないのにゴミを拾い、それをゴミ箱に捨てた娘の様子を見て。見たものを「ゴミ」と判断するには、それが紙の素材だとか見抜くだけでは足りない。それが使われる状況(シチュエーション)はもはやないという価値判断、状況判断がないとムリ。

しかもゴミ捨てという行為はゴミ箱に入れるものである、というのを、大人がやってるのを観察してやってみよう、と思えないとできない。「どうやら言語は文字と意味でだけ理解しているのではなく、シチュエーションまるごとひっくるめて記憶し、理解している」と発表していた。なるほどな、と思った。

息子が言葉を話せるようになってしばらく、私が帰宅すると玄関まで歩いてきて「ただいま!」。本当なら「おかえり」というところだけど、「家に入ってきたときに言う言葉」と、シチュエーションまるごと覚えていたからこそ出てきた言葉なのだろう。しばらくしたら「おかえり」に補正されてた。

人間が言語や知識を会得していく様子を見ると、「反復」が役に立つか、というと、どうも正確ではないような気がする。「咀嚼」の方が近いかな、と思う。一つの言葉を、部首に分解する作業から咀嚼する、次はどんな意味かを咀嚼する、似た漢字はないかと咀嚼する、どんな情景で使うか咀嚼する。

ジストニアという症状がある。ある特定の動作をしたいのに、それをしようとするとどうしてもうまく体が動かせなくなるもので、演奏家やスポーツ選手が陥ることが多いらしい。私はこの症状は、同じ動作を「反復」しようとするために起きる現象だという仮説を持っている。

人間は同じ動作を反復するのが苦手な生き物らしく、例えば眼球のゆらぎを完全に止めてしまうと、何も見えなくなるらしい。赤い色を見ていて白い紙に目を移すと、緑の色が見える。補色とやらいう現象で、どうやら目は、すでに見えてるものは補色で打ち消し、新しい変化に気づきやすくしてるらしい。

人間はどうも、変化に敏感にできているらしい。そして全く同じ動作、同じ結果だと学びが発生しないようにできているらしい。というより気づきさえしないらしい。ただ同じ作業の繰り返しでしかない反復は学びが発生しにくいように思われる。

近年スポーツ選手は、同じことの繰り返し、反復に陥ることをを反省し、「余計なこと」を行うようになっている。昨日、息子の大好きなドラゴンズに関する番組見てたら、プロ野球選手が砂場でサッカーをしていた。普段しない動きを取り入れることで体に刺激を与え、砂場に足を取られることで下半身強化。

ゴルフ選手でも、一見ゴルフとは関係なさそうな動作の練習を組み入れることで心身に新しい刺激を与え、体の動かし方に幅を持たせるようになっている。余計な動きを取り入れることで体の動かし方がうまくなることがわかってきたらしい。

どうせ反復するなら、同じ漢字でも横長に書いてみる、縦長に書いてみる、斜めに傾けてみる、鏡文字に書いてみる、上下ひっくり返して書いてみる、などの「遊び」があったほうが、それら「ゆらぎ」の中でも共通するものを抽出し、無意識は会得する。ゆらぎがあった方が学びは発生しやすいように思う。

人工知能は、たくさんの失敗を重ねさせることで、それがビッグデータとなり、成功の輪郭を浮き彫りにする、という学習をするらしい。人間もどうやらそれに近い学習をしているように感じる。いろんな「ゆらぎ」があるからこそ、ゆらぎがあるにも関わらず共通する何かを見抜くとき、学びは発生する。

で、宿題はそうした学びが発生しやすいデザインになってるかというと、全然なっていない。お見本通りに同じ字形を同じように書く、という、とてもつまらなくなりやすい動作にしている。同じことの反復は学びを発生させにくくする。

禅寺の修行では、掃除や料理といった同じことの繰り返しを行う。ただし、面白いことに、同じことを繰り返していてはいけないのだという。丁寧に掃除していたら「それでは掃除が終わらないだろう」と叱られ、手早く雑に掃除したら「それではきれいにならないだろう」と叱られ。

で、同じことの繰り返しのように見えて、創意工夫が必要であることを気づかされるという。手早く、しかし毎日の掃除によっていかにきれいに保つか。それには普段からの観察が欠かせず、力を抜くところ、怠ってはいけないポイント、日が経つごとにきれいになっていく掃除の仕方を工夫する必要がある。

同じ動作に見えるようでも、創意工夫を行うこと。それが大切になってくる。これは大人の世界ではそうなのだけど、子どもにこの話を適用するのは酷。子どもは常に新しいものに挑戦し、たくさんの刺激を受けて学びたい。そうであればあるほど意欲的に学ぶ時期。そういう時期に反復はただつらいだけ。

江戸時代の寺子屋でも、反復は大切にされていて、「小学」や「庭訓往来」といった本を何度も読むうち、言葉のリズム、抑揚、意味が染み通ってきて、いつの間にやら理解する、という感じ。ただし当時は、「学ぶ」という時間は非日常だったことを忘れるわけにいかない。

水くみ、薪ひろい、風呂炊き、飯炊きなど、日常を忙しくする中で、寺子屋で行う学びは非常に非日常で、きっと面白かったのだと思う。反復してるようでも、それは日常から見るとあまりに異質で、だから楽しかった可能性がある。

しかし現代の日本の子どもにとって、学校生活は起きている時間の半分以上を過ごす日常であり、勉強も似たようなことの繰り返し。刺激が少ない。楽しみが少ない。そんな刺激の薄い中で学びが発生するかというと、難しい。反復は、つまらないことの繰り返しにしか感じられないだろう。

社会状況が江戸時代や明治時代と異なり、子どもにとって学校や勉強が日常化してしまい、陳腐化し、つまらないものに映りやすくなっている。非日常だと昔の人が感じていた世界ではもはやない。これでは学びが発生しづらい。
人間にとって、学びが発生しやすい仕掛けとは?というのがとても大切。

「びじゅチューン」というEテレの番組がある。芸術作品をパロディー化した動画で、かつての「教育テレビ」からしたら信じられないほどふざけているのだけど、超面白く、おかげでその芸術作品にはついて一発で覚えられる。「富士御神火文黒黄羅紗陣羽織」なんていう難しい名前も一発で。

秀吉の身につけたこの陣羽織を紹介されただけではとても覚えられなかったろう。しかし妻の怒りを背中から感じた夫の苦悩として描いたこの動画、そしてコーラスが実に面白く、「秀吉の陣羽織でなんでこんな動画が思いつくねん」とツッコミたくなる。
https://youtu.be/yNX_05LwXUY

人間って、異質なものを見たときに「なんだなんだ?」と注意力が高まり、観察し、いろんなことを思い出しては頭の中でスパークする。で、色んなことと結びついて把握したとき、理解も記憶も定着するらしい。記憶や理解はどうやらネットワーク型。シチュエーションまるごと。

寺子屋の反復はおそらく、反復させることに効果があったのではなく、一堂に会した子どもたちが声を揃えて本を読む、という非日常体験が面白く、それがシチュエーションまるごと記憶に刻まれるというところに効果があったのだろう。しかし日常化し、陳腐化した学校では、今一つ効果が薄くなってる。

学びが発生しやすくなるよう、「え?」を混ぜる。違和感が注意力を呼びさまし、観察力を向上させ、「これはなんだ?」を喚起する。そんなとき、学びはものすごく深く、広くなる。学びのメカニズムを考えた宿題のリデザインをお願いしたいと思う。

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