「子ども食堂、フードバンク」考

子ども食堂やフードバンクの問題を考える際、注意しなければならないことがある。子ども食堂に通う子供の親御さん、あるいはフードバンクに食品をもらいに行く方に、仕事はあるのか、低賃金で苦しんではいないか、という問題。その問題さえ解決すれば、子ども食堂やフードバンクは、本来不要。

確かに、今日の食事に事欠く、という人に食品を届けるのは重要。その機能として、子ども食堂やフードバンクの存在意義があるのはその通り。しかしこれは緊急事態対応。中長期的には、なぜ食べるのにも事欠くような子供や大人が発生しているのか、という点に目を向けなければならない。

だから、本当に必要なのは、子ども食堂に通う子どもの親に何らかの形でアプローチし、もっと賃金の良い仕事を紹介するとか、フードバンクに来た方には、もし仕事の面で不安・不満があるなら、その相談に乗り、改善を図ることが大切。

しかし、どうも世間では、子ども食堂やフードバンクにいかに食品を届けるか、というアイディア合戦の話が多い気がする。やれ、捨てるだけになっている規格外の野菜を子ども食堂に寄付しろ、とか、賞味期限切れの食品をフードバンクに寄付しろ、とか。

しかしそれらの施設を利用する人たちも、本来は正規の価格で食品を購入し、まっとうに生活を送りたい人たちが大半。それができない悔しさがある。それがなぜできないかと言えば、賃金が低かったり、そもそも仕事がなかったりするから。

私は、もしかしたら、と思う。規格外の野菜を寄付しろ、賞味期限切れの食品を寄付しろ、という意見の人たちは、もしかしたら、その施設を利用する子どもの親や、大人たちに、「子ども食堂やフードバンクで飯が食えるんだろ、だったらもっと低賃金でもいけるよな?」と言いたいからでは?

戦前、欧米先進国には救貧院という施設があった。貧しくて生きていけない人たちは、ここで食事を支給されたり、眠る場所を与えてもらったりしていた。しかし当時の識者たちが喝破したのは、金持ちたちが貧しい人たちをさらに低賃金でこき使うためのシステムだったのではないか、ということ。

雇用を増やし、賃金を増やすことで、人間として誇りを持てる生活を送るには、たくさんの人件費を経営者は支払うことになる。それを経営者や株主たちが、自分たちの給料や配当が減るじゃないか、と渋り、救貧院をつくることでお茶を濁していたのが、戦前の話。

こうした構造に気がつき、許せねえ!となって生まれたのが、共産主義やナチズム。この二つの思想は、金持ち憎し、で共通していた。どちらも金持ちから全財産を没収し、あるいは殺した。戦前、この二つが世界を席巻したのは、その前に、貧困を放置していたからに他ならない。

ポピュリズムが流行ると共産主義やナチズムが生まれる、という言説がある。これは巧みに議論をずらしているように思う。私が見るに、共産主義やナチズムが生まれたのは、貧困を放置したからだ。そして、貧困を放置することで豊かさを享受した金持ち層を許せなくて、それらの思想が生まれた。

いま、日本では子ども食堂やフードバンクがすっかり普及してしまっている。これを企業や政治家が支援している。社会システムに必要なものとして組み込もうとしている。本来は不要になるように動かねばならないのに。「そこで飯が食えるから低賃金でいいだろ」構造の補助システムになりかけている。

子ども食堂に取り組んでいる知人は、おなかをすかせている子どもにともかく食事を与えることが緊急事態として必要だからやっている。しかし、子ども食堂がそうした機能を果たすことを前提で社会が動くことに大きな疑問を持っている。そうじゃないだろ、と。

自分の食べるものを買って食べる。それができるようにするのが政治であり、経済だと思う。経済とは本来、経世済民(世を経(おさ)め、民を済(すく)う)からきている言葉。ところが今の日本では、貧困を構造化しようとしている。しかもその人たちから搾り取ったお金を配当でむしり取っている者も。

私は、共産主義やナチズムを好まない。その二つに対抗して現れた、ケインズ経済学の方に好感を持っている。資本主義がもつ自由を確保したうえで、格差を是正する仕組みを持つ、修正資本主義の方が、人間という生き物の性質によくマッチしているように考えるからだ。

しかしどうも、貧困を構造化することを希望する人たちは、修正資本主義でさえ共産主義に見えるらしい。ものすごく嫌がる。そして、貧困の構造化を平気で口にする。このままでは、共産主義やナチズムに匹敵するものが生まれても不思議ではない。

もはや、その前夜だと言ってよいように思う。貧困を改善し、人々が笑顔で生きられる社会にしなければ、現在とは比較にならない混乱が将来起きかねない。その際には、今は安閑としている富裕層も、当然ながら巻き添えになるだろう。というか、ターゲットになる恐れがある。

今、改善を図れば、凄惨なことが起きないよう、未然に防ぐことができる。変に高をくくらず、どうか改善に向けて、ほんの少しずつで良いから、動き出してほしい。ベクトルが変わるだけでも全然違う。不幸を一つでも減らす努力を、ともに始めてほしい。

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