「心臓」としての投資、「寄生虫」としての投資

森永卓郎氏のFB広告に次の文言が。
「令和5年度税制改正大綱でNISAが抜本的に改革されました。もう「使わないと損」というレベルの改正です。反対に言えば、この新NISAによって間違いなく日本人の経済格差は拡大するでしょう。」
これを読んで「ふざけんなこんにゃろう」と私なんかは思ってしまった。

私は投資を否定しない。新しいビジネスを開始するのに資金が必要な人がいて、それに資金を提供する投資が必要。新ビジネスを生み出すのに、投資という行為が重要なのはよくわかる。ただし投資がこうして好循環を生み出すのは、「働く人がいる」ことが大前提。

もしみんなが投資家になってしまったら、誰が働くのだろう?投資は働く人がいて初めて機能し、意味が生まれるもの。みなが投資家となり、誰かの働きをアテにして稼ごうとしたら、誰も働かないから経済は動かない。経済は、働く人がいてこそ動く。

森永氏が「貧富の格差が広がる」と書いているということは、投資で儲ける人間は富み、働く人間は貧しくなるということ。もしその構造が固定化したら、働く人は意欲を失い、投資する人は働く気を失うだろう。働くことを嫌がる社会が、果たしてうまく機能するだろうか?

経済は「世を経(おさ)め民を済(すく)う」という言葉からきている。働くことを貶め、投資ばかりを進めれば、投資の有効性はむしろ失われ、害悪となる。労働者を元気づける投資ではなく、労働者から搾り取ることになるのだから。投資は血液を送る「心臓」ではなく、搾取する「寄生虫」に変ずる。

貧富の格差は決して拡大させてはならない。それは社会を壊す決定的な原因となる。なぜ戦前にマルクス主義が台頭したか、思い起こすとよい。貧富の格差を放置し、弱肉強食は世の習いと言って貧しい人間に同情するどころか搾取を続けたから、金持ちを搾取し労働者を潤そうとするマルクス主義が誕生した。

共産主義国では、金持ちは全財産を没収され、場合によっては殺された。そんな社会で生きたいのだろうか?貧富の格差を放置することは、こうした共産主義の状態へのあこがれを強めるということ。貧富の格差を拡大することは、むしろ富裕層にとって、自殺行為だと考える必要がある。

私は、労働者にも厚めに分配し、格差が大きくならない社会を目指すべきだと考える。ケインズによる修正資本主義は、それを目指していた。資本主義のダイナミズムを維持しながら、貧富の格差はならす(ただし完全平等を無理に目指さない)。こうしたマイルドな資本主義運営が現実的だと考える。

しかしどうも投資を促す話は、労働者をいかに搾取し、投資家に利益を回すかという話になりやすい。こうした投資は「寄生虫」だ。ぜひ、寄生虫ではなく「心臓」になっていただきたい。血液を吸う寄生虫ではなく、血液を送り出す心臓に。

働く人たちの給料が上がるような投資をしていただきたい。投資にまで余力を向けることが難しい人たちでも、生活をそれなりに楽しめるように。そうなれば、働くことを楽しむ人が増え、社会のダイナミズムは維持される。働く人が多いから、投資先も増える。それは投資家にとっても喜ばしいことのはず。

投資家は、決して労働者から搾り取ろうなどと考えてはいけない。労働者も豊かになり、投資家も豊かになることを考えて頂きたい。心臓は全身に血液を送り出すことで、酸素と栄養たっぷりな血液を心臓に巡らせ、心臓を強める。そうした心臓は、全身に新鮮な血液を送ってくれる。これならウィンウィン。

しかし森永氏が予想している投資の形は、どうやら心臓ではなく、寄生虫型。働く人々から血を吸い、血が足りなくなるようにする行為。しかし皆が血液を吸えば、働く人がいなくなり、結果的に寄生虫も弱る。共倒れになる。

投資家は、どうか労働者を搾取する「寄生虫型」ではなく、労働者を富まし、結果として自分たちも富む「心臓型」を目指していただきたい。また政府は、「心臓型」投資が増えるような政策を考えて頂きたい。このままでは「寄生虫型」が増えかねない。しかし物事はやり方次第で大きく変わる。

貧富の格差拡大は、富裕層への憎悪をかきたて、再びマルクス主義のような、富裕層を皆殺しにするような思想を流行させかねない、富裕層の自殺行為だということを自覚していただきたい。投資家はどうか、その点をよく理解したうえで投資先を決めて頂きたいと思う。

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