「既得権益」考・・・失敗を楽しみ、観察を楽しみ、工夫を楽しむことで、変化を楽しむ

小泉政権ですっかり根づいたこの言葉。「変化を拒む既得権益層」という形でよく表現される。しかし私はこの言葉があまり好きではない。権益というほどの権益はすでに存在しないことも多いし、そうは言ってもそうしないと生活できなくなる事情を抱えているし。なのに悪く言われて。

私の元にいじられキャラの学生が来た。からかわれ、バカにされても「えへへ・・・」と笑っている。それで同級生からいつもいじられる役だった。周りもそれで構わないと思っていたようだ。しかし私の目には、いじられることを不快に思っているようだ、と感じた。

その学生と二人きりになったとき、君はいじられてるとき、不快ではないのか、と尋ねると、「実はものすごく不愉快です」と答えた。こんな状況から抜け出したいとも言った。だけどどうしたらよいのかわからない、とも。
私はその学生に「ペルソナ」の話をした。

人間はついつい、被り慣れた仮面(ペルソナ)を被ってしまう。いじられることが不愉快でも、これまでの経験の蓄積があるから、不愉快な思いをどう処理すればよいか、いつものルーチンワークで処理することは、可能は可能。だけどもし、いじられキャラ以外のペルソナを被って失敗したら。

一体何をどう処理したらよいのか、頭が真っ白になるだろう。そうなれば、事態はむしろ悪化してしまうかも。それが恐いから不愉快なのはわかっていても、どの程度の不愉快かは経験上予測がついてる「いじられキャラ」の仮面をつけ、いつものように不愉快な思いを処理することを選んでるのでは、と。

その学生は、その通りだ、と頷いた。でもどうしたら、と頭を悩ませているので、「旅をしてみてはどうだろう」と提案した。
旅で初めて出会う人は、君がどんなキャラなのか知らない。いじられキャラなのかどうかさえも見当がつかない。だから実験させてもらえ、と。

君も小説を読んだりマンガを読んだりドラマを見たりして、いろんなパーソナリティ(個性)があることを知っているだろう。そうした、全然別の個性の人間になりきったつもりでドラマにのめりこんだこともあるだろう。実は君の中には、すでにたくさんのペルソナが用意されている。

そこで、旅先で初めて出会う人に、勇ましい人物、優しい人物、厳しい人物、軽妙な人物、冗談ばかりいう人物、ジェントルマンな人物、そうした様々なペルソナを被ったら、相手がどう反応するか実験させてもらえ、と。すると、相手はいろんな反応を返してくれるだろう。

そうしたやり取りの蓄積が経験値となり、様々なペルソナを選択できるゆとりが生まれる。だから、旅の恥はかき捨てだと思って実験させてもらいなさい、と。
するとまもなくその学生は自転車旅行に行った。少しずつ、学生の振る舞い、言動に変化が起き、いじられることはいつの間にかなくなった。

人間が変化を恐れるのは仕方ない。他のペルソナを試したことがないのだから。別のペルソナを被ったらどうなるのか予測がつかないのだから。そしたら、ついつい手慣れたペルソナを被ることを選んでしまう。すでにそのペルソナは不快であっても。うまくいかないことがわかっていても。

変化を拒絶しているのではなく、どうしたらよいのか、不安なのではないか。もし違う道に進んだら、何が起きるか全く予想がつかない。だからついつい、これまで通りを選択してしまう。恐いからそうしているだけなのを、既得権益と呼ぶのは、少々酷な気がする。

私の研究室に新たなスタッフが来たとき、まず一ヶ月ほどかけて解除する「呪い」かある。「失敗してはいけない」という呪い。
まず働き始めて早い段階で、危険のない失敗をわざと経験してもらう。すると多くの人は「すみません」と謝る。でも私は。

「あ、失敗しましたか。せっかく失敗したので、どんなメカニズムが起きたのか、一緒に観察を楽しみましょうか」と言って、一緒に失敗を楽しむことにする。
私はあれこれ教えず、着眼点だけ示す。「ここ、どうなってます?」観察したままを答えてもらう。

「なるほど、ここは?」と、どんどん着眼点を示しては、観察結果を述べてもらい、私はその答えに感心し、ときに驚いて見せる。それを繰り返しているうちにやがて、「あ、ここがこうなっていたからこうなったんじゃ?」ということに気がつく。私は「よくそこに気づかれましたね」と驚き、次に。

「ではどんな工夫をしたらよいと思います?」と尋ねる。原因がわかれば、どんな工夫が必要なのか、皆さん見当がつく。私は「じゃあ、その仮説に基づいてやってみてもらえますか。失敗したら、また一緒に観察しましょう」と言って。

こうして何度も失敗をしたら一緒に観察することを楽しみ、どうしたら克服できるか仮説を立て、工夫を次回試してみる、という経験を繰り返すと、失敗を恐れなくなり、失敗しても観察を楽しむようになり、工夫を楽しむようになる。失敗しても、「また観察して工夫を考えればよいだけだ」となる。

失敗を楽しみ、工夫を楽しむようになれば、変化が当たり前となる。変化の中で過ごすのが当たり前となり、失敗しても慌てることなく、観察を楽しみ、次の工夫を試すのを楽しむだけ。変化が日常となり、変化の中で失敗と工夫を楽しむのが日常になる。うちのスタッフは全員その状態。

だとすれば、変化は簡単に起こせる。失敗を恐れないこと。むしろ喜ぶこと。また観察ネタができたと喜ぶこと。失敗しては観察することを楽しみ、観察から導き出された工夫を試してみるのを楽しむ。こうすると、失敗と工夫を楽しむから、常に変化することが当たり前となる。

変化を恐れている人は、別に既得権益を守ろうとしているわけではなく、いじられキャラのペルソナをついつい被ってしまった学生のように、未知の事態が起きたらどうしたらよいのかわからなくなるのが恐いから、失敗が恐いから、変化を拒絶せざるを得ないのだろう。でも。

失敗を楽しみ、工夫を楽しむようになれば、変化こそが日常となる。失敗は観察から得る学びの機会であり、新しい工夫を試せるチャンス。そう捉えられる日常を得たとき、変化は恐れるものではなく、日常楽しめるものになるように思う。

だから、失敗を楽しもう。観察を楽しもう。工夫を楽しもう。すると、変化は恐くなくなる。変化が日常になる。
そうすれば、既得権益などと相手を貶める必要はなくなるように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?