ユマニチュードの三つの特徴

慶応義塾大学病院でのユマニチュードの取り組みについて、拝聴した。研修で患者さんが激変したことに衝撃を受けた現場の看護師の方たちが、この感動を同僚と共有しようと活動しているご様子を伺って、大変興味深く思った。発表後、質問の中で考えさせられるものが一つあった。

職場に導入しようとした場合、「抵抗勢力」じゃないけれど、「なんでそんなのを導入しなきゃいけないの?」という反応に対して、どうしたらいいのか、という質問だった。ユマニチュードを説明しても、「今までの看護法と何が違うの?」と疑問を持たれることは少なくないという。

ネットで検索しても「患者中心の看護」というキーワードがたくさん出てくる。ユマニチュードは一見、これまでにもさんざん言われてきている「患者中心の看護」と何が違うのかわかりにくい。ベテランの方であるほど、話を聞くだけでは違いを感じにくいのも無理はない。

YouMeさん(社会福祉士の資格はもっている)と、ユマニチュードならではの特徴は何だろう?と話し合っていたところ、3つほど大きな特徴があるように思う。一つは「ラポール」、2つ目は「能動性」、三つめは「関係性」。この三つが、恐らくユマニチュードの画期性のように思う。

ラポールとは、親愛の情のこと。この人なら信頼してもいい、という感覚。ユマニチュードは、これを非常に意識的に構築しようとしている技術だと思う。
これまでの看護の技術は、もちろん患者を大切に考えてはいるのだけれど、患者とのラポール形成からはむしろ距離を置いてきた様子。

患者と変に親密になってはいけない、一定以上の距離を置かねばならない、という感じ。これはこれで大切なのだけれど、そのためにラポールの形成はおざなりだった気がする。健常者はそれでもかまわないと思うけれど、認知症が進んでいる高齢者の患者の場合、ラポールがないと。

見知らぬ人間からいきなり陰部を洗われて、尊厳をはぎ取られたという絶望感と憤りと、虚しさを感じることになる。看護師からすれば、患者に良かれと思ってやっていることではあるのだけれど、患者の同意なしにやってしまうことが、結果的に患者の怒りを誘発し、攻撃的な態度を生んでいるのかも。

ユマニチュードでは、患者のテリトリーに、礼儀正しく順を追って入っていき、相手の意志を無視することなく、尊重しながら近づいていく。そうすることでラポールの形成を成功させることを重視する。ラポールの形成なしに患者にあれこれ押しつけるようなことはしないようにしている。

これまでの看護法が、患者の健康、肉体的な健康に配慮はしても、患者の感情、心に配慮するという点が少し弱かった可能性があるようだ。その点、ユマニチュードはラポールの形成をまず行ってからケアをする、という姿勢がとても明確なように思う。

二番目は、患者の能動性が現れるまで待つ、という姿勢が、ユマニチュードではとても徹底しているように思う。従来の看護法は、患者によかれと思ってのこととはいえ、患者の了解を得ずにケアを始めてしまうことが少なくなかったらしい。何しろ忙しいから。時間がないから。

しかしユマニチュードでは「急がば回れ」という考え方をしている。時間がないからこそ、急がねばならないからこそ、患者から能動性が発生するのを待つ方が得策、という考え方。患者が非協力的な場合、寝ころんだまま清拭などのケアをすることになる。これだと、なかなかの重労働になってしまう。でも。

もし患者が協力的で、20秒でもいいから立とうとしてくれたら、体をふくことも非常に楽になる。早く仕事も済む。患者の能動性の発生を待つことが、結果的に仕事の質を高め、速度も早めるというとらえ方。これは、従来の考え方とかなり違う点ではないかと思われる。

三つ目の「関係性」も、重要だし面白いように思われる。実は、ユマニチュードでは「患者中心」という考え方はとらない、という。患者とケアする人間の間の「関係性」を中心にすえて考える、としている。これ、とても重要な気がする。

患者中心、という表現をしてしまうと、人間はどうしても「患者がご主人様、ケアする側は下僕」という印象を受けるし、思考回路もどうしてもそんな感じになる。「患者中心」をうたう記事を読むと、「プロとして」動くのも大切、という意見で補正はしているけれど、補正し切れていない感。

患者を中心に考えると、患者のわがままに振り回されかねない。それではいけないと補正をかけると、今度はケアする側の人間が中心になり、患者に不快なことを強いる形になりかねない。患者という「存在」、ケアする人間という「存在」を意識してしまうと、バランスをとるのが難しくなる。

「存在」に着目してしまうと、「この患者ななぜこうしてくれないの」と不満を持ってしまう。逆に「ケアする人はなんでこんなに横暴なの」と、逆に患者も不満を持ってしまうかも。「存在」を考えると、望ましい行動をとってくれない相手の存在に腹を立ててしまう。

しかし、ユマニチュードでは、相手の存在ではなく、相手との「関係性」に着目する。相手の目を見る。すると相手も自分のことに気がついてくれた!という「関係性」。手を握ってもいいですか?と声をかけ、下から支えるように持った時、握り返してくれた!という「関係性」。

こちらから、なるべく患者に楽しく心地よいアプローチ(関係性)を心がけ、それに対して患者がポジティブな反応(関係性)を返してくれる。そうしたポジティブな応酬で、関係性をより心地よいものに構築していく。そうした関係性を、ユマニチュードではとても重視しているように思う。

患者とのラポールの形成を重視すること、患者からの能動性の発生を待ち、その発生に「驚く」こと、相手の存在にではなく、相手との「関係性」を大切にすること、この三つがユマニチュードの大きな特徴であり、画期性のように思う。

そしてこの三つは、何も高齢者介護・看護に限らず、子どもにも、会社での部下育成にも通じる話のように思う。私の書いた部下育成本や子育て本は、「要するにコーチングでしょ?」と評されることがあった。でも、もしかしたらコーチングよりも、ユマニチュードの方が近いような気がする。

コーチングは、5W1Hのような「問いかけ」をする。言葉を重視した技術だと言ってよいだろう。他方、ユマニチュードは、言葉が通じにくくなった認知症患者のことも想定しているため、言葉以外の感覚を総動員した(言葉も決してないがしろにしてはいけない)技術になっている。

むしろ、ユマニチュードの方がコーチングよりも普遍的かもしれない、とさえ思える。コーチングはどうしても言葉に頼りがちで、それ以外のファクターがおろそかになりがち。実際には、人間は非言語コミュニケーションから多くの情報を受け取っているのに、そこは余り語られない。

しかしユマニチュードは、言葉も重視しているが、言葉以外のコミュニケーション方法も総動員するところが大きい。言葉になっていなくても相手に伝わること、というのをとても重視する。たとえば、患者が寝ていてケアする側が見下ろせば、支配関係という無言のメッセージが伝わってしまう。

認知の弱っている人は、認知できる視界が狭いため、距離のあるところから、患者の視界に入り、徐々に近づいて行って、相手の正面に、相手の目線の先に自分の目を置いて対する。そうすると驚かれずに済み、認知してもらいやすいという。こうした非言語コミュニケーションが徹底している。

ユマニチュードを学ぶと、コーチングが上手くいかない人にも参考になるように思う。おそらく、コーチングが上手くいかない原因の一つに、非言語コミュニケーションでのメッセージの送り方にまずさがあるように思う。非言語コミュニケーションは、非常に大きなメッセージを相手に伝える。

たとえば、スマホを眺めているようでも、音がしたらそっちに視線を送るようなら、「あ、自分のことを見てくれているな、アンテナ張ってくれているな」と感じる。しかし、声をかけてもスマホを眺めたままだと「自分を無視しようとしている」という拒絶感を感じる。

言葉にならなくても、そうした素振りで相手は膨大な情報を感じ取る。それで相手との関係性を確認する。自分と良い関係性を維持しようとしているのか、あるいは放棄しようとしているのか、それを察知する。これはほとんど、非言語コミュニケーションで決着がついてしまうと言ってよいだろう。

ユマニチュードは、こうした非言語コミュニケーションを、言葉とひっくるめて重視し、患者との関係性構築を目指そうとする。そういう意味では、コーチングよりもさらに踏み込んだ技術のような気がしている。

ユマニチュードの本は、「ユマニチュード入門」、「家族のためのユマニチュード」、「ユマニチュードという革命」、「ユマニチュードへの道」の4冊を読んだけれども、どれも非常に興味深く読んだ。YouMeさんからは「珍しくケチをつけないね」と言われたほど。

たぶん、人間という生き物への接し方、という点で、ユマニチュードは非常に忠実で、普遍的なためだと思う。現在は、ユマニチュードは高齢者向けの看護の技術だけれど、これは、人間関係の様々な分野に応用できる技術だと思う。これからしばらく、研究しようと思う。

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