「自己の確立」という呪い

以前、「ためしてガッテン」で、慢性痛に対し面白い治療法が紹介されていた。回覧板(クリップボード)。
痛み、と書いた紙を挟んだクリップボードを患者に見せ、「これを痛みだと思って、力づくで痛みを押さえ込んで下さい」と伝える。クリップボードを押さえる患者、裏から押し返す医者。

「もっと強く!ふだん、慢性痛に対して思ってる願いのように!」患者は力いっぱい押す。負けじと押し返す医者。
ある程度経ったとき、「どうですか?」と医者が聞くと、患者は「疲れてきました」。「どうしますか?」「痛みを抑えようなんて思わず、他の景色でも見た方がマシですね」

この治療(?)を受けると、多くの患者が快方に向かうという。痛みはあるにはあるのだけど、痛みばかりを見つめるのをやめ、目の前の景色や出来事に気を逸らすしかないと観念したら、時折痛みを忘れられるくらいの気にならないものになっていくらしい。

どうやら、慢性痛の中には、脳にある種の「回路」ができあがっている場合があるらしい。痛みの部位から届く信号を「また痛みではないか?」と過敏に感じ取り、痛みを感じる回路がそれを増幅し、痛みとして感じ取る。それを何度も何度も繰り返すから、その回路の神経回路ができあがってる。

痛みばかりをジッとみている間は、その痛みを感じ取る回路は何度も使われるのでどんどん増強。ますます敏感になり、少し触れた感覚があっただけで痛みだと感じてしまう。
しかしクリップボード法を経験した後だと。

あれだけ必死に抑え込もうとしても痛みがぶりかえしてきた(実際にクリップボードを押し返していたのは医者だけど)経験から考えると、抑えようというムダな努力は諦めよう、と考えるようになること、何よりクリップボードは小さく、周りはもっと大きい景色が広がっていることに気がついたこと。

痛み以外にも目を向けてみよう、と思えるようになって、日常の出来事、目の前のことに意識をシフトされていくうち、脳の中にできた痛みの増幅回路をたどることが減り、そのうち神経が少しずつほどけ、痛みを気にならない程度のものにしていくらしい。

PTSDの治療法でも似たようなのが。PTSDは、昔のつらい記憶が何度もフラッシュバックして、奇声や過呼吸などのパニック症状を示すもの。
その治療法は。なんと、左右に動く光る点を目で追いかけるというもの。

PTSDの原因となった出来事を、左右に動く点を目で追いかけながら思い出してもらう。普通ならパニックを起こすはずなのに、点を目で追いかけるのに必死で、まさに「目を奪われて」、過去の出来事に意識を集中できない。この治療を繰り返すと、パニックを次第に起こさなくなるという。

これも恐らく、パニックを起こす脳内の神経回路をほぐすことに狙いがあるのだろう。悩みをジッと見つめてしまうと、何度も繰り返し考えてしまうものだから、悩みを高速で繰り返せるよう、そのための神経回路ができあがってしまう。「あの時ああすれば」「でもあれがどうしようもなかった」「でも」

しかし光る点を目で追いかけながら思い出すことを治療で繰り返すうち、同じ悩みを効率よく繰り返す神経回路が次第に脱線しだし、サーキットでなくなっていくのだろう。
クリップボード法も、光る点を追いかけさせる方法も、共通するのは「視線を逸らす」ということ。

私自身が悩み、相談事に乗ってきて感じる、「視線を逸らす」方がよいな、と思うのが、「自分(自己)」という枠組み(思枠)。
よくある自己実現セミナーなんかが典型的だけど、自己さえ確立すれば、自己さえしっかり立て直せば、すべてはうまくいく、という思い込みが現代人には生まれやすい。

でも、悩みの多くは人間関係。自分と他者との関係性。関係性に着目せずに「私の性格がいけないんだ」とか、自分の性質の悪さを追究しても仕方ない。さりとて、すべて相手のせいにするのも生産的でない。自分の「存在」、相手の「存在」、それぞれを云々しても仕方がなくて、「関係性」の方が大切。

アメリカでは世論を二分する中絶の問題。議論をしても全くの平行線で、議論がかみ合わない。
互いの意見と正当性、相手の意見の不当さを主張するだけでは、自分を正義、相手を悪、と存在を決めつけるだけに終わってしまいかねない。しかし。

なぜ中絶に賛成するに至ったのか。あるいは逆に反対するに至ったのか。それぞれの個人の体験を語ってもらうことに。他の人はそれに耳を傾けるように。するとそれぞれにつらい体験、苦しんだ出来事があり、なぜ中絶に賛成、あるいは反対するようになったのか、皆が理解できるようになった。

自分の賛成反対の意見は変わらなくても相手がなぜそう考えるかが理解できると、関係性が変わる。すると、意見の違いを超えて交流できるようになる。自分の主張をするのではなく、自分の物語をしてもらう、相手の話に耳を傾けるという「手法」を変えたことで、関係性が変わる。深い理解が進む。

「自分(自己)」にあまり意識が集中すると、罠にはまったようにその外に思考が出なくなる。自己という「思枠」の中に閉じこもってしまう。多様な試みが難しくなる。悩みを改善するのに、案外「自分(自己)」というこだわりから離れてみるとよいことがある。

先日、自己を意識しすぎるとよくない、と指摘したのもそのため。自分の悩みばかり見つめず、いろんなことを多面的に見る。場合によっては「視点を逸らす」だけでなく「視座をずらす」。

自己、自己、自己、自己、意識しすぎ
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「自己の確立」は、近代合理主義が生んだ「呪い」の一つ。その呪縛からいかに解き放つか。それには、「自己も、他者との関係性のおかげでおぼろげに輪郭が見えてくるくらいの、結構いい加減なもの」であるという認識を持ち、自己にこだわらず、様々な角度、視座から考え直すようにした方がよい。

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