私なりのアンガーマネジメント:祈り、観察し、待つ。驚き、喜ぶ。

「正義」を「怒っていい口実」に使わない、ということを書いたけれど、人間は怒るもの。怒りたい。どこかに怒りをぶつけたい。だから、「正義」なら怒ってもいいだろう、と自分に許してしまう。しかし基本的に、怒りというのは良い結果を生まないな、というのが正直なところ。

いい結果を生まないから怒らないでおこう、と思ったところで、腹が立つものは腹が立つ。どうしたものだろう?ひところ、アンガー・マネジメント(怒りのコントロール)というのが流行った。怒らないようにするためのいろんな工夫が説かれていたけれど、そうはいっても腹が立つものは腹が立つ。

「ためしてガッテン」という番組で、怒りの感情をコントロールできるお坊さんは怒らないのだろうか、という実験が行われたことがある。喫茶店に入り、コーヒーを頼むと、ウェイターが「承知しました」。しかし一向にコーヒーは来ず。あまつさえ、ウェイター「何をご注文でしたでしょうか?」

そんなやりとりが4回ほど繰り返されたが、お坊さんは苦笑こそしたものの、笑顔で「コーヒーです」。そこで実験終了。番組スタッフが「なぜ怒らなかったのですか?」と尋ねると、「自分にはどうしようもないことですし」という回答。へええ。

野球の松井秀喜氏が、当時マスコミからバッシングを受けていた。その時、記者の一人から腹が立たないのか尋ねられて「私にはどうしようもないことですから、自分のプレーを一つずつ丁寧にやっていくだけです」と回答。ほおお。

仏教は、感情のコントロールを修行の一環として行っている。特に上座部仏教は、怒りのコントロールを大切な修行の一つとしてとらえている。それによると、怒りは「期待」から生まれるという。「こうしてくれればいいのに」「これはあいつの仕事なのに」「どうしてこうすべきなのがわからないのか」

だから、期待しないようにすれば腹が立たない、という。しかし厄介なのは、「期待しない」はしばしば、心の中で見捨てる、吐き捨てるということになりがち。「どうせあいつはやりはしない」「あいつは愚かだからわからない」「世の中ダメな奴ばかり」ペシミスティックというか、退廃的というか。

人間って、「~しないでおこう」というのは、大概うまくいかない。「よそ見しない!」と言われても、ついつい見ちゃう。「気にするな!」と言われれば言われるほど、気になってしまう。「~するな!」「~しないでおこう」は、だいたい無駄な努力に終わる。「期待しない」もその類だろう。

期待しないでいようとしても、ついつい期待してしまう。そして腹が立つ。いやいやいかん、期待してはいかん、と思い直し、今度は相手を心理的に見捨てる。愚か者だと切り捨てる。しかしそういうマイナス感情は相手に伝わり、相手はますます、期待を裏切る行為に出て苛立たせることが多い。

「怒らない」「期待しない」は、「~しない」の類で、うまくいかない。うまくいっても一時的。いったいどうしたらよいのだろう?
ガルウェイ「新インナーゲーム」に面白い事例が載っている。テニスを習い始めた生徒を指導している際のエピソード。

バックハンドでうまく球を返せるようになった生徒に「上手になったね」とほめたとたん、ホームランを打つように。「そうじゃないよ、さっきはこう打っていたよ」と指導すると、指導すればするほど動きがぎこちなくなり、まったくコート内に球が入らなくなり、生徒は頭真っ白、虚脱状態。

そこでガルウェイ氏は声のかけ方を工夫してみた。「ボールの縫い目を見て。スローモーションでも見るような気持ちで、縫い目が動くのをよーく見て」。フォームや打ち方の指導は一切せずに、ただボールの縫い目を見るように言うと、バックハンドが再び上手に打てるように。

ガルウェイ氏の工夫は、「~するな」ではなく、「ボールの縫い目に注目しろ」と、目標を明確に示した。こうした目標がはっきりしていると、比較的実行しやすい。「~するな」「~しないでおこう」は難しいが、別ごとで「~しよう」は容易。

過去のショックな出来事の記憶に悩まされ、時折思い出してはパニックになる症状としてPTSDがある。「嫌な記憶を思い出すな」と言ったって、そうはいかない。しかしここで興味深い治療法がある。左右に動く光、あるいは指先を目で追いかけながら、過去の出来事を思い出すという治療法。

治療者は被験者に、必ず光を目で追うように言われる。被験者は光を目で追うのに必死になる。そんなときに過去の出来事について問われると、目を動かすことに意識が割かれているためか、感情の爆発が起きにくくなり、冷静に思い出すことができる。やり取りを重ねているうちに。

過去のイヤな記憶も、こう考えてみればまた別の面もあるかも、と、それまでにはなかった思考回路が生まれるようになり、嫌な出来事の記憶も、冷静に取り扱える記憶の一つとして処理できるようになっていくという。

このように、「~するな」「~しないでおこう」というのは、「しない」だけを決めていて、何をするのか決めていないから、かえって気になることがますます気になる。嫌なことだったり、人の欠点だったり、期待したいことだったり。それでますます腹が立つ。怒りたくなる。

じゃあ、どんな「~する」を導入すれば、「期待しない」を実現できるのだろう?私は、「祈る」と「観察する」ではないか、と考えている。
赤ちゃんの健やかな成長を親は願うものだけれど、言葉を教えることもできないし、ハイハイを教えることもできない。ただひたすら「祈る」しかない。

そして、今日はどんな様子だろう、と「観察する」しかない。しかし観察していると、昨日まで首が座っていなかったのに、なんだかちょっと力強くなったような。寝返り打てなかったのが今日初めて寝返り打てた!ついにハイハイで移動成功!前にじゃなくて後ろにだけど!

こうして「観察する」と、昨日と今日の「差分」が見える。変化が見える。すると、それなりに楽しい。また、観察していれば、まだハイハイもできていない赤子が立てるはずがないと思うし、ハイハイで腕力がついていないと、もし立って転んだ時に、顔を強打してしまう危険も理解できる。だから焦らない。

焦っても仕方ないと見守り(観察し)、祈る。すると、ある日、言葉を発する。あるいは、ヨロヨロと立ち上がる。教えもしないのに。いや、教えることなどできないのに。赤ちゃんが、自分の力で変化を勝ち取る。親ができるのは、祈り、観察することだけ。そして事後に、驚き、喜ぶだけ。

そのことに気がついて、私は「期待する」かわりに「祈る」、「観察する」を採用するようになった。どうかこの子どもが、この人が、いつか自分で気がつき、自分で成し遂げますように、と祈る。祈りつつ、観察を続け、「あ、ここが欠落していたら前に進めないな」と気がついたら、そっとそれを補う。

しかし、補うと言っても、それは本人次第。補われたことにも気づかないかもしれないし、気づいても、嫌がるかもしれない。それも本人次第だと任せ、あとは祈り、観察を続ける。するとある日、自ら動き出す。そして今までできなかったことができるようになった時。

「やったあ!」と驚く。一緒になって喜ぶ。そうすることで、喜びを共有する。できなかったことができた時、知らなかったことを知った時、人は、その驚き、喜びを共有したくなる。その共有先としていつでも動けるように、「観察する」ことでスタンバイしておく。

そうすると、「人は動く」のだと思う。D.カーネギー「人を動かす」という邦題の名著があるけれど、私は、この本の内容を読むと、「人を動かす」のではなく、「人が動く」なのだと思う。人がどう動くか、私たちはどうしようもない。その人がどう動くかは、その人次第。

私たちはただ祈り、観察することができるくらい。たまに、観察することで補填が必要だと気づいたら、それを補填しておいて、あとは再び待つばかり。あとは本人が動き出すのを待つしかない。そして本人が動き出したとき、驚く。面白がる。喜ぶ。

事前には「祈る」「観察する」。事後には「驚く」「喜ぶ」。こう考えると、人に期待せずに済み、腹を立てずに済み、怒ることも非常に少なくなった。観察していれば、「ああ、この人はこう考えているから高校どうするんだな」ということがよくわかり、こちらに都合の良い行動と距離があることが分かる。

こっちに流れてきてくれると嬉しいな・・・と思いながら溝は掘るけれど、その溝の中に流れてくれるかどうかは、相手次第。ただ、観察を続けていると、溝の掘り方がうまくなる。水たまりの水を意図する方向に流すには、溝の深さを少しずつ低くすることが必要なのもわかってくる。それと同じように。

「この人はこういうのが好きで、こういうのが嫌いだから、こういう溝を掘れば、いつか気が向いた時、この溝に沿って進んでくれるかも」と祈ることはできるようになる。すると、その人自身は自ら望んで溝をたどるようになる。大切なのは、上手に掘った溝。

溝に沿って動いてくれなかった時は、もう一度観察する。観察すると、「ああ、なるほど、この溝だと進まないや」と気がつく。すると、腹も立たない。もう一度溝の掘り直し。そうしたことを繰り返していると、だんだん、人が自然に動き出す工夫というのがうまくなってくる。

祈ること、観察すること、そして待つこと。これを、「期待する」の代わりにやるようにすると、期待せずに済む。期待しないから腹を立てずに済む。期待しないからと言って、相手を見捨てたり切り捨てたりする必要もなくなる。相手次第でありながら、腹も立たなくなる。

そして相手が自発的に動き、変化を呼び起こしたとき、驚き、喜ぶ。すると、不思議なもので、人は驚いてくれた人、喜んでくれた人がまた驚くようなこと、喜ぶようなことをやってみせようとするようになる。それが結果的に、こちらに望ましい行動に変化していく。こちらを喜ばすために。

祈る。観察する。待つ。これが、事前に心がけること。そして事後には、驚く。喜ぶ、あるいは面白がる。
すると、「人は動く」のだと思う。
「人を動かす」ことができると思うから腹が立つ。しかし私たちには、祈り、観察し、待つことしか、事前にできることはない。あとはわずかばかりのアシストのみ。

「人を動かす」のではなく、「人は動く」のだということを、観察から思い知っていれば、腹も立たない。私のアンガー・マネジメントは、祈り、観察し、待つ、ということに「視線をそらす」ことで達成できているように思う。

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