「問いかけ」、「能動性が出現した奇跡に驚く」

私が「驚く」ようになったのは、ある学生との出会いがきっかけだった。その学生はすでに2回も卒業の機会を逃していた。卒論の時期になると大学に来なくなるから。
その学生は、何を問いかけても気のない返事。「はあ」「わかりません」意欲や能動性というものが一切欠如していた。

それまでの指導教官によると、あまりにも無気力なので仕方なく、あれをやれ、これをやれと指示を出すのだけど指示以下のことしかできず、しかも来なくなるのでお手上げだったという。私は、能動性、意欲を取り戻さないと話にならないと思い、まずはそれらを取り戻すことから始めることにした。

とある実験結果を示し、「これ、何か気づいたことある?」と尋ねた。「わかりません」という無気力な返事。しかしそれは織り込み済みなので「うん、僕もわからない。何しろ僕も初めて目にする結果だから。分からない者同士、気づいたことをともかく列挙してみよう。ここはどうなってる?」

具体的に着目ポイントを指差すと「・・・こうなっているような」と、オズオズながら答えてくれた。私は、自分が見たことを自分の言葉で示してくれた能動性の出現に、その奇跡に軽く驚き、「お、そうだね。じゃあここは?」と、次々に見たままを答えてもらった。すると。

同じものを見ていても、私とは違う着眼点や表現で答えてくれることが出てくる。「それには気づかなかったな。他にも気づいたことがあったらどんどん言ってね」指導者も気づかなかったことを指摘できたという達成感で少し嬉しくなるのか、オズオズしたところがなくなり、積極的に発言するように。

その後も、その学生が能動的な反応(自分から動き出す)を見せたら明るく驚く、ということを繰り返していくうち、能動性、意欲を取り戻していき、一ヶ月ほどで私が聞かなくても自分から「これはこうなっていますね」と発言するように。3ヶ月もすると「この実験をすると面白そうなのでやらせて下さい」と提案するように。

卒業するどころか修士課程にも進み、立派な研究成果を出し、一部上場の企業に就職した。
その学生に私がしたことは「問いかけ」と「驚く」ことだけだった。問いかけて反応を待ち、その反応がどんなものであれ、本人が能動的に動いた「奇跡」だと捉え、驚いた。

驚くことで、能動的に動くことが楽しくなるように、と祈りをこめて。能動的に動くことが楽しくなれば、意欲を取り戻せるのではないか、という祈りをこめて。すると、その通りになった。枯渇していると思われた能動性、意欲が回復し、自分で考え、自分から働きかける人間に変わった。

以後、「問いかけ」と「能動性が起きた『奇跡』に驚く」のを、学生だけでなくスタッフや子どもたちに適用してみると、みんな能動性と意欲が高まり、楽しそうに取り組むようになることに気がついた。

能動性、意欲を取り戻すと、興味深いことに観察力、思考力、学習能力が高まることに気がついた。これはどう料理してやろう?という能動性が観察力を生み、仮説を立てては試行錯誤することが楽しくて考えることが多くなり、ヒントになるものを探していろんな学習をするように。

すると、ろくに教えなくても勝手に能力を高めていった。
「なんだ、能動的に動くことが楽しくなるように、こちらが能動性が見えたら驚くようにすれば、能動性と意欲は高まり、だから学ぶことが楽しくなり、問題解決能力も高まるのか」と気がついた。

果たしてその人がどこまで学ぶつもりかはその人次第だが、能動性を取り戻す前と後では、能力の伸び方が大幅に違うように思う。楽しいから積極的に取り組み、積極的だから観察力も学習能力も飛躍的に高まる。問題解決能力も大幅にアップする。

「ほめる」よりも何よりも「驚く」は伸びる、と私は考えている。「ほめる」は、たとえ「結果」ではなく「プロセス」をほめたとしても、外面的に起きた現象(机に向かっていたとか)に着目しがち。そのために、勉強してるフリ、机に向かってるフリ、プロセスを頑張ってるフリを誘発しやすい。

「能動性に驚く」は、外目の形に一切囚われず、本人の中に能動性が現れた奇跡に驚く。現れないのがデフォルトだから、もし現れなければなんとも言わない。ただ、祈るような気持で待っていると、ふとした拍子に能動性が現れる。その奇跡に驚くと、能動性が生まれる確率がどうしたわけか高まる。

それは恐らく、人間は「驚かす」のが大好きだからだろう。自分の能動性で驚く人が入ることに気がついたとき、嬉しいから能動性が発生しやすくなる。
でも基本、「驚く」のは待ちの状態。待たずに引っ張り上げようとしたら、それは能動性ではなく受動性になってしまう。

「驚くようにしたら、子どもたちが実に楽しそうに、積極的にいろんなことに取り組むようになった」という声を時折寄せて頂く。よかった、と思う。
ちなみに、能動性は24時間発揮できない。人間は疲れるから。遊びたいし、気晴らしもしないと笑顔を失う生き物だから。

笑顔で楽しく取り組むことで初めて生まれるのが能動性。だとしたら、楽しさを決して失わないように配慮する必要がある。楽しさからしか能動性は生まれない、という点を押さえておけば、「もっとやったらすごい結果が出るのに」という欲をかくことはなくなるように思う。

楽しさの中から能動性と意欲は生まれ、能動性があるから観察力、思考力、学習能力は高まる。ということは、最初の基礎は「楽しさ」にあるように思う。能動的に動くことが楽しくなる構造、環境をいかに用意するか。それが指導者の仕事なのかもしれない。

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