行動する前に行動を決めている「思枠」

子育て本には、あれやっちゃダメだ、これやっちゃダメだ、ということが書いてある。そうだ、怒っちゃだめだな、アンガーマネジメント(怒りの制御)というくらいだし。そう思って我慢していると・・・こんなん許せるかあ!怒らずにいられるかあ!と爆発、むしろ我慢していた分、怒りが制御できない。
何をしちゃいけないかは書いてあるけれど、どうやったらそれを実践できるのかが書いていない。それが、若い頃の私の不満だった。いわば、プロのテニスプレーヤーが見事なサーブを打って見せて「こうすればいいんだよ」と言われた気分。いや、どうやったらそれをマネできるねん。
物知り顔な人は、本に書いてあることを丸暗記して「ああすべき、こうすべき」と説教垂れるのだけれど、いや、それどうやって実践できるの?というところが抜け落ちている。だいたい、そういう人は自分は実践できていない。これはビジネス記事にも言えて、「それができたら苦労しないね」と感じる。
私は、「思枠」が邪魔していることが多いんじゃないか、という仮説を持っている。同じ場面になると同じ行動パターンをとってしまう。この場面では怒っちゃダメだと自分を強く戒めたはずなのに、また怒っちゃったと反省することを繰り返すのは、「思枠」をそのままにしているからかも。
人間はどうやら、何かの行動をとる前に、無意識のうちに「思枠」を設定するらしい。重そうな荷物だな、と感じたら、無意識のうちに全身がそれに備え、想定外に軽い荷物だとすっぽ抜けることがある。逆に軽い荷物だと思って緊張が緩んでいると、腰を痛めたり。
「思枠」は五感にも影響を与えるらしい。食べようとするものが甘いものだと思ってしまった場合、味覚は甘いものを味わう準備をしてしまう。結果、しょっぱかったり辛かったりすると、落ち着いて味わいさえすれば本来はおいしい味付けであっても、なんだこりゃ?まず!となる。
この「思枠」の問題は、子育てでも大きな影響を与える。子どもが宿題をやらなくても、やかましく言っちゃダメだ、怒っちゃダメだ、と思っていても、無意識のうちに準備してしまっている「思枠」がそのままだと、親がどんどん不機嫌になっていく様子を子どもは敏感に感じ取る。ますます宿題が億劫に。
子育て本の言うとおり、宿題をやれと言わないようにしているのに、怒らないようにしているのに、子どもは一向に宿題しようとしない。子どもは子どもで、親が口にこそしないけれど、宿題しないことで不機嫌になっていることに気づき、ますます宿題をやることに気が重くなる。ガマン合戦。
なぜこんなことになってしまうのか?それは「子どもは宿題をするのが当たり前」という期待を「思枠」として無意識に抱えてしまい、その「思枠」に何の変更も加えていないからだ、と私は考えている。表面上、言わないようにしたり怒ったりしないようにしても、「思枠」がそのままでは事態は変わらない。
親は「宿題するのが当たり前だ」という「思枠」を持っている、子どもはそれを感じ、親の思い通りに操られることに気が重くなる。「宿題をするのは当たり前であり、子どもの義務であり、そこに一切の言い訳は成り立たない」という「思枠」が、親も子供も、特定の行動に誘導してしまう。
私の書いた子育て本や上司本は、「思枠」をずらすことを主眼に置いている。たとえば宿題に関しては、「一切やらなくて構わない、やらなかったら親が先生に謝ればよい」という「思枠」にスライドしてみる。宿題をしないのが当然だから、腹が立たなくなる。最初から謝るつもりだから、苦にもならない。
そうした「思枠」の中だと、子どもは不思議な行動をとる。そうはいっても学校では宿題をするように言われているから、子どもも気になっている。親から宿題をやれといわれなくなってしばらくすると、親は何も言わないのに宿題を子どもが自分から進んで取り組むという現象が出現する。
そのたまたまが起きた時、驚く。「あんた、親が何も言わないのに宿題やるなんて、偉いねえ、大したもんだ!」すると、子どもは得意げになる。しなくてよい宿題から逃げなかった自分。そんな姿を見せることで親を驚かせた誇らしさ。宿題がちょっと楽しいものになる。
ここで、親の側に「宿題やれよコラ」みたいな期待が残っていると、「驚く」ではなく皮肉を言ってしまうことがある。「あら、宿題をやるなんて珍しい。雪が降るんじゃないかしら」こんなことを言われたら、子どもは辟易して、もう二度と宿題なんか自分からするもんか、と拒否感が出る。
子どもが宿題をすることを期待せず、しかし期待しないからと言って子どものことを「どうせ言わなければ、あるいは言ってもやらないヤツだ」とこき下ろすような「思枠」を持つのでもなく、「自分とは違う人間をどうこうできるはずはないよなあ」という「思枠」を持ち、かつ。
どうか、自分の力で自分の道を切り開いていく子に育ちますように、と「祈る」。それは、言葉も話せなかった赤ちゃんに祈った時のように。立つこともできなかった赤ちゃんに祈った時のように。実際、その時も親は何もできず、子どもが自分の力で切り開くしかなかったときのように。
でも、親ができることがある。「驚く」こと。赤ちゃんが初めて片言の言葉を話した時、「いま、しゃべったよね?言葉を言ったよね?」と驚き、大興奮するように、初めて立った時、「立った!立った!」と驚き大喜びするように。子どもは、赤ちゃんの頃から、自分の成長で親を驚かすのが大好き。
ならば、親は、「驚く」ことができるマインドセット(「思枠」)を備えておく方がよいだろう。子どもに特定の行動をとるよう期待して、イライラしたり、不満になったり、怒ったりするのではなく、子どもが自らの力で成長することを祈り、そして何かを乗り越えた時、驚くようにすること。
我が家では、しばらく息子が宿題をやらない時期があった。YouMeさんと相談し、「宿題はやらなくていい、むしろやる方が不思議なものだ、という心構えでやってみよう」と決めた。先生には、宿題をしなければ謝る、ということで腹をくくった。するとある日、自分から宿題を始め、済ませてしまった。
親が何も言わないのに自分から宿題を済ませたことに、YouMeさんも私も驚き、感嘆した。すると息子は、「宿題をしたら親を驚かすことができる」ことを知り、宿題を知らないうちに済ませて親を驚かすようになった。宿題が楽しいものに変わったらしい。
たまに、宿題をしない日がある。でも、YouMeさんも私も何も言わない。大人だって、今日はどうしても気分が乗らない、仕事したくない、という日がある。まだ職場にいる間は仕方ないとしても、家に持ち帰って仕事?ああ、もうやめやめ!となる日がある。子どもだってそう。
だから、宿題をやらなかった日は先生に親から「すみません」と謝る。すると、息子は元気を回復した日、ノリノリで宿題をし、私たち親を驚かせる。わお!息子は、親が驚くのがことのほか楽しく、誇らしいらしい。
たとえ我が子であっても他人、他人を命令して動かそうなんて無理がある、本人が自分で道を切り開いていくしかない、という「思枠」、しかしもし切り開く勇気を持ってくれたらいいな、という「祈り」に近い「思枠」、それを持っていると、「驚く」ことができる。
子どもは、驚かすことができるなら、宿題さえ楽しいものにしてしまう。どうやらこれは子どもだけでなく、高齢者になってもそうであるらしい。自分が能動的に動いたことで誰かが「驚く」ことは、いくつになっても非常に楽しく、ワクワクすることであるらしい。
非常に攻撃的で言うことを聞いてくれない、手を焼くご老人がいたのだけれど、ユマニチュードの名人がそのご老人に対すると、自分から起き上がろうとし、立とうとし、笑顔を見せて、周囲の人を驚かす、というのをテレビで見たことがある。
ユマニチュードでは、高齢者が不安を感じずに済むような形で触れ合い、見つめ合う。そして高齢者が何か能動的なアクションをとった時、目を丸くして喜ぶ。すると、自分が能動的にふるまうとこの人は驚いてくれる、と気づいた高齢者は、もっと驚かそう、とますます前向きになるらしい。
自分が期待したり命じたりすることは、相手を「受動的」な立場に置いてしまう。そして大概、期待の方が高すぎるので、期待値までに達しない行動だと不満を持つ。このため、子どもや部下はやさぐれて動かなくなる。動いても指示待ち人間になってしまう。
しかし、あれこれ言わず、けれど能動的なアクションをとった時に目を丸くし、驚いてくれる場合、もっと驚かせようとさらに能動的になる。その能動性は、相手に気持ちよく驚いてもらおうというものがほとんどなので、さらにどんどん驚くことになり、良好な関係に持っていきやすい。
私がおすすめの「思枠」は、他者はこちらの思い通りには決してならないのだ、という一種の諦め、そしてこちらのためには動いてくれはしないというあきらめを持ち、そのうえで「相手がどうか自分の力で自分の道を切り開いていきますように」と祈る。すると、「驚く」ことが容易な「思枠」になる。
私は、どうしても同じパターンの行動をして同じ失敗をしてしまう場合は、その行動パターンを生む前提、原因となっている「思枠」が何かを見つめなおす。そしてその思惑を微妙にずらしてみる。すると不思議なもので、言葉も行動も変化し、結果も変わってくる。
最初に書いた上司本、次に書いた子育て本は、上司として、親としてやってしまいがちな失敗はどんな「思枠」から出発しているのか、ではどんな「思枠」にずらせば別の行動パターンを引き出せるのか、ということを念頭に置いて書いた。しかし当時はまだ、「思枠」に気づいていなかった。
しかし、行動の出発点となる「思枠」さえデザインすれば、私たちは行動の改良をかなりスムーズに進められるようになる、ということに気がついた。それが4冊目の本「思考の枠を超える」。まだ粗削りだが、「思枠」の言語化にはある程度成功できたかもしれない。https://www.amazon.co.jp/%E6%80%9D%E8%80%83.../dp/4534057717
もしあなたが、自分の行動を改めたいと考えている場合、行動を改める前に、その行動の基礎になっている「思枠」に変更を加えてみるとよいと思う。そして変更を加える際の大前提。自分が納得できるずらし方にすること。納得いかないと、無意識が勝手に元の「思枠」に戻してしまうから。
そうした「思枠」の設定方法を、私が経験の中から思つく限り紹介したのが、上で紹介した本。もし、自分の不器用さに参ってしまっていたり、行動を変えたいのに変えられない人がいたら、それは私と同じ。いちど、試してみていただきたい。ちょっとずつ、でも確実に変わっていくから。

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