求道者的指導法は指導者の自己承認欲求?

YouMeさんがある日、Eテレ(NHK教育)でとんでもないのがあるらしい、というので見てみた。とんでもなかった。姫路城が歌いながら踊りながら男の子とデートしようとするという意味不明なアニメ。どうしたEテレ?!何したいのだEテレ?!その後も絵画オフィーリアが背泳ぎしてイルカと友達になったり。

世界の名画、美術作品をおちょくる「びじゅチューン」に、家族全員ハマった。名古屋に井上亮さんが来るというので家族で申し込み。そうしたら、北海道からかけつけたという強者まで。タイトルを聞いただけで「ああ、あれね」というささやきが会場に。それに気づいたみなさん、爆笑。

芸術作品をおちょくりまくるこの作品で、美術館になんか関心のなかった子どもたちが行きたがり、そこから派生して様々な芸術作品に興味を持ち、専門的な知識にも関心が広がったり。そんな感想が会場から寄せられ、いかに「びじゅチューン」が愛されているかが分かった。

芸術界はさすがに、おちょくられまくりだからお怒りではないかと思ったら、子どもたちが芸術作品に興味を持つきっかけとなり、真剣に学ぶ子も続出しているので、大歓迎だとか。芸術への敷居を下げた「びじゅチューン」の功績は非常に大きいように思う。

ニュースで「刀剣女子」というのが話題に。最初は何のこっちゃ、と思ったのだが、歴史上の名剣をイケメン男子に人格化したゲームがあるらしく、それが女性に人気があるのだという。そのゲームで興味を持った女性たちが本物の名剣を見に美術館を訪れ、趣味が高じて鉄の精錬技術も勉強したりとか。

かつて、お勉強や芸術作品は「お高くとまる」というのは作法だった。庶民の手の届かない高貴なものである、というのがスタイルだったのだが、そのせいで庶民からは遠いもの、親しみづらいものになっていて、やや距離を置かれるようになってきていた。

しかし、Eテレはそれではいけない、と気づいたらしい。ともかく親しみを持ってもらう。楽しんでもらう。入口さえ親しみやすく、楽しいものであれば、子どもは(あるいは大人も)勝手にのめり込み、学んでいく、ということに気づいたらしい。そうした番組作りがEテレでは目白押し。

私は、様々な分野に「びじゅチューン」化が進めば面白いかも、という仮説を持っている。親しみやすく、楽しければ、子どもは、人は、のめり込む。集中する。反復も楽しい。それが大切なのではないか、と。

ピアノは多くの子どもがあこがれる学びの一つでありながら、少し親しみづらい指導方法がまだ主流として残っている気がする。ピアノの指導法は、まだまだ研究の余地が残されている気がする。まあ、私はピアノなんて弾いたことないけど。「意欲」を高める点について、少し残念。
https://note.com/shinshinohara/n/n4d671cb1e981

音楽は音楽であるというだけで実は親しみやすい分野。楽器を楽しめたら人生楽しかろう、と思う。けれど、なんか途中でくじけるポイント多すぎやしないか、というのが気になる。もっともっと、楽しんで取り組む方法がある気がする。

私が子どもの頃は、たとえばバレイのアニメで「血染めのトゥーシューズ」が象徴的だった。どんな苦しい鍛錬も乗り越えて、プリマドンナの道を!みたいな。そういう求道者的指導法が、まだまだ残っている分野が多数ある気がする。

でも、私が思うに、昔、どんな分野でも求道者的鍛錬が流行っていたのは、実は「そっちの方が楽しいから」だったのでは?という仮説を持っている。昔は日常生活自体が苦しくて、習い事で苦しくても、生活に役に立たないことに取り組めるだけ贅沢だったから、求道的苦難が苦にならなかった時代でもある。

そして、求道者的な生き方をしている自分に陶酔できた時代だったような気がする。つまり、陶酔するという楽しみのために、求道者的鍛錬が課されていた、という気がする。でも、今の時代にはウケない楽しみ方。というより、つらいだけ。

たぶん、昔ほど求道者的鍛錬が流行らない原因は、世代交代。今も求道者的鍛錬が残っている分野の指導者は、まさに求道者として生き残り、勝ち残ってきたという誇りがある。だから、求道者的指導法の影に「こんな鍛錬を乗り越えてきたオレ、スゴイだろ」のニオイを子どもは敏感に感じ取るのかも。

仮にその鍛錬に耐え切れず去っていく子どもたちがいても「ああ、また耐え切れない者が出たか。そんなつらい鍛錬を生き残ってきたオレ、改めてすごい」と自己陶酔している面がある気がする。そのニオイが、子どもたちにどこか伝わっているのかもしれない。

求道者的鍛錬が今も残っている分野は、もしかすると、指導者の承認欲求を満たすための場になっている可能性がある。子どもは自分の承認欲求を指導者に満たしてほしいのに、指導者が子どもに承認欲求を満たす役割を求めている可能性がある。「俺ってすごいだろ」と。

しかしそれだと、子どもたちは楽しくない。求道者的鍛錬も元々は楽しむための仕掛けとして始まったのだとしたら、そしてそれがもはや楽しめる仕掛けで亡くなったのだとしたら、その仕掛けは総とっかえしても構わない気がする。

楽しんでいるうちにのめり込む。そんなシーンを、子どもたちを見ていると普段から観察することができる。「晩御飯だよ!」と言っても耳に入らないくらい。そのくらい集中する。楽しむことが、まるで求道者であるかのような集中力を見せる。

私は、誰もがキライだと思われがちは宿題でさえ、楽しいものにリデザインすることは可能だと考えている。楽しく取り組めれば、子どもたちは親が止めようとしても止まらないくらいにのめり込む。それは、たぶん様々な分野で可能。https://note.com/shinshinohara/n/nad11e985f5d6

楽しく取り組めるリデザインを。これはつまらなくてもやらなきゃいけない、避けては通れない道だ、と思われているものも、宿題を楽しむことができるようリデザインも可能なように、その道も楽しいものに変えることは可能だと思う。

これはつまらなくて仕方ないのは、つらくてもやむを得ないのだ、というところで思考停止せず、工夫をすること。試行錯誤すること。それがいろんな分野で始まれば、子どもの能力は、楽しみながら伸ばしていけるし、何より、人生は楽しいものに変えられるような気がする。

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