日常生活で言葉の定義にこだわるの、意味あんの?

ときどき「その言葉はどういう定義で使っているのか」「言葉の定義を明確にしてほしい」と言う人に出会う。でも、言葉の定義を明確にするのって、日常生活でそんなに重要かな?と思う。言葉は所詮、言い表したいことを伝えるための道具でしかないから。

たとえば「鉄」を、私達はどう知り得るだろう?実は鉄そのものを理解することはできない。鉄を熱すると赤く光る、冬に触るととても冷たい、夏の日差しに当たった鉄は火傷するほど熱い、潮風にさらすと錆びやすい、などというように、別のものや現象との「出会い」によって鉄の輪郭が見えてくる。

鉄そのものは捉えることができず、他のものとの出会いで鉄の輪郭が見えてきて、「鉄とはこんなもの」というおおよその姿(概念)が見えてくる。所詮、ありとあらゆる言葉は「おおよその姿」(概念)を言い表したものでしかなく、境界の曖昧なところがある。明確明瞭に捉えることは難しい。

「鉄の意思」という場合、「何を言われても方針を変えようとしないということだな」ということが伝わればよい。鉄の元素番号とか化学的性質とか気にしなくて構わない。伝えたい内容を伝えるのに、その「輪郭」を浮き彫りにすることができさえすればよい。

私は何か言語化したいと思うとき、言葉に囚われないようにしている。大切なのは伝えたいと考えているそのもの。けれど、それそのものを表現することは、「鉄」でさえ「おおよその姿」を示すことしかできないように、どんなことも直接的に把握したり言葉にしたりすることは無理。

だから、伝えたいことの輪郭をなぞるような言葉を紡ぐ。伝えたいことの周辺的なことをどんどん言葉にしていく。するとだんだん、伝えたいことの輪郭が浮かび上がっていく。言語化というのはそうした作業なのだと思う。

私は言葉の定義にこだわるよりも、伝えたいことの輪郭をなるべくくっきりさせたい、という立場。そんな人間は、一個一個の言葉の定義にかかずらわってるのは面倒くさい。どうせどの言葉も「おおよその姿」しか言い表せてないんだから。

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