「センスがいい」の言語化を試みる

昨晩のウェブ飲み会のテーマは「センス」。センスがいい、悪いと言うけれど、そのセンスって何?と言うのを話し合った。普段何気なく使う言葉なのに、いざ言語化しようと思うとなかなか興味深い。
私は元々、自他共に認めるセンスのない人だった。スポーツもセンスがない。芸術もセンスがない。

勉強もできず、センスがない。何もかもにおいてセンスがない、と言われていたし、私自身も諦めていた。
しかし今にして思えば、「センスがない」状態とは、何もかもを意識でがんじがらめにコントロールしようとしてるとき、という気がする。

「であるべきである」、「ねばならない」にとらわれ、意識ですべてコントロールしようとするとき、無意識の声は聞こえなくなる。無視してしまう。柔軟性を失い、硬直してしまう。その融通のきかなさがいかにも「センスがない」ことになっていたらしい。

センスがいい、評するところをみると、センスとは、他人の評価を伴うらしい。相手の存在に頓着せず突っ走るのは、センスがいいと言うより一人の世界に没入した感が強くなり、いわゆるオタク感が出てくるみたい。芸術作品などはオタクだからこそ出るものもあるのだけど、「センスがいい」はなんか違う。

たとえば服装のセンスがいい、という場合は、ただいいものを着てるというより、周りの人への配慮、優しさを感じさせる時ではないか。相手を見下す感、一人酔ってる感じの時はキザとか言われる。センスは、どうやら他者への配慮、優しさが伴う時に感じられるものらしい。

では、他者によく思われようとするばかりだとどうなるか。それはセンスがいいというより、優等生、「よい子」感が強くなる。いわゆるアダルトチルドレンのように、自分を失い、他人にどう見えるかばかりを気にする場合、「センスがいい」から外れていくらしい。

自分の「好き」を手放さず、それを突き詰めつつ、それが他人にイヤな思いも与えないよう配慮する。それを感じさせる時、「センスがいい」は立ち現れるらしい。
それに近い話で、ブランド物の服を着てるのにオタク感が出るのはなぜだろう?という考察を前に読んだことがある。

他の人が着たら間違いなくセンスがいい、になるはずなのに、オタクがブランド物を着てる、と感じさせるのはなぜなのか?を考察していたのだけど、その考察では「筋肉の硬直」を指摘していた。肩に力が入り、人と話してるのに緊張しないようにしよう、と緊張してる。その不自然な緊張がオタク感だ、と。

他者の目線を気にはしてるのだけど、相手への配慮というよりは恐れ、になるとき、それは筋肉の緊張となり、相手に伝わるらしい。とても上質な服を着ていても、センスを感じさせなくなるのは、「恐れ」のせいかもしれない。

前に不潔感について言語化を試みたことがある。汚れた格好をしていても不潔感を与えない人、きちんと洗濯してるのに不潔感を与える人がいる。その違いは何だろう?と考えたとき、不潔感を与えない人は、他人への配慮を感じさせている。「こんな格好で悪いね」と、相手に不快感を与えない配慮を感じる。

他方、不潔感を与える人は傍若無人感というか、自分が心地よいなら周囲がどう感じようと知ったことか感が出てるとき、ある意味不安、恐怖を感じ、それが不潔感として現れるらしい。言葉になっていない、身体の筋肉の力の入り具合や身振り手振り、視線の送り方などから、私たちは敏感に察知するらしい。

センスがいい、とは、自分の「好き」を手放さず、突き詰めると同時に、顔を合わせる人への配慮、優しさを感じさせる時に立ち現れるらしい。私がことごとくセンスなかったのは、意識ですべてを制御しようとして、無意識の声が聞こえなくなり、相手のシグナルを感じ取ることもできなくなったからかも。

私は「ねばならない」、「であるべきである」という呪いをたくさん抱え、それに従うために無意識の声に耳を傾けず、必死になっていた。その必死感が「センスがない」ことになっていたらしい。
呪いを時間かけて解除し、無意識の声を聞けるようになって、以前は見えなかったものが見えるようになった。

「ねばならない」、「であるべきである」に従うと、いわゆるよい子、優等生になる。それも他者からの評価を受ける一形態だけど、センスは失う。自分を失った行儀のよいアダルトチルドレンは、センスがいい、から外れるらしい。

自分の好きを追究し、他者への優しさ、配慮もできる。そんな自由で優しさもある形のとき、「センスがいい」は立ち現れるのかもしれない。

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