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1日1%の成長を

初めましてでお話しさせていただく方やディスカッションさせていただく方に少しでも私のことを知っていただくために本noteを作成しました。
写真は東京タワー🗼前で全力で飛んだ写真です。笑
私を1枚で表現するにはこれが一番だとカメラマンの友人が考えてくれました!

【現在やっていること】


現在自身の会社を経営しながら、I Tエンジニア向けの独立支援、キャリアコーチングを行っています。

・株式会社Professionals 代表取締役
・ITキャリアコンサルタント
・キャリアコーチ
・法人向け原価ECサイト運営
・カフェ事業オーナー

手前味噌になってしまう部分もありますが、これまでがどんな人生を送ってきたかを書かせていただき、少しでも私を知ってもらえましたら幸いです。

生まれと家族(長崎県諫早市)

長崎出身の父、母の元に3人兄弟の長男に生まれる。父と母は若くして結婚・出産をしたため、正直うちは貧乏でした。ですが、それを感じることなく育ててくれた両親には感謝しかありません。

父は、九州大手の冷凍食品の卸し営業を20年以上やっていますが、その前は木材加工の工場で勤務していました。とても真面目で寡黙、家で仕事の愚痴など1度も聞いたことのない九州男児、家事は全くしない亭主関白でした。

仕事は繁忙期になると忙しく、夜中に帰ってきては、早朝に出勤していくため家で顔を合わせる日がないこともありました。休みはあったとは思いますが、土日も出社していたので週6日は働いていたと思います。

母は、パートや派遣社員をしながらも家事と育児を両立して、兄弟3人を育ててくれました。

褒めるよりも貶して何くそと思わせてやる気を出させる。何か弱音や嫌だと伝えると「じゃあーやめれば?」の一言で終わらせる。
そんなパワフルな肝っ玉っかあさんから育ててもらいました。

私は生まれた時から体が弱く病弱で、小学1年生からサッカーと水泳をして体作りをしていました。

極端に下手でも上手くもないので特徴なく、村人Bくらいか、Cくらいだったと思います。笑


小学校4年生〜中学生時代(見知らぬ土地での学力への苦悩)

小学校で父の転勤で初めて引っ越しをしました。全く知らない土地で知り合いが誰もいない、また友達を作らないといけない不安。
小学4年生ながら考えることはありました。
しかし、サッカーをやっていたことで無事友達もでき、残りの小学校生活を楽しむことができました。

ただ1点、長崎の学力と熊本の学力に差があり、熊本が圧倒的に勉強が進んでいたのでかなり置いて行かれていました。

そのため、家庭教師の先生にお願いして、勉強を教えてもらい、勉学に人生で初めて少しだけ力を入れました。

中学は家の近くの中学校に進学しました。
1学年の半分は小学校からの友達で人間関係も特に問題なく、
強いてあげれば、学校の先生が嫌いだったことを覚えています。(先生が嫌いだったエピソード欲しい)
まあ、この年の子供にはあるあるのように感じますが。笑

また、この頃はとにかく勉強が苦手で仕方ありませんでした。引っ越してきたことによる地域による学力差や、通っている中学校が県1位の学力を誇ると言った事実を置いておいても、下から数えた方が早かった成績でした。

塾にも毎日行ってましたが、遊びに行っている感覚が強く、塾帰りにみんなでコンビニでジャンプを立ち読みして、からあげ棒を食べるのがほぼ日課でした。
今思えばなんでこれで成績が上がると思ってたんでしょうか。笑

部活動は、サッカー部に所属しました。
レベルは県でも下から数えた方が早かったと思います。専門の監督や外部コーチもいなかったので、数学の先生が片手間に考えた練習メニューをこなし、試合に挑む。特に勝ちにこだわることもない部活でした。

小学校の地区大会で優勝した時の写真


高校時代〜(人が信用できなくなった高校時代)

高校では、中学最後の1年間で猛烈に勉強を頑張ったおかげで、偏差値は低いものの志望した高校に入学をしました。
中学生活では学力面で劣等感を感じ続けていたことや、受験に向けて猛勉強した習慣を活かして、勉強を強制的に続けることができ、最終的には学年順位2番で終えました。

部活動では、相変わらずサッカーに打ち込みました。軍隊みたいな高校でしたので、先輩後輩の上下関係はかなり厳しかったですが、そこで規律や上下関係、社会の理不尽さを学んだ気がします。笑

レギュラーには最終的にはなれず、高校総体のレギュラーメンバーを決める練習試合で、左足首靭帯の部分断裂。全治3ヶ月
私のサッカー人生は、そこで儚くも終わりました。また、楽しみにしていた高校3年生でしかできない体育祭でのフォークダンス。
それも、当時の彼女が他の男子生徒と踊るのを見るだけという苦行。歯切れの悪さで勉強に勤しんだのを覚えています。

高校では、若気の至りで停学を経験し、親にも散々迷惑をかけてしまいました。(黒歴史)
先生方にもたくさん迷惑をかけることもありましたが、それでも信頼してくれる先生、簡単に自分を切ってくる先生
いろんな大人を子供として見ていました。人間不信にもなりかけましたし、トラウマにもなることもありましたが
今では、それを笑って話せるようになっているので結果的に良かったと思います。


大学時代(自分のビジョンに影響を与えたペルー)

大学では、熊本学園大学外国語学部英米学科に進学しました。
センター試験でずっこけて、第一志望の大学にいけませんでした。その時、やりたかったことは遺伝子組み換え食品の研究をしたかったので生物学や化学の勉強をしたかったのが、希望大学にいけなかったため。
遺伝子組み換えなどの最先端を学べるアメリカに留学したいと思い、日本人留学生を多く海外に送り出している大学を選び、進学しました。

しかし、高校時代も英語が得意かと言われると苦手でしたので、留学試験に受かることがそもそも難しく。
初めて受けたTOEFLのテストは致命的に悪く、こんなに難しいのかと思い知らされました。

それからの半年間、バイトと学校と図書館生活が始まり、1日8時間は毎日勉強しました。参考書も片っ端から解いて、毎日3つの単語帳をポケットに入れ、歩いている時もご飯を食べる時ずっと勉強し続けました。 単語帳の数も70ぐらいは作っていたと思います。

そして、半年後受けたテストでは、なんと2点しか上がっておらず、人生で初めて心の折れる音がしたのを今でも覚えています。
まあ、テストを解いている時点で難しすぎて、絶望していたので結果を見る前に折れていましたが。笑

その後、大学でペルーから来ている留学生と出会い、第二言語でスペイン語を専攻していたことがあったので、スペイン語で挨拶しかできないものの単身ペルーへの留学を決意。
留学費は自分でバイトを3つ掛け持ちし、1日3時間睡眠を3ヶ月続けて80万円近く貯めました。
ほんとに死に物狂いでしたね笑
ペルーではその友達の家でホームステイさせてもらい、語学学校と現地の日系コミュニティの中で通訳や翻訳をして1年2ヶ月過ごしました。
現地で、約450人の友達ができ、とても楽しく心躍る南米生活を送ることができました。

帰国当日の2時間後、熊本大震災の本震で被災し、就職活動や大学生活が半年間止まり、うまく就職活動ができなかったですが
なんとか希望の総合商社に滑り込みで内定をいただき、不二貿易株式会社に入社しました。

マチュピチュを上から見るために、高山病になりながらワイナピチュという反対側にある山を登山


サラリーマン時代(仕事に対してのスタンスを完成させた)

福岡県北九州市にある不二貿易株式会社は、家具と雑貨の総合商社でした。全世界35カ国と貿易を行い、日本での取引企業は3万社を超えていたので業界では大手で60年続く老舗の会社でした。
新卒研修から独特で2泊3日の座禅研修と2泊3日の自衛隊研修がありました。ここでは長くなるので割愛させていただき、是非お会いした際にお話し出来ればと思います。

大学で海外にいた経験があったこともあり、配属先は海外出張のある商品部を希望しました。

しかし、商品部で市場も何も知らない自分が何を作るんだろ?何ができるんだろ?と考えて、配属希望を変えました。

私が選んだのは、社内で1番厳しいと有名の課長の営業部署でした。

選んだ理由は、

最短最速で成長できる

と考えたからです。

課長は厳しいと有名でしたが、成績もトップクラスでした。その環境下での仕事の向き合い方やトップ営業マンとはどういった人物なのかを学びました。

新卒で最初に上司に叩き込んでもらったこと
・お客様のクレーム解決は延ばせば、雪だるま式に大きくなる
・営業はボランティアじゃない。自社の利益もしっかり考える。
・商談とは商いと書くのが一般的だが、うまくいくのは笑談。

不二貿易では、1年半本社で勤務し、その後に東京営業所に栄転になりました。

東京営業所では、東日本ほぼ全てのエリアが私の担当でしたので、毎日商談資料を持ち、出張に行き、帰ってくるのは深夜というルーティンでした。

3年は営業として成績を上げていきましたし、やりたかった、海外で製品を作ることもできました。
結果的に商品部にいるよりも多くのことを経験させていただいた後に転職を考え、今後も国力にもなるであろうI T業界を目指して転職を行いました。

当時の同期との入社写真


現在〜これからの展望

現在は様々な立場でお仕事をさせていただいております。

会社員からの独立というと今風ですが、振り返ってみると、何かを得るための独立というよりは、会社員を辞めたい一心だったと思います。

何か実績があったから、夢があったから、そういうものでの独立ではないです。

逆に、何も考えてないからこそできたとも思います。

独立してからの2年間はとにかく休みなくがむしゃらに動き続けました。

行動しか自分にはないとわかっていたからこそ、学歴もなければ実績もない自分が生きていくための手段は「行動」だけでしたので。

現在、株式会社テックビズにてコンサルタントとして従事しています。
「働き方を変え、世界を変えていく」をビジョンに共感し、システムエンジニアさんのキャリアコンサルをメインにBtoB, BtoCを行っています。
2年間でお客様の累計相談数は200件を超えています。

より良いキャリアパスを描いていただけるように一緒に今後の人生と仕事について考えています。
それに合った案件をご紹介していますので、他社の営業マンが利益の高い案件を進めてくるのに対して、私は一人一人の人生までしっかりと向き合ったサポートを誠心誠意行っています。

株式会社カタリストでは、キャリアコーチとして参画し、
「あなたが何者かは、あなたが決める」そんなサポートができるように日々お客様と対面しております。
私自身、新卒の就職活動もまともにできた試しがなく、そのままの流れで入ったため、苦労をした経験があります。
キャリアコーチをしている理由としては、
自分が感じたその苦労をして欲しくない、もっと自分の人生を、自分自身可能性を信じられる人を増やしたいと心から思っているからです。
また、「金曜日より月曜日を楽しく」そんな社会を本気で実現できるように私は1人1人のお客様に真摯に向き合っていきます。

冒頭にも書いていますが、私は仕事の軸に自己成長を置いて、
1日1%の成長を続けることを目標にしています。
1日1%の成長を365日続けると複利が加わり、最終的には37.8倍になります。
1年で40倍近く成長できるなら、1日1%の成長なんて簡単だと思います。

素晴らしい方々と仕事のご縁に恵まれて現在も楽しく仕事に向き合えています。独立したからこそ様々なチャレンジができていることもあり、もっとこれからチャレンジの幅を広げたいと考えています。


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