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【36日目】しんさい工房 ‐黒帯‐

先輩たちとの楽しい時間を過ごしながらの1日700円生活は、思った以上にハードだった。
もちろん自炊がメインの生活ではあったが、予算的に食材の選択肢がほとんどなかった。

主な食材は、ブラジル産の解凍鶏モモ肉とキャベツ。
当時はキャベツが1玉100円程度で買えたため、キャベツを駆使した料理が多かった。

いろんな料理を試してみたいが、そもそも他の食材を買うお金もない。
少しでも気分を変えてみようと思い、千切りのキャベツを湯がいて冷水で絞め、めんつゆにつけてざるそば風に食べてみたりもしたぐらいだった。
容易に想像できると思うが、このレシピはもう封印されている。

空腹を忘れるためにやったのはランニングだった。
とにかく走っている間は余計なことを忘れられる。
質素な食事と適度な運動。
僕は1ヶ月で9㎏痩せた。

バイトの日数を増やしたい。

生活面においても、肉体面においても切実な問題だった。
僕はバイトの日数を増やすには、どうすればいいのかを考えた。
思ったより答えは単純だった。

自分がシフトを組める立場になればいい。

深夜バイトのリーダー的存在になる。
そこに焦点を当て、3ヵ月間懸命に働いた。

最速で1人立ちできるよう教わった仕事は次までに覚えてくる。
勤務時間中は先輩たちの1.5倍は働き、信頼を得なが他の業務も覚える。
自分のシフトの前後の時間帯の人とのコミュニケーションを大切にする。

コンビニの深夜バイトは、どちらかというと怠そうに働いている人が多い。
僕はそんな中でひと際目立った。
髪の毛がないということもあるが、そういう意味ではない。
なかなか深夜に明るく元気に働くアルバイトというのは珍しかったのだ。

僕はスーパーバイザーにも気に入ってもらい、あっという間に深夜のリーダーになる。
他のアルバイトの希望とすり合わせながら、毎月扶養の範囲ギリギリまでシフトに入れるよう調整させてもらった。
ただ深夜のバイトというのも、これはこれでなかなか身体に堪えるものがあった。

僕はもともと早寝早起きタイプの人間だ。
これまで22時には消灯という生活スタイルだったのが、急に22時~7時までのバイトという生活になった。
週に4日は深夜にバイトをし、日中は毎日のように学校に行っている。
生活習慣を変えるのは容易でなかった。

特にピークが来るのが、朝5時~7時のラスト2時間の時間だった。
僕がのび太くんだったことはこれまでにも書いてきたが、寝ることにかけても僕はのび太くんだった。
眠気に襲われると、何をしていても寝てしまう。

特につらいのはお弁当を温めている間だ。
ただじっと立って待っているのは、僕にとっては修行に近いものがあった。
温め上がりのレンジの音は、いつも僕の目覚まし代わりとなっていた。

でも、これはまだ可愛い方だ。
きっとコンビニの深夜バイトあるあるのひとつで、経験のある人も多いと思う。
けれど僕はもう一歩先まで行っていた。

店員さん?
店員さん??

自分がお客さんの立場になってその場面を想像すると笑えてくるのだが、僕はお客さんが持ってきたカゴに入った商品をスキャンしている途中に、立ったまま眠っていた。
ここまでくれば、深夜バイトも黒帯レベルだろう。

身体的には決して楽とは言えなかったが、精神的には家でお寺の仕事をしているときより遥かに楽だった。
父親の徹底ぶりに比べると、コンビニバイトのマニュアルというものは生ぬるく感じるぐらいだった。

そんな中で、またひとつ僕の身の回りで変化が起こる。
しばらく鳴りを潜めていたが、僕の人生を動かすのはいつもあの人だ。

僕の携帯が鳴り響く。
背面のディスプレイには『母』という文字が表示されていた。

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