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一日中何を考えているのだ?~ハラスメントの根底にある学習回路の停止~

名古屋市長の河村氏が後藤希有選手の金メダルを噛んで問題になっている。彼の釈明を聞いて驚いた。「金メダルに強い憧れがある。とっさのことだった。コロナがあるんで配慮すべきだった」

頭を抱える。強い憧れがあっても、他者の持ち物を噛んではいけない。それは相手を低く見ているから、この程度のことをしてもいいと相手を扱っているからできることである。相手が屈強な男性だったら同じことをしたのか。そして、コロナがあるからいけないのでもない。コロナが無くても他者の持ち物を粗雑に扱ってはならない、自分の物のようにしてはならない。

河村市長の手つきは、自分がこれまで社会で沢山見てきたそれにそっくりだ。

例えば年上の男性社員が部下の女性に「彼氏いるの?」とか「若いのに彼氏作らないの?」と聞く事を何度も見た。(自分も同じような事をしてしまっていた。)それに似ているのだ。このようなことを聞くこと自体が失礼なのに、相手をそのように扱ってもいい、これくらいゆるされると思っているから平気で聞ける。相手をなめている。

そして、少し話がそれるが、河村氏がとっさにこういう行動に出るということは、四六時中、若い女性を下に見ている発想をしているということではないか?四六時中、誰かを道具化する発想をしているのではないか。そうでなければとっさにこんなことはしない。

部下に「彼氏いるの?」と聞く上司は、多分四六時中頭の中でいやらしいことを考えているからそういう質問が出るのだと思う。

それが透けて見えてしまうことがつらい。河村氏の場合は四六時中相手を道具化する思考があるのではないか。憧れるものは利用し・支配下に置き粗雑に扱っていいと思っている。その思考が表出してしまっている。

ところで、この批判はそっくりそのまま自分に跳ね返る。自分も同じでなかったか?教師をしていた頃、若い人達を同じように扱っていなかったか?相手を下に観る発言をしていなかったか。それこそ「彼氏いるの?」につながる発言をしていなかったか?

先日、「お坊さんは、OSが仏教になっているんです」という事を語っている僧侶がいた。そうあるべきだと思う。僧侶は四六時中「仏教」のことを考えているから僧侶と名乗る資格があると個人的に思う。

「仏教のOS」で生きているからその発言に何か、世俗とは違う見方がきらめきうるのだろう。しかし、私はどうなのだろうと、河村氏の行動から改めて考えさせられた。「OS仏教」で生きているだろうか。常に仏教的な視点で見ることを怠るのならば、僧侶の資格は返還した方が良いだろう。

また、若い人を貶めるような発想をする人、性差別をする人が権力のあるポジションについているべきではない。即刻こういう方々には退場してもらわなければならないと思う。心ある人、人間を道具の様に見ない人(そう見たくないと葛藤し自分と戦っている人)が上に立つ社会になって欲しい。

(終)


[追記]

さらに、考察すると、河村氏がああいう行動をしたというのは、後藤希有選手を一人の人間としてではなく、河村氏が思う「若い女の人」のパッケージに入れて自分の思うステレオタイプでしか見ていないということではないか?つまり、一人の人間として見たときには、その人がどう感じるか、どういう人か、慎重に学習しながら接するはずだ。しかし、河村氏には相手を知ろうというモーメントが欠けている。河村氏にとっては後藤選手は上司の言う事を素直に聞く、からかっても良い「若い女の人」でしかない。一個人ではないのではないか。相手から学ぼう、相手を独自の一人格として尊重しようという気持ちが欠けている。最初からパッケージに入れているのだ。

ここが私にもある所だ。偉そうに書いている私自身が「若い女の子」「若い男の子」というくくりで、パッケージで相手と接してしまっているのだ。そこには一人一人を知る、自分の方の認識を変えるという意志が無い。「若い男の子」はこういう事を言っておけば喜ぶだろう。「若い女の子」はこういう事いっても大丈夫やろう。という自分の思いで接してしまう。ここには学びが無い、変わるべきなのは私の方なのに、私の方には変わる意志が一切ない。あるのは、「俺の思う『パッケージ』に入れよ」という恐ろしく傲慢な意志のみである。ここが恐ろしいし、これがハラスメントの源泉なのだと思う。

人はいかにして、こういう回路を身につけるのか?なぜ、一人の人間として相手を見れなくなるのか?この辺りを明らかにしていく事も自分にとって課題である。

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