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浄土と慈悲

高柳正裕先生(浄土真宗大谷派僧侶)の『大いなる共震の「悲の海」へ』を読んでいる。本を読んでいて考えたことをメモしておきたい。

実を言うと、うちの次男坊はものすごく切れやすかったので、親類みんなが次男のことを怖がっていました。うちのお袋も次男に倒されて、「こんな恐ろしい孫とは、もう口をきかん」と言っていた。婆さんが実の孫を捨てたのですよ、自分が追い込んだのに、でも、どんなに間に合わなくても、どんなに恐ろしい人間でも、受け入れられる世界があるのです。それが阿弥陀さんの浄土であり、浄土とは大悲のはたらく世界であり、その大悲に遇ったときに、本当に恩を感じるのです。浄土がどこかにあるのではない。大悲のところにある。次男も最近は切れることが無くなってきたのですが、少しそうした世界に触れたのかもしれません。怯えが溶けて来たのだと思います。(p.23)
親鸞聖人が流罪の後、関東におられた時に、今の茨城県にある板敷山にいた弁円という山伏が、何か怨みを抱いたためか親鸞聖人を殺そうとしました。恐らくは非常に怒りっぽい人間だったのでしょう。そんな弁円を皆は怖がっていたと思います。しかし親鸞聖人には、その弁円の苦しみを見透す大悲のまなざしがあった。そのまなざしに触れて、弁円は落涙し、心の武装が溶けたのです。(p.24)

高柳先生は、浄土というのは大悲(仏の大いなる悲しみ。一方人間の慈悲には限界があり小悲という。)の世界なのだという。その大悲に触れたところで、本当に武装解除できるのだと言う。この部分に、何か心が揺さぶられる。

親鸞を殺そうとした山伏弁円は、親鸞の悲しみのまなざしに触れて、剣を捨て頭を下げたと言う。

私も、なまじ仏教などを学んでいると、「自分と関わる人には無限の優しさを持って接したい」などとちらっと思うことがある。しかし、それは怪しいものを含んでいる。自分の闇や暗さを清算せずに行う慈悲は、やせ我慢にならないか…?

そもそも、自分の暗い闇を見つめ切っていない、自分の根本悪というか、絶対悪を見て絶望しきっていない私が、本当に他者に対して悲しみや慈しみを持って接する事などできないのではないか?

いや、多分人間は、生きている間中、無私の心で他者と接する事なんてできないのだと思う。どこかで相手を利用しようとしたり、支配・コントロールしたいという欲がはたらくのではないか。相手を無限の悲しみを持って見る事などできない。しかし、そもそも、自分を良いものとか、「他と比べて少しはましなもの」と思っている間は、相手とちゃんと向き合うことが自分にはできないように感じる。

自分の無限の暗さ、悲しさを見つめ切って、その事に泣いた後でないと、そもそも、相手と無私の心で向き合おうというスタートラインにすら立てない感じがするのだ。自分の無限の闇を見てはじめて、そんな愚かな自分が相手をコントロールすることなど一ミリも許されないとなって初めて少しは向き合う可能性が出てくるように思うのだ。

何を言いたいかというと、大悲ということは何か、光のような形で私達の上に現れるのではなく、自分の闇を知らされるという形で現れるのではないか?大悲は、自分の闇を見て泣くことができる場所として存在しているのではないかということだ。仏がいるからこそ、本当に自分の暗さや恐さと対峙できるように思う。それは、仏教でいえば仏だが、キリスト教で言えば神かもしれない。

自分の闇とか、暗さに切実さを持って向き合う、その暗さに何とか対峙しようとし、少しでもまずは自分と対話し、自分の力である程度自分の弱さや暗さを飼いならし、自己治癒とも言えるプロセスを通ってこそ初めて大人になれる気がする。そのしんどいプロセスを通ってようやく、他者にも無限の慈悲を持って接することができないかということが議論出来る気が自分はする。

そのプロセスを通っていない、「無私なる慈悲の心」「他者への愛」は正直言って恐い。慈悲の心など一つもないという悲しみから立ち上がったものは信頼できる気がする。そのプロセスをすっ飛ばして、「愛を与える」とか、「慈悲を与える」という所にはなにかすごく危ないものがあるし、私自分が胡散臭いのもそこに一つ原因が無いか。




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