宮島達男『芸術論』を読む
編集者によるレビュー
2020年は、さながら〝宮島達男Year〟である。
この秋、森美術館STARS展(-2021/1/3)、千葉市美術館(-12/13)、SCAI THE BATHHOUSE(11/7-12/12)、SCAI PARK(11/7、12、13、14)の4カ所で、宮島達男の展覧会が同時開催される。
森美術館もSCAI THE BATHHOUSEも、本来はもっと早くに開催されて秋には終わっているはずだった。それが新型コロナの影響で順延となり、結果的に東京と千葉の計4カ所で並行開催という〝奇跡〟が実現したのだ。
各会場の盛況もあって、2017年3月に宮島のデビュー30周年を飾る著作として刊行された『芸術論』(アートダイバー刊)も、このほど重版となった。
私は宮島の指名を受けて、この書籍の編集を担わせてもらった。
その意味では書籍の送り手側の人間ではあるのだが、出版から3年半も経ったことであるし、今回はあえて1人の宮島ファンとして、この本の「レビュー」的なものを書いてみたいと思う。
宮島達男は1957年生まれ。86年に東京藝術大学大学院を修了し、88年ヴェネツィア・ビエンナーレ新人部門に招待され、デジタル数字を用いた作品で世界に衝撃を与える鮮烈なデビューを飾った。
今回、森美術館の「STARS展:現代美術のスターたち―日本から世界へ」が「世界が認める現代アートのトップランナー6名」として選んだのが、草間彌生、李禹煥、宮島達男、村上隆、奈良美智、杉本博司である。
宮島の人気と知名度は、むしろ日本以上に海外で高い。
2016年3月の香港アートバーゼルでは、大型インスタレーション〈Time Waterfall〉を発表。高さ484メートルの世界貿易センタービルの壁面を、巨大なデジタル数字が流れ落ちた。
同年11月から翌年3月までシドニー現代美術館で開催された大規模回顧展「Tatsuo Miyajima - Connect with everything」は、同美術館が20年越しの交渉と準備の末に実現させたもの。
2019年5月から8月には上海民生現代美術館が、新館のこけら落としとして宮島の過去最大の回顧展「宮島達男:如来(Tatsuo Miyajima: Being Coming)」を開催したばかりだ。
日本芸術史の本流
さて、本書『芸術論』は3章立てとなっている。
Ⅰは「哲学の深淵を語る」と題して、2篇の書き下ろし。
Ⅱは「日々の言葉」と題して、2010年~16年のツイートからの抜粋。
Ⅲは「芸術と平和」と題して、2001年~2015年に紙誌に寄稿した文章から。
さらに、書籍初公開も含むアイデアスケッチやドローイングなどの図版も多数収録。
カバー装丁に使われている人頭図のドローイングも宮島の作品で、デジタルの作品とはまた違った、宮島ワールドが広がっている。
本人がしばしば「教育の10年」と語るように、2006年から2016年まで、宮島は東北芸術工科大学の副学長を務め、最後の3年間は京都造形芸術大学の副学長も兼務した。
作家として脂ののりきった時期に教育の現場に立つことは、制作時間や海外個展の開催などに制約をもたらす。
そうしたリスクや周囲の雑音も承知で、宮島はあえて「教育の10年」を引き受けた。
後述するように、それ自体が宮島にとっては芸術家としての歩みと分かちがたいものだったからだろうと私は感じている。
本書のⅡ章とⅢ章に収められたのは、ほぼこの「教育の10年」の期間に紡ぎ出された言葉である。
一方、Ⅰ章の2篇の文章は、宮島のコンセプトや生き方を支える哲学を正面から掘り下げたものになっている。
9から1へカウントして、0は表示されず、また9から1へと繰り返されるデジタル数字について、これまでも宮島は「時間」「仏教における命」「輪廻転生」といった説明をしてきた。
いきなりヨーロッパで鮮烈なデビューを飾った彼にとって、それらは人々がイメージしやすいよう配慮した、ある種の〝方便〟でもあったのだろう。
この『芸術論』では、その生命観の基盤をなすものが大乗仏教の精髄としての法華経にあることを、宮島らしく論理的に、懇切丁寧に説き明かした。
現代美術と仏教の取り合わせ、とりわけ法華経などといわれると、多くの人は唐突に感じ戸惑うかもしれない。
しかし、たとえば狩野派は始祖の正信から代々の法華信徒であるし、狩野永徳と覇を競った長谷川等伯、あるいは本阿弥光悦、尾形光琳・乾山といった琳派の巨星たち、さらに歌川国芳、葛飾北斎ら西洋美術にまで影響を与えた絵師らも法華信徒である。
法華経の思想は、これら近世日本美術のメインストリームを形成しているばかりではない。
古くは『古事記』『万葉集』にも登場し、『源氏物語』『今昔物語』『梁塵秘抄』などの文学、「平家納経」、能や歌舞伎の「道成寺」など、日本の芸術史のメジャーなものを生み出してきた。
その意味では、明確に法華経思想に立脚する宮島芸術は、むしろ日本の文化芸術史の堂々たる〝嫡流〟にあるといってもいい。
明治以降、地下に潜って消えたかに見えていたそれが、ふたたび姿を現したのである。
さらには、仏教2500年の精緻な思想体系を基盤にしているからこそ、宮島の作品は圧倒的な強さを有しているのだと私は思う。
「弱い芸術」と「強い芸術」があるのかも知れない。「弱い」は状況が整った中で働くアートのこと。「強い」はその状況が崩れ去った後も、なお生きのこるようなアートのこと。
戦後、私たちは「弱い芸術」しか扱ってこなかったのではないか。
強い芸術。例えば、「敦煌」「システィーナの礼拝堂」「ロスコ・チャペル」。異文化で、言語がわからない私であっても、感じざるを得ないような圧倒的表現。言い訳を言わない、共通のコンテクストが必要ない芸術。(『芸術論』Ⅱ章)
「三つのコンセプト」の基盤
宮島作品において、その〝強さ〟を担保しているのが「三つのコンセプト」である。
大学院を出たあとフランス留学の夢に挫折した宮島は、1987年に考え抜いてこの「三つのコンセプト」を言語化した。
それは、変化し続ける
それは、あらゆるものと関係を結ぶ
それは、永遠に続く
ここでいう「それ」が何を指すのか。
この「それ」こそが、宮島が多種多様な手法を試みながら、人々と共有しようとしているものである。
自身でも「言葉を大事にしてきた」と語っているように、宮島達男の天才性は、難解で複雑な概念をきわめてシンプルで平易な言葉に変換する能力にある。
釈尊がガヤの菩提樹下で覚知し、なんとか人々に伝えようと50年間語り、行動し続けたものの本質。
それから数百年を経て、法華経の編纂者たちが、これが世界に伝えるべき釈尊の思想の精髄だと考えて、壮大な対話劇として描いたものの本質。
鳩摩羅什が漢訳し、智顗、最澄、あるいは日蓮といった巨人たちが、そこから見出したものの本質。
それを宮島達男は、わずか3行の言葉として、見事に変換してみせた。
そこには一見、仏教的なものは片鱗さえ見えず、むしろ力強い普遍性と磁力をもっている。
私はこの一点だけで、宮島達男というアーティストの名は500年、1000年の先まで歳月とともに輝き続けると確信しているのだ。
ただし、誤解のないように付言すれば、宮島は仏教をアートとして表現しようとしているわけではない。
私の理解では、あくまでも宮島は「人間の可能性」についての思索を人々と共有しようとしている。
法華経という人類の英知は、そのための揺るぎない〝足場〟に過ぎない。
私が、変化し続ける数字の作品を作り続けるのは、今この瞬間にしか見ることのできない、二度と現れない光景を、あなたと一緒に体感し、今の自分を振り返る契機にしていただきたいと願うからなのです。
(『芸術論』)
宮島が「ブッダ」と呼ぶとき、それは歴史上の人格や信仰の対象ではなく、すべての人間がもつ可能性を指し示している。
強固な宗教的英知を足場としながら、すぐれた普遍性をもつことで、外形的にはけっして宗教や宗派性を感じさせないし、強要しない。
これは、とりわけ近世以来の法華美術の系譜にも共通している。
宮島芸術の初期の代表作である〈三十万年の時計〉(1987)は、14ケタあるデジタル時計が1秒ずつ時を刻んでいる。
『芸術論』で宮島は、これが「永遠」を表現したものであると同時に、この作品で見ようとしたものは刻々と変わっていく「今」なのだと語っている。
生命というものは本来、死によってすら断絶することなく永遠に続くのだが、だとしてもそれは常に「今」という瞬間瞬間にしか実在しない。
「今」を離れて、「永遠」というものがどこかにあるのではない。
そして、人は「永遠」を凝縮して「今」を生きることができる。
「今」をどう捉え、どう生きるかで、未来は変化し、過去の意味さえ変わっていく。
一粒の砂に世界を見る
一方、今回の千葉市美術館にも展示されている〈Innumerable Life/Buddha MMD-03〉。
赤く輝く四角形は、異なる周期で9から1への点滅を繰り返すデジタルガジェットが2500個集まったものだ。
その作品が「無数の生命/ブッダ(Innumerable Life/Buddha)」と名づけられている。
もとより宮島は、自身の作品をどう受け止めるかは、観る者に委ねている。
宮島において、作家と鑑賞者は、あくまでも水平である。
けれども『芸術論』のⅢ章にも「作品の名前」と題された文章があり、作品にとってタイトルは重要で不可欠だと述べている。
作品に込めた作家の意思を表明するものだからだ。タイトルがあってはじめて、観る者はソウゾウリョクを広げることができる。
〈Innumerable Life/Buddha MMD-03〉では、無数の生命が一個の全体を織りなしている。
個々のガジェットが単独の生命でもあり、しかし織りなされた全体もまたひとつの生命のように見える。
個々のガジェットには光が消える瞬間があるが、全体は常に輝いている。
生死流転を繰り返す個々の変化が、全体の永遠性を織りなす。
「一瞬」のなかに「永遠」が包摂され広がる。
「部分」のなかに「全体」が包摂され広がる。
ここにおいて時間論と生命論は重なり、極大に包まれた微小が、極大を包み返していく。
生と死を見せる個々の生命こそが、じつは宇宙生命とでも呼ぶべき一個の全体の〝当体〟なのである。
それこそ、釈尊が覚知した究極の実在なのだろう。
「仏」とは死後の世界にいる超越者でも先祖でもなく、現代的にいいあらわせば〝永遠に慈悲の活動をする宇宙生命の全体〟である。
同時に、それは常に、変転して止まない個々の生命として顕現する。
私たちは本来、その宇宙生命の全体そのものなのだ。
宮島は『芸術論』で、西洋のブレイクの詩を援用して、この透徹した生命観を読者に伝えようとした。
一粒の砂にも世界を
一輪の野の花にも天国を見、
君の掌のうちに無限を
一時のうちに永遠を握る。
(『対訳ブレイク詩集』松島正一編/岩波文庫)
宮島はこの生命観を赤く輝く一個のスクエアにした。
難解な解釈など必要なく、誰もが美しいと感じ、惹かれ、顔を近づけたり遠くから眺めたりする。
しかし、私は「Innumerable Life/Buddha」という絶妙なタイトルに、どこまでも1人の人間に、無上の尊貴さ、無限の可能性、世界をも変えていく基軸を見出そうとする、宮島の思想の卓抜さを見るのである。
「永遠」とか「全体」のほうにのみ価値が引きずられてしまうと、途端に手ざわりのない抽象的な観念になる。
昭和の戦争に仏教界が加担したように、下手をすると人間生命を手段化するファシズムにさえ悪用されかねない。
今ここの「一瞬」、目の前の1人の人間という「部分」のうえに、永遠なるもの、全一なるものを見ようとするとき、それは運命を切り開き平和を創造する、現実変革の思想になり得るのだと思う。
如来とは一切衆生なり
(日蓮『御義口伝』)
宮島は、この〈Innumerable Life/Buddha MMD-03〉の着想を、法華経に説かれる〝地涌の菩薩〟から得たという。
法華経の従地涌出品では、釈尊滅後の悪世に誰が法華経の思想を人類に流布するのかという釈尊の問いに対して、はるか大地の深淵から無数の菩薩が出現して流布を誓願する。
天上から舞い降りるのではなく、大地から重力に逆らって涌き出る菩薩たち。
それは、自他の尊厳と可能性に目覚めた民衆のイメージにも重なる。
それは、法華経編纂者たちの自覚と自負でもあったのだろう。
あくまでも困難の多い現実世界の人生を引き受けながら、間断なき自己変革と慈悲の行動に挑戦する菩薩群。
宮島にとって〝地涌の菩薩〟とは、すべての人間の可能性の究極のイメージなのかもしれない。
赤々としたガジェットの光は、その横溢する生命力を表すかのようである。
ART in YOU
宮島は「ART in YOU」という概念を提唱する。
職業としての芸術家は、ほんの一握りの存在かもしれません。けれども、アート(美)というものは彼らや、彼らの作品の中だけにあるのではなく、万人の生命の中にあります。
本来、すべての人の中にアート(美)があり、それを呼びさます力があるからこそ、作品(美)も成り立つのだと私は思っています。
(『アーティストになれる人、なれない人』宮島達男編/マガジンハウス)
美というものは人間を離れては存在しえない。
このことを宮島は、2010年に刊行された『宮島達男解体新書』の冒頭でも、アインシュタインとタゴールの対話を通して語っている。
アーティストという〝神の代理人〟を介して、外なる「美」に人間がぬかづくのではない。
あらゆる人のうちに本来「美」がそなわっている。
アートをアートたらしめているのは、万人の側なのである。
『芸術論』では、この「ART in YOU」について、2つの視点が示されているように思う。
1つは、この概念が法華経の生命観の極理である十界互具論に支えられていること。
〈Innumerable Life/Buddha MMD-03〉に即していえば、9から1へ変化して止まない小さなガジェットが、じつは巨大な作品の全体を織りなしている。
部分に過ぎないと思われていた私たちの生命が、じつは一個の全体の表出だったのである。
九界即仏界であり、仏界即九界です。〝常ならざる〟と見えていたものが、じつは、〝常なる〟ものがベースにあり、逆に言えば〝常なる〟ものは、〝常ならざる〟ものとしてしか現れてはこない。
(『芸術論』)
誰しものうちに「美」がそなわっている。
すぐれたアートは、そうと意識するしないにかかわらず、私たちの生命の全体性を回復させるものとして働く。
人は、他者と出会い、他者という鏡に映すことで、自己を見ることができる。他者の生きる姿に敬意を払っていく中で、自分の可能性を信じることができるのです。
(同)
宮島がもう1つ語っているのは、どうなれば「ART in YOU」が単なるイデア(理)からアクション(事)へと動き出すか、である。
「永遠」を考えることは、結局「今」という一瞬を考えることになると述べている。
遠い未来ではなく、「今、どう生きるのか?」「今、目の前にいる人とどう接していくのか?」「今、目の前にある事象とどう向き合うのか?」それを見つめ、考えるのです。
(同)
私たちの生命も、世界も、常に今ここの瞬間にしか存在しない。
それを私たちは奇跡のように分かち合っている。
その誰しもが本来、宇宙の全体なのである。誰しものうちに「美」がある。
だからこそ、「今、ここ」に引き寄せて、「ART in YOU」という視点で自分の生き方、他者とのかかわり方、社会にある課題を考えるとき、
人々の生きる姿勢を変え、世界を見るまなざしを動かし、例えば震災で傷ついた人々や土地の蘇生、紛争の解決、核兵器の廃絶といったような平和の問題にも、観念ではなく行動に即して考えていくことが可能になるのではないでしょうか。
(同)
宮島がアトリエに籠って創作することだけをよしとせず、「柿の木プロジェクト」のようなアート的な核廃絶への取り組みを四半世紀にわたって続けてきたこと。
9から1まで自分の任意のリズムで数えたあと、洗面器の液体に顔をつけ、また顔を上げて9から1のカウントを繰り返す〈Counter Voice〉というパフォーマンスの共有を、一貫して国内外各地のワークショップで続けていること。
「教育の10年」という道をあえて選んだこと。
東日本大震災を経た2016年以降、六本木の〈Counter Void〉を用いたRelaight Projectを実施してきたこと。
これらすべては、「ART in YOU」を信じるからであり、アーティストとしての宮島の創作と分かちがたく結びついていることが想像できる。
Ⅰ章で語られているのは、宮島の哲学の足場となる深遠な生命観。
そして、Ⅱ章とⅢ章で繰り返し繰り返し語られるのは、どうすればすべての人が自身に内在するアートに気づき、それを開き、自分の人生と自分が今いる社会の行き詰まりを破っていけるかについてである。
たしかに、この書籍は言葉を通して宮島達男を体現したものになっているのかもしれない。
いかにすれば、自身が見ている世界を人々と分かち合うことができるか。
あらゆる人の可能性を気づかせ、開かしめることができるか。
そのことで、いかに世界をよりよく変革していけるか。
宮島は絶えず、そのことだけを考え続けているように思われる。
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