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フリーランスをめざす人への長い手紙

はじめに

「人生100年時代」である。そこにコロナ禍が襲来して、人々の働き方や価値観の変容が一気に早回しになった。

変化の渦中でも日常というものが続いているので、当事者として渦中にいると変化のスケール感があまり実感できない。
疫病そのものも数年間かければ、きっとワクチンが開発されて普及し、過去の感染症のように十分に制圧できるのかもしれない。

それでも、このコロナ禍はさまざまなものを大きく変えていくだろう。
産業の構造や、プライバシーと権力の関係や、民主主義のあり方や、国際秩序まで、いろんなものが変化の速度を上げていくと思う。
ただ、そうした話は歴史学者や哲学者や国際政治学者の知見に耳を傾けたほうが有益である。

ここで私が書こうとしているのは、もっと個人的な経験にもとづく、どうでもいい卑小な話である。
しかも、他人様に誇れるようななにものさえ、いまだに成していない人間が語る、信頼性に欠ける話である。しかも無駄に長い。
そのことを最初に断っておく。

①あるピーターパンの話

BBCによると、ツイッター社のジャック・ドーシー最高経営責任者(CEO)が全従業員宛てのメールで、新しい方針を示した

「在宅勤務が可能な役職や状況にあり、それを永遠に続けたいと思っているなら、そうしてもらう予定だ」と述べた。

5月13日深夜に、ツイッターのタイムラインでこのニュースを見ながら、よく考えたら、私は昭和の時代からそういうふうに働いてきたではないかと思った。
そうか。世界がようやく私に追い付いてきたのか。

私は子どものころから〝年相応〟に生きることができない人間だった。
NHKニュースは見せてもアニメや漫画を見させないという、親の偏った教育方針のおかげで、幼稚園でみんなが歌うアニメの主題歌に私だけ置き去りにされた。
友だちと共通の話題がないので、しかたなく幼稚園の職員室で教員相手にベトナム戦争の話を繰り返して、心配した園長先生が母に注意をした。

小学校に上がって、同世代の近所の友だちや従兄弟たちが野球に興じはじめても、私は何の関心も持てず、叔父からもらった小学館の『保健と人体の図鑑』を毎日飽きずに眺めていた。
近所の子らと学校ごっこをやって、その図鑑を広げて精子と卵子の解説をし、親御さんたちから母にクレームが入ったこともあった。

成長するにつれ、どうやら同学年の男子たちが「自分が大人に近づくこと」を歓迎し、少なくとも覚悟し、競うように年齢相応に振る舞おうとしていることに薄々気づいて、私は違和感と不安を覚えた。
私にとって年齢とか学年は、一方的に自分に貼り替えられていく乱暴なラベルに過ぎず、大人になっていく自分自身というものが想像できなかったし、歓迎できなかった。

いつも周囲に何となく調子を合わせてはいたが、高校生になってもなお、「青春時代」というのはきっと25歳くらいの人のことを指すのだろうと信じて疑わなかった。
じつは今でも、この「青春時代」が人生のいつを指すのかと問われると、自分の実感としては正直よくわからず困惑してしまう。
米国の心理学者ダン・カイリーが『ピーターパン・シンドローム』という著作を世に発表したのは、皮肉にも私が成人した年だった。

私が「大人になっていく自分」というものを拒絶し、年齢相応に振る舞っていくことに関心がなかったのは、たぶん父親との関係に起因するところが大きいのだろうと思う。
私が小学校に上がるころまで、父は〝たまに家に姿を現す人〟でしかなかった。
それ以降も、周囲の父親のように息子と遊んでくれる父親ではなく、むしろ食事のたびに皿の位置が1センチずれているようなことを、口うるさく叱責してくる面倒な存在だった。

父親と一緒にいる時間というのは、気を遣い、息が詰まるだけのもので、そもそもどのように話しかけ、接すればいいのか不明な対象でしかなかった。
うんと後年になって知ったのは、父もまた自分の父親と親子らしい関係を持ち得ていなかったことだ。
私の祖父は明治8年(1875年)生まれの医師で、神戸空襲で焼けた病院兼自宅は鉄筋3階建て。戦前に自家用車が2台あったそうだ。

叔父の君平も著書のあとがきか何かで書いていたが、祖父は神道に心酔し、家には大きな祭壇があって「神国必勝」を疑わず、戦時中も毎朝、長々と祝詞を唱えていたという。
父は祖父が還暦を迎えた1935年に生まれた次男だ。
父にとって父親というのは近寄りがたい厳格な老人でしかなく、やむを得ぬ用があるときだけ、書斎のドアをノックして入り、敬語で用件を伝えて指示を仰ぐ。
食事はダイニングルームで父親の動作を待って、銀食器を使って音を立てずに食べる。
そういう親子関係だったらしい。

戦争ですべてを失うと、祖父は廃人のようになって家族はバラバラになってしまう。
父は、長兄に続いて灘中学に入ったものの経済的事情ですぐに退学し、そのあとは筆舌に尽くせない苦労をした。
父にとって、家族とか父親像というものは、おそらくさっぱり分からない、信じられないものでしかなかったのだろう。

そんなわけで、私にとって自分が年々に成長し大人になっていくということは、忌み嫌っている父親のようになることであり、それゆえに私は自分の年齢を拒絶するという避難路を選んだのだろうと思う。
戦争というものは、生き残った者にも大きな苦しみを与え、その不幸は世代を超えて連鎖していくのである。

②タイムマシンを使う

20代の時期、父親代わりになって私という人間を根気よく〝育て直し〟てくれたのは、トップアスリートとして活躍していた親友たちだった。
くる年も、くる年も、毎週毎週、私は日の丸を背負った陽気な男たちに囲まれて、大人の男になっていく素晴らしさと安心感を教育された。
ピーターパンは、最後の力でそういう奇跡を人生に手繰り寄せ、ネバーランドからメインランド(人間界)になんとか戻ってきたのである。

今でもよく覚えているが、いよいよ30代を迎えるという直前、軽いノイローゼになるほど悲哀に襲われた。
自分があまりにも無自覚に少年期を過ごし、いろいろなことをやり残したまま、ついに20代を終えようとしていることを実感して愕然としたのである。
なぜ自分は、平凡に子供らしく、少年らしく、皆のように生きてこられなかったのだろうかと運命を呪った。

何日か経って、ある単純な決心をした。
人生を15年巻き戻して生きていこうと決めたのだ。
社会的には30歳だが、タイムマシンで15歳に戻ったつもりで、ここから生きてみよう。そう決めた。

生まれてこのかた年相応に生きられない人間なのだから、どうせなら、これから先も実年齢など忘れて、単なる符号と思って、自分は15歳差し引いて生きればよいのだ。

私には大きな組織に所属して働いた経験がない。
なので、昇進したり、部下を抱えたりする働き方の人には、こんな発想は何の役にも立たないのかもしれない。
ただ、こんなふうにそこからさらに30年近く生きてみて、フリーランスの人には案外に悪いアドバイスでもないような気がしている。
そして、これからは組織で働く人も終身雇用のような安閑とした人生設計は許されず、プロ野球の契約更改のような働き方になっていくと思う。
一億総フリーランス時代である。

30歳の私がまず取りかかったことは、それまでの人生でスルーしてきたこと、やり残してきたことを、何でもいいからやり始めることだった。
何でもいいのだ。行動することが大事だ。
早速、近所のスイミングスクールに入った。
子どものころ喘息持ちだったこともあり、まったく泳げなかったからだ。
案の定、まず我流で泳いでみてと言われて、5メートルも泳げず、息継ぎが出来ずに溺れそうになった。
そして、早々に挫折した。忙しくて、たちまちレッスンの日程どおりに通えなくなったのである。

数年後、転機が訪れた。
引っ越した近所に、真新しい立派な公営プールがあった。
しかも私にとっては折よく、水泳のインストラクターをしている後輩が、勤務先が閉鎖になったか何かで失職したと聞いたので、マン・ツー・マンで個人レッスンをしてくれないかと交渉してみた。
「2週間で50メートル泳げるようにしてほしい」と注文した。
巨大なプールの片隅で、幼児教室のようにバタ足の練習から始めて、2週間後、私は足のつかない公式競技用の50メートルプールを自力で泳げるようになっていた。

1997年の秋に、1週間で1冊の単行本の原稿を書き上げる仕事をした。
その7日間、毎日14時間原稿を書いて、身体が固まってしまわないよう、途中でプールに行って1.5キロ泳ぐというルーティーンをこなした。
脳内年齢設定はまだ10代後半だから、どうということはないのだ。
泳げる人には理解できないかもしれないが、泳げなかった人間が急に泳げるようになるというのは、ある朝、急に外国語が話せるようになったくらい人生が変わる出来事なのである。

③プロアスリートの自覚

それでも当時は肩こりが酷くなる一方で、これを解決しないと長い先、商売に支障が出ると思った。
肩こりの要因の一つは、筋量の不足である。だから女性に肩こりが多い。
それで、ジム通いを検討した。
ちょうど近所に大きなホテルが出来て、フィットネスクラブの案内が近隣に配布されたのだ。
今にして思えば、これもわが人生の大きな僥倖だった。

恐る恐る見学に行ってみて、たしかに少しだけ会費は高めだったが、施設の充実ぶりとスタッフの雰囲気に感動して、その場で入会した。
ここは、行くと毎回トレーナーがマン・ツー・マンで付いてくれるシステムになっている。
しかも、トレーナーたちの力量が頭抜けていて、運営会社はある競技の協会御用達だった。
実際、ジムではいくつかの競技の有名選手や、肉体派で売る俳優や、宇宙飛行士などの姿もしばしば目撃した。

それまで私は、自分の人生でまさかバーベルを持ち上げることなど絶対にあり得ないと思っていた。
ある時、トレーナーに言われるままベンチプレスの台に寝てみたものの、最初は25キロを数回持ち上げてフラフラになっていた。
ところが、このトレーナーが魔法をかける名人だったのだ。ウエイトトレーニングには魔法が必要なのである。
1年もしないうちに、自分の体重より重い80キロのバーベルさえ上がるようになっていた。

30代の後半、私は部活に励む中学生か高校生のように、週に4日も5日もジムに通い、トレーナーとあれこれメニューを相談しながら何時間も過ごし、こまめに泳ぎ、その合間の時間で仕事をこなしていた。
習い事は何でもそうだが、持続することと〝よい師匠〟に付くことが肝心である。
当時、大半が20代だったここのトレーナーの何人かは、今、日本のアメフト界やラグビー界の優秀な選手たちを支えたり、外国の代表チームの専属として世界を転戦したりしている。

物書きという職業は、じつは身体を酷使する。
同じ姿勢で長い時間キーボードを打ち、モニターの文字を追い続けなければならない。
マウスを動かしたり、キーボードを叩く一見小さな動作は、上半身の広範な部位にとてつもない負荷をかけている。
座ったまま動かない姿勢は、肉体労働者のように身体にダメージをもたらす。

私は若いライターに、仕事のことで助言することはまずない。
ただ、必ず言うことは「この仕事はプロのアスリートと同じだと思って、ちゃんとジムに通って身体をつくり、メンテナンスし、長く使えるようにしろ」だ。

小説家でも音楽家でも、事業家でも海外の政治家でも、アスリートさながらにフィジカルの維持に努力を払っている人は少なくない。
創造的な仕事を長く続けるために一番必要なものは、自分なりに健康な肉体だと思う。
まして「人生100年」で定年のない職業を選ぶのであれば、日々に劣化していく身体と折り合いをつけるためにどうメンテナンスし続けるかは、人生の最重要事だといってもいい。

④創造と身体性

40代に入ってから、またしても予想していなかったことが起きた。
ジムで親しくなっていた年上の女性会員さんから、マラソンに誘われたのである。
さすがに、これは尻込みした。
なにしろ駅まで100メートルを走っても、足がもつれそうになるのである。
それでも毎日のように、熱心に布教される。
ある日、他の人も行くと言うので、ほんのちょっとだけ彼女のランニングにつき合ってみた。
案の定、1キロも走らないうちに下半身のあちこちに痛みのトラブルが起きて撤収した。

外からジムに戻ってきて、プール脇の長い廊下を歩いていると、向こうから運営会社の社長がプロゴルファーと談笑しながら歩いてきた。
私と同い年で、ここのトレーナーたちを束ねているカリスマ・トレーナーである。
社長は遠くから私を見て笑顔で会釈し、なおゴルファーと談笑しながら歩いてきたが、ふと落とし物でも見つけるように、歩いている私の脚に視線を落とした。

そしてすれ違いざまに、指先で私の脚の一カ所をピンポイントで押し、「ここ痛いでしょ?」と尋ねてきた。
押された箇所に激痛が走った。
「東さんは歩き方が間違ってます」と言われた。
そもそも歩き方に正しいとか間違いとかがあるというのも衝撃だったが、彼がほんの数秒で私の歩行の問題点を発見し、しかも今どこに障害が起きているかまで見抜いたことに驚いた。
神々の世界にはすごい人がいるのである。

その後、社長の指示を受けたトレーナーの指導のもと、私が歩き方を一から練習し直したのは言うまでもない。
40年以上も、私は歩けているつもりで間違った歩き方をしていたのだ。
話が長くなるので途中を端折ると、それから2年後に私はフルマラソンを5時間台で走り、その翌年も走ることができた。

通常、スポーツでは若さは圧倒的な強みになるが、マラソンは60や70の高齢者が(他競技の)現役体育会学生にさえ勝てる稀有な競技である。
すっかり腹の出たオヤジが、学生時代の部活自慢をしても憐みの目で見られるのが関の山であるのに対し、「40代になってからフルマラソン走りましたよ」とできるだけさりげない感じに言うと、若い人から一瞬だけ尊敬のまなざしを受ける。

その後、引っ越したことと、車に乗る生活をやめたことで、残念だったがカリスマたちのいるホテルのジムは退会した。
代わりに、徒歩5分の新しいジムに入会した。
正確に書くと、徒歩5分で雨の日でも傘をささずにジムに行ける物件を探して引っ越しをした。

ここでも神がかりが起きた。
入会してまもなく、若いが、とてつもなく研究熱心で、やはり魔法をかけるのが上手い大男のトレーナーが配属されたのだ。
40代も半ばを過ぎると、身体のあちこちに大小の故障が起きてくる。
彼はトレーニングで魔法をかけるだけでなく、私の身体を私以上に把握し、エアコンをギンギンに利かせた部屋で、汗だくになってこまめにケアを施してくれた。

さまざまな数値だけで見ると、私のフィジカルが自分史のピークを記録したのは、46歳と7カ月の時である。
体脂肪率10.6%。フィットネススコア84点というのは、若い頃にスポーツの経験がないこの年齢にすれば上出来だろうと思う。
15歳巻き戻し計画は、脳内だけでなくフィジカルさえ巻き戻してくれた。
優秀なトレーナー氏たちのおかげである。

ジム通いをして何が一番よかったかというと、もちろん心身の健康面で得るものは大きかったが、「人間は40歳を過ぎても十分に進化できる」ということを、きわめてシンプルに実感できたことだ。
老眼がはじまったり、モスキート音が聞こえなかったり、ものの名前が出てこなくなったり、劣化は避けられないなかで、それでも自分の進化を確認できることは大きい。

あとは、着たい服が着られる。慢性疾患や基礎疾患のリスクを少しでも下げられる。
10代の終盤を過ぎれば人は誰しも老いていくわけで、老いること自体を恥じたり嫌悪する必要はない。
ただ、精神の弛緩や不摂生で体型を崩し、そのことで無用な劣等感や卑屈さを精神に抱えるとすれば、あまり賢明ではない。
人と会う職業ならば、清潔感があるに越したことはない。

それと、同じクリエイティブな仕事でも、芸術作品をつくるとか音楽をやるという行為は身体性が伴う。
対して、文筆とか編集というのは大部分が脳内だけで処理されてしまう。
これはまったくの個人的な感覚だが、その点でも身体性というものをどこかで自覚し、日々研ぎ澄ませていくことは大事なことのような気がする。

⑤自分より有能な若手を探す

財界の中枢で働いていた尊敬する友人が、「本当は40歳くらいで定年するのがいいのだ」と話していたことがある。
60歳くらいで退職して、さて第二の人生をと動いても、残された健康寿命がちょっと足りないというのだ。
これはそのとおりだろうと年々に実感する。
いろんな分野を見渡しても、今や輝いている優秀なリーダーは圧倒的に若い。

最初の大仕事は20代から30代のうちにやり遂げて、40代になったら後継の育成をしながら、次の大仕事に向かうというのが、たぶんこれからの主流になっていくのではないか。

私がフリーランスの人に勧めたいのは、40代に入ったら若い人間と一緒に仕事をせよということだ。
一匹狼でやって来たフリーランスにとっては、40代は脂の乗り切ったベテランの高揚感が滲み出てくる時期である。
しかし、そんなものは所詮は一過性の高揚感でしかない。

自分が40代まで何かの仕事をフリーでやってこられたとすれば、それは単に運がよくて、さまざまな人が有形無形に支えてくれたからなのだ。
だから、今度は自分が支える側、育てる側にならないといけない。
そして、人が育つには、やっぱり10年近い時間がかかる。

例外的な業種もあるのかもしれないが、若い人と一緒に仕事をするにあたっては、徒弟制度みたいな感覚に陥らないことが肝要だ。
人と人とはフラットなのであり、年齢とかキャリアでマウントしたり相手をぞんざいに扱うというのは、基本的に人格の欠陥でしかない。
ただ、これは言うほど簡単でもない。染みついた習性があるからだ。
私も数えきれないほど失敗してきた。無自覚にやってしまう。
こちらが心を入れ替えて、相手を尊敬し、感謝し、信頼し、大切に尽くしていこうと決めないと、このフラットな関係性は上手く作動しない。

若い人との仕事のしかたは、さまざまあっていいと思う。
形式上だけ労使関係になるのもありだろうし、共同経営もありだろうし、チームを組んで案件ごとに協働するのもありだろう。

もっとも大事なことは、自分よりポテンシャルの高い人間、優秀な人間をバディに持つことだ。
ただし、どんなに能力が高くても、酒、性、金のどれかにだらしない人間は、必ず周囲に迷惑をかけて失敗する。
無知は学べば済むことだが、何かに溺れる癖のある人間は、必ず身を滅ぼす。

育つのに何年かかかるとしても、自分以上に優秀で、自分の弱点や足りない部分をカバーしてくれて、気づいたら自分を育てる側に回ってくれているような人間をつかまえないと意味がない。

ものすごく天才的な能力を持っていたのに、人生の後半でだんだん失速して残念な老人になっていく人は、ほぼ100%、そばに置く人を間違えている。
政治家でもダメになっていく人間は秘書が無能だ。
イエスマンで言われたことだけに応えるような人間を置いて、ボス気取りで怒鳴り散らしていては、自分が終わっていくだけである。

⑥徹底して贈与する

今や、世界を実質的に運営しているのは30代の人間である。
余人をもって代えがたいほどの何者かになった人は別として、50を過ぎ、まして還暦を過ぎた人間は、ただの面倒臭い年寄りでしかないと自覚した方がいい。
同じ仕事を振るなら、振る側は面倒な年寄りではなく、機敏に動く若い人間を選ぶ。

時代の変化の速度も昔とは違う。
テクノロジーの進歩と普及も、価値観や社会通念の変化も、すさまじく速い。
世界の変化も速い。2030年までにはインドが世界一の人口になり、2050年までにはアフリカ大陸の人口が世界の4分の1を占める。
新興国、途上国のほとんどが、これから人口ボーナス期を迎える。

私の場合は気づくのが少し遅かったが、40代の後半で「次の世代を探そう」と決めた。
金や余裕があるかないかなど、どうでもいいのだ。
こちらに金がなければ食い扶持は自分で探してもらい、ともかく信頼関係を構築していく。
自分の持っている人脈、仕事のネットワークを、徹底的にすべて贈与していく。

相手がうんと若ければ、自分の身の丈の範囲でいいから、時には高級ホテルや一流飲食店に触れさせてあげる。
人の金でないと行けない場所に自分が誘われたら、許されるなら頭を下げて、若い人間も同道させてもらう。
本物の「人」「経験」「美」に触れさせてあげないと、人は育たない。

私自身には何の甲斐性もなかったので、私は主に自分が持っているチャンネルのなかで、最高レベルの人間たちに触れる機会だけを、若い人に贈与してきた。
本物の知性、本物の教養、本物の金持ち、世界的なレベルのクリエーター。
若いうちにこうしたものに触れ得た彼らは、見ていて清々しいほど、くだらないものに目を奪われない。

ひたすら贈与すること。
自分の仕事を獲られるなどと、ケチなことを考えてはならない。
ルーキーに獲られてしまう程度の仕事ならば、どうせ早晩、自分の手もとから消えていくのだ。
自分の持ち駒がなくなったら、新人時代に戻ったつもりで、また不安を抱えながら新しい道を開拓すればいいのである。
損得を考えず、相手を利用しようとする自分のエゴに注意を払い、虚勢を張らず、バカにされることを恐れず、急がず、怒らず、つきあっていくこと。

あれから10年経って、今、私は自分より掛け値なしに何倍も優秀な若い人たちと一緒に仕事ができている。
もう少ししたら、さらに若い世代を仲間に迎え入れたいし、たぶんそのようになる気がする。
自分で何でもできてしまうマルチな人もいるが、私は逆で、ほとんどのことが致命的に苦手な「ダメな人」である。
苦手なことは、できる人にアウトソーシングしたほうがいい。

⑦依存し合わない「個」

人には個々の領域というものがあるし、プライバシーがある。
どんなに親しくても、家族でも、他人が立ちるべきでないテリトリーがある。
チームを組むというのは、群れることとは違う。
ただ私の場合は自分の意思で、仕事の若いバディには公私に渡って隠し事をつくらないようにしている。

年齢が行けば行くほど、仕事上の悩みはもちろん、健康や経済、家族のことなど、不安要素は増えるであろうに、多くの男性は弱みを見せまいとする。
女性が結果としてタフなのは、女性社会にはそういうプライベートな悩みを周囲に相談して共有する文化があるからだろう。

私はつまらない余計なことで神経を消耗して自分のクリエイティビティを下げないためにも、不慮のことが身に起きて周囲に迷惑をかけないためにも、基本的に仲間には自分の情報をフルオープンにしている。
ただし、こちらは相手のプライベートには不用意に侵攻しない。

昭和の男性には「性的な話題」こそ距離を縮めるカギになると信じて疑わない人が多い。そういう文化で育ってきたからだ。
今は男性同士であっても、そうした話題を振ったり、女性に関しての性的な話題を口にするのはセクシャルハラスメントである。
相手の年齢を尋ねたり、いきなりパートナーや配偶者の有無を尋ねたりすることも、相応の理由がなければバカの烙印を押されるだけだ。

これも尊敬する友人から言われたことだが、人生はヒマラヤの山頂を目指すようなものだと思う。
麓の近くでは大勢でワイワイやっていてよいが、高度を上げるにつれ、体力は低下し、環境は厳しくなり、荷物を最小限にして、慎重に登っていかなければならない。
仲間と信頼し合い、声をかけ合い、チームワークを組んで協力し合うことは必須だけれども、孤独に登り切っていくしかないのである。

依存し合わず「個」として自立した人間同士が、理想を共有し、親密にコミュニケートし、目指すべき山頂へと登っていく。
偉そうに書いているが、私は50歳を過ぎて、そういうことを息子くらいの年齢の人間から、何年もかけて忍耐強く教育された。

40代、50代を過ぎると、人から叱られなくなる。
悪い慣習や現状を否定されない人間は、成長することができない。
織田信長の頃のように「人生50年」ならそれでもいいが、「人生100年」ではそれはマズい。
なので、くれぐれもお世辞を言って褒めそやしてくれる太鼓持ちのような若手と組んではならない。
教習所の教官のように、何がダメで何がヨシかを明示してくれる人間がよい。
苦手なことのアウトソーシングも、なし崩し的に「甘える」こととは違う。
きちんと対価を払って、責任をもって代行してもらう。

⑧2つの助言

文章を書くことを仕事にしたいという若者から、時々相談を受けることがある。
ジャーナリズムの道に進みたい、文学作品を書きたい、ライターになりたいなど、さまざまだ。
そもそも相談する相手を致命的に間違えているとは思うけれど、できるだけ誠実な態度で、無責任にアドバイスするように心がけてきた。

ざっくり言うと、主に2つのことを助言している。
1つは、自分の軸になる思想を磨いていったほうがいいということ。
人間というものをどう見るか。生と死をどう考えるか。
21世紀に入って、世界はまさにそういうところへの関心を急速に深めている。
深めざるを得ないのだ。
これは海外の最高峰の映画監督なんかと話すと、痛烈に実感する。

何かを単に教養として学ぶとか、教条的に傾倒するのではなく、自分の思想としてパズルを組んだり外したりしながら構築していく。
新しい世界をつくっていくためには、どのような人間観、死生観が求められるのか。
拙くてもいいから自分の言葉で話せるように心がけたほうがいいと思う。

もう1つは、「プロの書き手」の定義とは何かというそもそもの問題だ。
ウェブのなかった20世紀は、書いたものが書物なり新聞なりに掲載されて、原稿料なり印税なり、あるいは給与が支払われる。つまり、それで食えるのがプロだった。
しかし、今は誰もが自由にものを書いて、クリックすれば即座に世界中に発信できる。
数万部しかない媒体に記事を掲載されるより、何十万、何百万のフォロワーを持つ人に、それこそ自作のnoteを絶賛されてリツイートされるほうが、もしかしたら多くの人に共感されるだろう。

そういう意味では「プロ」の定義が崩壊しているというか、多様になっているのだと思う。
これは、アートの話とも似ている。
何十億という価格で取引されている作品と、友だちがお義理で5000円で買ってくれた作品、もしくは自分が描いて自室に飾っている作品の、どちらに価値があるか。

現代美術家の宮島達男さんは、値段なんていうものは所詮はマーケットの評価の話であって、流動的・相対的なものにすぎないと言い切る。
だから、そもそもアートは職業になじまないと言う。

例えば、最近、評価が高いフェルメールでも、ある時期、まったく評価されなかったし、有名なゴッホだって生きているうちは一点も売れてない。つまり、評価に絶対的なものなどなく、それ自体揺れるのだ。ピカソのように絵で食える人は、全体の一%にも満たず、宝くじを当てるより難しい。したがって、食える/食えないは、まったくの偶然と言っても過言ではないのだ。(宮島達男『芸術論』)

1冊1500円の本が奇跡的に1万部売れて、良心的な出版社で印税率が10%だとしても、入ってくる印税は税込み150万円である。
ある人が、毎年毎年欠かさず、自著を1万部売り続けられたとして、年収150万。
華々しく芥川賞を受賞したあと、作家として商売が成り立っている人がいったい何人いるのか調べてみるといい。
ちなみに生前のフェルメールは日々のパン代にも苦労していた。

自分が目指す良質な作品を生み出すという意味でのいい仕事を、息長く続けようとすれば、心身の健康が損なわれない程度の最小限の経済の安定があったほうがいい。
そのことで失敗や苦労を重ねてきた私が言うのだから、間違いない。
だから、就職先として新聞社や出版社を選ぶ人は別として、自由な仕事として書くことをしたいなら、別に安定した職業を持つか、複数の副業を持つか、ともかく収入源に多様性を確保しておいたほうがいいと思う。

ペン1本で食えているか否かなど、くだらない昭和のメンタリティだと思って、褒められても貶されても、馬耳東風でよい。
それよりも大事なことは、一生涯、創造への情熱を持ち続け、向上し、書き続けることができるかどうかだと思う。

私が作った本で、宮島達男さんと7人のトップランナーのシンポジウムをまとめた対話篇がある。
そのなかで、大竹伸朗さんがこう語っている。

ギターを弾くにしても、才能あるやつって2年もあればプロ級のレベルまで行っちゃうわけよ。ああいうのを見ると、才能って何なんだろうなっていうことを突きつけられてしまう。そういうことってあるじゃない。

だけど、大事なことは、その「持って生まれたもの」がない人間でも、超えられるものっていうのがあると思うんだよね。「持って生まれたもの」がなかったとしても、もしそれを50年弾き続けたら、才能あるやつが2年で行き着いた域とは違う場所に行き着くと思うんだ。(宮島達男編『アーティストになれる人、なれない人』)

先日、世界的な評価を受けている、とあるアーティストと2人きりで食事をした時に、その人が「あのね」と切り出してから一呼吸おいて、「自分はまだ何もなし得ていないと思って本当に溜息をついているんだよね。まあ頑張るしかないんだけどね」とボソリと言った。思ってもみなかった言葉に驚いた。
葛飾北斎は70代の後半になって、「90歳、100歳くらいまで生きられたら、自分もなんとかまともな絵を描けるようになるんじゃないだろうか」と綴っている。

もちろん、一生懸命に書いたものでお金が入ってきて、家族を養えて、家の一軒でも建てられれば、それは幸運なことだ。
そういう目標を立てて、がむしゃらに進むことも、まったく悪いことではない。
あるいは「世の中に認められてなんぼ」という意見も、一面の真理だと思う。
そこは、自分がやりたいようにすればいいのである。

さて、この想定外に冗長になってしまった文章の最後に、ソル・フアナの詩を紹介しておきたい。
ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス。1651年に生まれ1695年に没したメキシコの詩人・修道女である。
メキシコの200ペソ紙幣の肖像にもなっている。
アメリカ大陸最初の作家であり、当時、世界最大の版図を誇っていたスペイン語圏のスターだった。

これらの詩文を、わが読者よ
あなたの愉悦に捧げます、そのいいところとは、ただ、
出来が悪いとわかっていること。
その値打ちをあなたと論じたいとも、
お勧めしたいとも思いません、
そんなことをするほどの、
大げさなものではありません。
お礼を言っていただく必要もないのです、
考えてみれば、あなたのお手元に届けようと
私自身、意図していなかったものが
評価されるはずもないのですから。
あなたのご自由にお任せします、
否定したければしてください。
あなたが自由のうちにあることが
私にもよくわかっていますから、
人間の知性ほど
自由なものはないのですから。(『知への賛歌』旦敬介 訳)

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