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久しぶりの読書

先日、たまたま本屋に寄って本を二冊買ってしまった。図書カードをたくさん持っているにもかかわらず、持ち歩いていないので現金で購入した。少々損した気分になったが、それももう何回目になるか分からないほど図書カードが溜まっているので、すでに気にしなくなっている。本当は本屋にいく予定を立てて、準備をし、本屋へ向かうのが、図書カードを使う上での最も正しい本の買い方なのだろう。しかし、現代社会に生きる私は残念ながらこの運びで本を買うことはあまりない。読みたい本があればオンラインで購入し、本屋に行くのは今回のように何かのついでで寄るような場合ばかりだ。使われない図書カードたちを見ていると、いっそのこと誰かにあげてしまおうか、とも考える。実際にあげてしまうなんてことをするつもりはないが、使う日を決めて盛大に本を購入してこようと思う。当日になって面倒だと取りやめてしまう可能性が非常に高いが。

盛大な余談をしてしまった。この記事を書くのは何も図書カードの話がしたかったからではない。正しい名称は知らないが、記事の見出し画像だろうか、その画像に写っている二冊の文庫本を買った。まだ右側の『五分後の世界』を読んでいる途中だ。途中ではあるが、すでにかなり面白い。読む手を休められないくらいに私は今、この本の世界観に取り憑かれている。『絶唱』はまだ読んでいない。せっかく本屋に来たのだから一冊しか買わないのも何だか寂しいと思っての二冊なので、特に勧められたとか、評判を聞いたとかは無い。強いていうなら、著者の名前を知っているというくらいだ。他にも色々と本が並んでいたが、何となくこの二冊だった。本を買うのはとても楽しい。そもそも本、特に小説なんかは自分とは違う思考から組み上がった世界を体験するわけだから、ほぼ異世界探検みたいなものだ。時折、自分と違う感性の人の五感と自分の五感が入れ替わったら世界が変わってしまうのだろうなと思うことがある。文字通り世界が変わってしまう。他の人の見る赤は、ひょっとしたら私の見ている緑かもしれないし、バナナの匂いはりんごの匂いかもしれない。ここまで直接的に世界が入れ替わることはなくとも、前提の感覚や思考が私とは違うので、小説を読んでいる時は違う思考、感覚を体験しているように感じる。

読書を通じて得られる経験はなかなか興味深い。どこか夢を見ているときと似ている。読書は夢と同様に実際に体験していないことを経験させてくれる。正直、夢の方が体験としては強いものだが、あくまでも夢は自身の感覚、思考を元にしているので、経験としては読書の方が優位にある。夢は妄想とそう変わりない。つまり、読書は異世界への扉なのだ。異世界とは言っても、剣と魔法の世界だとか、SF作品のような世界を指しているわけではないことは、上記で重々承知しているだろう。自分とは違う思考をし、自分とは違う感覚で生きている人間の世界のことを指している。読書の素晴らしさというものは、得られた知識や経験を凌駕する、他の思考との邂逅なのだ。少し大袈裟に言いすぎたかもしれない。久しぶりの読書に気分が高揚しているのだろう。余裕があれば読書は続けていきたいと思う。久しぶりと言う前に読んだ感想を投稿できるようにしたい。

ここまで読書の素晴らしさに対する自論を綴ってきた。とりあえず言いたいことは言えたので、今日はこれでよしとしよう。これを見た私は、読みかけの本の処遇を決定し、そして図書カードを使用して本を買うように。偶然にもこれをここまで読んでくれた人には感謝したい。有り難う。多少の暇つぶしにでもなってくれていれば幸いである。またどこかで見かけた時も、暇つぶしに読んでいってくれると嬉しい。

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