見出し画像

統合失調症に翻弄される人生②諸々

母が退院したところで①は終わったが、少し話は戻る。

13歳の頃、母の入院によりふたつ上の兄と2人暮らしになった。
父は愛人宅から月に数回お金を置きにくる。

「自分の愛する人はあの女とは違い一流大学の文学部を出ている」
など、母を否定をし、私自身も罵られたことが多々あった。

それでも稀に機嫌の良いときは2人で話をした。
それは父の仕事の関係上本だらけの家で育った私、幼い頃から博識な父に色々な質問をした。
その延長のようなことをしていた。

思想、哲学、歴史、大東亜戦争とは何だったのか。など。

罵倒されるけど、まだその年齢の私は親が大きな存在で、当たり前に好きだった。

ある日、やはり私の粗を探して、確か、何かをしまわずに出しっぱなし、とかそんなこと。
「君は本当に愚かだ、僕はそれをしまってやった、それが僅かに残っている愛情ってもんなんだろうな」
吐き捨てるように父は言った。

それがストレートにガツンと響いてショックを受けた。
親が子に対する愛情というのは無償であり、宇宙よりも広大で、こんなに簡単にサラリと言葉に表せるものではないと思っていた。
でもこの人は簡単にそれを言った。
「お前なんか嫌いだ」
と言われるよりもダメージを負った。

母は病状が落ち着いた頃、頻繁に私に手紙を宛てた。
とにかくあなたを気にかけている、必ず戻る、また共に暮らそう、と。
中学生の私に小学生の低学年が着るようなファンシーな下着を送ってきたこともあった。

ああ、母は私に幼いままでいて欲しいのだな、私が子供から成長し自分と同じ大人になっていくのがなんとも辛かったのだろう。
子である私も精神疾患を持っていると確信していて、大人になって苦労して欲しくない、ずっと子供でいて、そう願っていたのかなぁ。

白けた絶望と生きても良いのか?という僅かな希望、このふたつがなんとも複雑に混ざり絡まり合い、混沌としたこの頃。

数年ぶりに母が帰ってきた。
はじめは怖くて顔もまともに見ることができなかった。
けど、母は本来の顔に戻っていたし、宝飾品より野に咲く花を美しいと感じる、幼い頃から大好きな母そのものだった。

徐々に私たちは以前のように3人の生活に戻った。

この頃両親の離婚はまだ成立していなかった。
父はなにを思ったか
「妻の精神疾患によりダメージを受けた」
と離婚調停を起こした。

相手に急かされたのか、とにかく早く離婚したかったのだろう。
或いは少しでも慰謝料を減らしたかったのだろうか。
母は父の不倫の証拠を集め、弁護士に頼み、案の定父は慰謝料を支払い、養育費を払うことになった。

そしてようやく愛人だった20下の女性と結婚。
盛大に結婚式を挙げたらしい。
その女性からしたら悲恋のすえにやっと結ばれた私たち。ドラマティック。
確かにそうだね。

そんな経緯なのだが、あまり存在感のない私のふたつ上の兄。
彼はこんなにも劣悪な環境にいながら、驚くほどザ・普通の人生を歩んでいる。

私たち兄妹が究極に堕ちなかったのは、経済的困窮がなかったからだと思う。
幸い、お金は十分に貰っていたし、必要だと言えば更に貰えた。

兄は高校受験にあたり、自分で良さそうな塾を探し、隣の部屋で私と父が言い争うのを聞きながら勉強をしていた。
大学受験も自分で段取りし、のち、大学で知り合った聡明な女性と結婚し、3人の子をもうけ、妻の実家近くに家を構え、都心に通勤。
趣味はゴルフ、44歳になった今は通な酒を嗜んだりと、本当に普通である。
まあ、兄にとっては普通が頂点の憧れで、それを達成したのかもしれないが。

これからも母の病気は続くが、そんな兄が私の心の支えとなる。
兄がいなかったら乗り越えられなかっただろう。

私は上京、アパートを借りてファッション販売員になった。
お金はギリギリだったけど、好きな仕事をして自由に暮らして初めて人生が楽しいと思った。

恋愛もしたし失恋もした。
病気のことなど忘れる時もあり、天秤は生きる希望の方の皿がテーブルに落ちた。

ある日不眠になった。
病気がよぎる、この遺伝子、ついに私も気が狂うのだろうか。
その恐怖は常にあった。

病院に行って抗不安薬と眠剤をもらった。
けど、それを飲み出したら完全あっち側に行くのだ、そう思い、ずっと飲まずに閉まっていたのを覚えている。

そしてまたお医者に言って、母の病気が私に遺伝する確率を算出してもらった。
確か、双子は90%、兄弟は70%とかそんな感じだった。
親と子、50%くらいだった。
これは安心にはならず、やはり狂人疑惑は常に付き纏った。

ある日、母とのメールのやり取りをしたら支離滅裂だった。
深夜にもメールや着信がくる。
ああ、発病だ。
父はもう他人。
兄には伝えた。

もうダメだと思ったところで、私は仕事を早退して実家に向かった。

そこにはまさしく狂人になった母がいた。
訳のわからない絵を紙に何枚も書き、絨毯を切り刻み、呪文のような言葉も何かに書いていたり、大量な買い物の痕跡、それは躁状態の時にやったのだろう。

私が家に着いた時は鬱状態になっており、これから死にますと寝込んでいた。
刃物、薬、散乱。
なにをどうしたら良いのやら混乱。
天秤はまた揺らぐ。

続く



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?