統合失調症に翻弄される人生①
これは実母の話である。
母は70年前、東北のある田舎で生まれ、酒飲みの祖父、働き者の祖母、家庭は貧しかったようだ。
きっかけはよくわからないが、14歳の頃、統合失調症になり、発狂し、町の精神病院に入院させられた。
あそこの娘は気が狂っている。
集落の人々はそういい、村八分だったとか。
「女が勉強なんかしてもしょうがない」
学びたかったが、父の意向により高校には進学できず、どこかの旅館に住み込みで働きに出された。
が、やはりそこで発病。
家に送り返されまた入院の日々。
この辺りのことは実際よく知らない。
後に父から聞いたことである。
祖父は出身が横浜で、疎開した先のその地で祖母と結婚し家庭を持った。
母は親戚のツテを頼り、横浜のある会社に就職した。
昭和50年頃、父と出会った。
父を溺愛していた父方の祖母は、田舎の貧しい出の女と結婚など絶対に許さないと反対したが、2人は押し切って結婚。
兄が生まれ、2年後、私を身籠った。
母は父に病気のことを話していなかった。
やっと手に入れた幸せ。
失いたくなかったのだろう、そして、気さえしっかりしていればもうなることはない、そう信じていたのだろう。
が、妊娠中、発病した。
父、父方の祖父母は驚いた。
そこでそのような病歴がある事を知る。
すぐにかかりつけの東北の精神病院に入院させられた。
妊婦だったが、やむを得ず多量の薬を飲んでいたのだろう。
私を出産し、やはりまた入院し、私と兄は祖父母のもとで暫く育った。
時が経ち退院して、子も2人いることだし、父は母と共に歩む決断をした。
しかし、母はまだ不安定で東北の実家で過ごす。
病気で狂わされた人生、やっと手に入れた幸福、でもやはり私は狂人なのだろうか。
そんな事を日々思っていたのだろう。
祖父母の家の近くに大きく太い川が流れている。
母は赤ん坊の私を道連れに、入水自殺を決意する。
何時頃だったのかわからない。
川に入った時、異変に気がついた祖父が走ってやってきて止めた。
「死んだらいかん」
いつもはダメ親父だったというのに、祖父は私の命の恩人であった。
そこでハッとしたらしい。
母は横浜に帰り、父と再び暮らし始める。
父方の祖母はこの件で更に母を嫌った。
初孫の兄のことは溺愛したが、私のことは母とセットで悪魔が取り憑いていると、やはり嫌った。
嫁いびりは幼い私から見ても酷かった。
母は頑張っていた。
プレゼントを持って行っても
「これ趣味じゃないわ、持って帰ってちょうだい」
平気で突き返した。
それでも私たち4人家族はこの頃は普通に見えていたと思う。
私が10歳にもなっていない時、父が部下と不倫をして、あっさりと私たち3人を捨てた。
愛人と一緒になりたい、家を出ていき、祖母もそちらを応援した。
私は大泣きして父を引き留めた。
なんとなく予感はしていたけど、それが現実になるとは。
そのタイミングでは母は発病まではしなかった。
だが、父との諍いで何度も何度も自殺未遂をした。
それを目撃するのはたいてい私。
救急車を呼び、父も呼び、血だるま、手当て、胃洗浄。
そこまでで、それ以上のものはなかった。
耐えた、おそらく。
今なったら私と兄は人生を踏み外す、そう思ったのかもしれない。
そしてその頃から母は私に執着し出し、何かと傷つける事を言った。
父に酷いことを言われて欲しかったようで
「嘘でいいからお父さんと暮らしたいって言ってみて、お願い」
電話して言ってみたら
「ふざけるな、馬鹿」
とガチャ切りされた。
私は両親に邪険にされひどく傷ついた。
そして、私が中学に上がる頃、ついに母が発病した。
顔つきが別人のように変わり、無いものをあると言ったり、聞こえないものを聴こえると言ったり、おかしな言動。
ピンポイントで私に罵声を浴びせた。
「あなたも私のように気が狂って死ぬのよ」
私も兄も病気のことを知らなかったので訳が分からなかった。
やはり父を呼ぶしかなく、父はとても面倒くさそうに、母を東北まで入院させに行った。
子供2人での生活が始まった。
そこからは父からの嫌がらせ、暴言。
月に何度か嫌々金を渡しにくるが、愛人との生活を邪魔され、腹いせなのか、私に対し
「あの女の子供だからお前はいずれ発狂して死ぬ」
「あの女は生きてるうちに病院から出てくることはないだろう」
「なんであんな女と結婚したのか」
つまり、両親の言う共通することは、私はいずれ気が狂って死ぬ。
ということ。
生きる希望などなくなっていた。
人に迷惑かけて死ぬのならば、この人生厄介なだけだ。
ただ母を見ていて、自殺というのはなかなか成功しないということを知っていた。
失敗する時ほど情けないものはない。
「完全自殺マニュアル」という本を買って研究した。
だが、どんなに絶望していても、その頃夢中になっていたオザケン、聴き始めたジャズ。
それらをもっと深く知りたいとも思ったし、亡き親友Nちゃんは察して、常に私に寄り添い、大人になったら一緒にこんなことしようねと言ってくれた。
基本的に大人たちは無関心だった。
見てみぬふり。
中2の担任からは事情を知っているのに徹底的にイジメられた。
数年後、母が退院すると聞かされた。
会うのが怖かった。
逃げ出そうかと思った。
帰ってきた母は私に申し訳なさそうにやってきた。
自分がしたことは全部記憶している。
その時、私は、ああ、これは「病気」なんだ。
母は何も悪くない、全て病気がそうさせているんだ。
本来の母は優しくて、明るくて、素晴らしい女性なのだ。
友人たちも皆離れていったけど、子である私が彼女を支えていかなければならない。
そうも思っけど、あの日々はどうしても、今でも受け入れられず、私は高校に上がってから家を空けることが多くなり、そのまま就職して東京に行った。
母の病気はまだまだ続く。
私にとっても過酷な日々がまだまだ待ち受けている。
続く
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