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通奏低音の響く街 風子 11-(2)

「孤独のなかの神の祝福」をハミングしながら、ケンズィーの珈琲カップを洗っていた風子は、カップをかごに戻すとき、シンクの縁に勢いよくぶつけてしまった。幸いカップは割れなかったが、飲み口の一部がかけてしまった。ソファに寝そべり、録画した「トスカ」を見ていた彼が、「大丈夫か?」と心配そうに駆け寄ってきた。


 彼は風子に怪我がないことを確認すると、「後は僕がやるから」と風子の肩を抱き、頬に口づけた。ソファに退散した風子は自己嫌悪で膝を抱えた。彼の部屋で洗い物をするようになってから、縁が欠けた皿やグラスが増えた。きっと、彼も気付いている。


 洗い物を終えた彼は風子の隣に座って尋ねた。           「風子はそそっかしいの?」
風子は「そうなの。疲れてるのかな。気をつけないと」と目を伏せた。
「そうか。子供のときからそうだった?」                 彼が何らかの意図を持って尋ねているのは、装った何気なさからわかる。
 風子は彼の意図を読み取れないまま、「まあ、そうかもね……」と言葉を濁した。
「よく、忘れ物をしたり、物を失くしたりしなかった? 風子の部屋はいつも綺麗だけど、本当は整理整頓が苦手じゃないのか? 相当、無理をしてるんじゃない?」
 矢継ぎ早に尋ねられた風子は、何でわかるのかと思ったが、深く考えないように努め、「そんなことないよ」と無難に答えた。
「子供の頃、じっと座っているのが苦手じゃなかった?」
「そんなこともあったかな。でも、子供って落ち着きがないものでしょ。何でそんなこと聞くの?」風子は不信感を剥き出しにして突っかかった。
 彼は風子に口を挟ませない気迫で尋ねた。「風子のことが知りたいからだ。もう少し、教えて。風子に友達が多いのはよく知ってる。たくさん紹介されたからね。だけど、人間関係がうまくいかないことはなかった? 知らないうちに友達が離れていったことはない? 何で仲間外れにされるのか、無視されるのか悩まなかった?」
 いつになく真剣な彼に不安を煽られた風子は、険のある声で返した。 「23年も生きてれば、誰でもそんなことの1つや2つはあるでしょ。あなたはないの?」
「もちろんある。僕は見ての通りの癇癪持ちで愛想のない最低野郎だ。ところで、つい人が傷つくことを言っちゃうことはなかった?」
「そりゃ、昔はあったよ。いまは、意識して気をつけているけど……」
 風子の苛立ちを察した彼はそれ以上の質問を止め、流しっぱなしにしていた映像に目を移した。彼の頭を占領しているのが、情感豊かにトスカのアリアを歌いあげる、でっぷりとした歌手ではないことは、いつになく険しい横顔を見ればわかる。風子は彼の質問の行きつく先はどこだったのかと思いを巡らせた。


 彼は沈黙を破るようにふっと息を吐き、悲愴な顔をこすって繕うと、「もう遅い。送っていこう」と車の鍵を取った。風子は、このまま別れてしまうのが不安で、立ち上がれなかった。だが、このまま彼と顔を突き合わせているのもなぜか怖かった。


 彼は風子が友人とシェアするアパートメントの前で車を止め、「おやすみ、風子」と少しだけ口角を上げて微笑んだ。無理につくった笑みは、今にも崩れてしまいそうに弱々しい。いつものように、おやすみのキスが欲しい風子は、潤んだ瞳で彼を見つめた。彼はその雰囲気に引き込まれるのを拒むように、風子が降りるのを待っている。これ以上みじめになるのが耐えられず、風子は大人しく車を降りた。言葉にできない胸騒ぎに捉われ、彼の白い車が見えなくなっても、そこから動けなかった。


 3歳くらいのアジア系の男の子が、今にも転びそうな足取りで砂浜をいく。白人男性とアジア系女性の夫婦が見守るようについていく。風子は目を細めた。ケンズィーとあんな家庭を持つことを想像すると、あの日から蜘蛛の巣のように胸に広がっていく不安を一瞬だけでも忘れられそうだった。
そのとき、男の子が砂に足を取られてつまずいた。風子は咄嗟に駆け寄って助け起こし、「アーユーオールライト?」と日本語なまりの強い英語で尋ねた。男の子は、こくんと頷き、弾けるような笑みを見せた。駆け寄ってきた夫妻からも礼を言われ、風子はにっこり微笑むと、砂浜に体育座りをしているケンズィーのもとに戻った。
「子供って、本当に可愛いね」彼の隣に座った風子は目尻を下げて言った。
サングラスをかけたケンズィーの瞳の表情はわからない。だが、彼の全身がかすかに強張ったのがわかった。風子はその意味がわからず、不安をかき立てられた。
「風子は子供が好きなの?」彼は、やや硬さのある口調で尋ねた。
「好きだよ。優しい気持ちになれるし。子供をみるたびに、自分にできたら、どんなふうに育てようかってつい考えちゃうくらい。どうして?」
 彼はそれに答えず、水平線の彼方を思い詰めたように凝視していた。風子は沈黙を埋めようと、とりとめもなく話した。自分に距離を置き始めた彼には、逆効果だとわかっていたが止められない。「ケンズィーとずっと一緒にここで暮らして、ビーチを散歩したり、夕陽が沈むのを見たりできたらいいな……。子供ができたら、家族で手をつないでビーチを歩いたり、バーベキューしたりさ」
 ケンズィーは苦しそうに顔を歪めた。風子は彼が自分の不安と向き合ってくれないことが悔しかった。
「ねえ、何で私に距離を置くようになったのっ……!」風子は悲鳴のように叫んだ。ずっと腹の中に抱えてきたことを遂に吐きだしてしまい、後悔と不安が喉元にせり上がってくる。だが、もう気付かないふりを続けるのは限界だった。
「風子のこと、大切にしているじゃないか」彼は抑揚のない声で答えた。
 確かに彼は大切にしてくれる。レディーファーストやエスコートは完璧で、声を荒らげることもない。優しい言葉もくれる。だが、風子がカップの縁をかいたあの日から、彼は何かと理由をつけて肌を重ねるのを避けている。キスやハグも、ねだると渋々応じてくれるが、兄が妹にするような礼儀正しいものになった。合う回数も減っている。家に送ってくれた彼の車を見送った後、風子は切なさで幾度となく泣き崩れた。
「けど……、わかってるでしょ! 自分から私に触らなくなった……」言葉にしてしまうと、熱いものが込み上げてきてしまい、風子はそれを必死で飲み込んだ。
 彼は何も言わずに、パドリングで沖に出ていくサーファーを見ていた。白人のようなメイクをしたアジア系の女が、わけのわからない言語で痴話喧嘩をするカップルに興味津々の視線を投げていく。
「あたし、不安で……」風子は息を整えてから言った。
「何が?」やけに冷めた声が、風子の怒りに火をつけた。
「いろんなことがだよ! ビジネスコースがもうすぐ終わって、アメリカで仕事が見つかるかって不安だし。自分にしかできないことも、まだ見つけられてなくて……」
「つまり、君の将来が不安だということ?」彼はポーカーフェイスを崩さずに尋ねた。
「それもあるけどっ、私達の関係が不安なの! 仕事は自分で見つけなくちゃならないけど、そんなとき、恋人に支えてほしいって思うでしょ? なのに……」
「つまり、風子は僕とどうなりたいの?」彼はやけに冷めた声で尋ねた。
「ずっと一緒にいたいよ! 二人で暮らして、カリフォルニア生活を楽しみたい。子供もたくさん欲しい。二人でピアニストに育てるのも楽しそう……」
 ケンズィーは口をつぐみ、すぐ近くまで押し寄せてくる波に目を落とした。
「風子、そんなに子供が欲しいのか?」彼は乾いた声で言った。その声は、心なしか震えているようにも聞こえた。
「欲しいよ。子供好きだし。それが何か悪いことなの?」
 目を落とした彼は、暗澹とした声で絞り出した。「僕はその夢はかなえてあげられない」彼は風子を突き放すように立ち上がり、ジーンズの尻についた砂を払った。
「もう、終わりにしよう。僕は君の望むものを与えられる男じゃない……」
 風子は自分の聞いた言葉が信じられず、血の気の引いた顔で彼を見返した。だが、去っていく細い背中が、それが現実だと冷酷に物語っていた。
「待って! 私のこと、神の祝福だって言ったじゃない。私はそんなに簡単に切り捨てられる存在だったの?」風子は彼の背中にすがりついた。
「君は、望むものを与えてくれない男といて幸せなのか?」
「ちょっと、待ってよ! どうして、いきなりそういう話になるの? わけ、わかんない。ちゃんと話し合おうよ」
彼はそれに答えず、「僕は絶対に子供をつくらない」と言い放った。
 最後の一言が、鋭利な刃物のように風子の胸を切り裂いた。
「何で?」風子の声は震えた。彼の前に立ちはだかり、真っ赤な目で睨みつけて行く手を阻んだ。「どうして、急にそんなこと言うの?」
 込み上げてくる嗚咽で言葉が続かなくなる。ショックで立っていられなくなった風子は、崩れ落ちるように砂浜に膝をついた。砂上にいくつも涙の染みができた。
 ケンズィーは、泣き崩れてしまった風子の腕をつかんで立たせた。抱き寄せて髪を撫でながら「明日、六時に教会においで」と囁いた。
「明日は……、聖歌隊の練習ないでしょ……?」涙で声を詰まらせながら尋ねる風子に、彼は見せたいものがあると言った。

 


   風子は後方の信徒席に腰を下ろした。地獄のような夜を経て、目は腫れあがり、顔はむくんでいた。醜い顔を曝すのが恥ずかしく、マスクをかけて登校した。だが、皆に感染症かとしつこく聞かれ、面倒で外してしまった。生理が一週間も早く来てしまい、下腹の刺し込むような痛みが辛い。


 教会内では、小学校低学年くらいの白人の女の子と男の子が、奇声をあげて追いかけっこをしている。姉と思われる女児の声は甲高く、子供好きの風子でも、思わず耳を塞ぎたくなる。弟は大柄な肥満児で、何度も信徒席に手や足をぶつけたり、前のめりにつまずきそうになったりで、風子はいつ転ぶかと気が気ではなかった。実際、よく転ぶのか、腕や膝にはいくつも擦り傷やあざがあった。騒々しい二人を目で追っていた風子は、二人を見守る母親らしき金髪の女性と目が合い、ハイと声をかけた。彼女の柔和な笑顔に、風子は不意に自分の母の記憶を呼び覚まされた。
 思えば、自分も子供の頃はこんなだった。母の注意を無視し、きゃーきゃー叫びながら輸入物を扱う高級スーパーを走り回った。派手に転んで火がついたように泣き、金髪に青い目の美しい女性に助け起こされた。ヨーグルトのふたに、好奇心から指でぷすりと穴を空けてしまい、その感覚がやみつきになって次々と穴を空けた。目を回した母が、風子が穴を空けた高級ヨーグルト6個を真っ赤になって買い上げてくれた。赤面したくなるような記憶が矢継ぎ早によみがえり、風子は思わず頬を手で覆った。
「ケンズィーーー!!」姉が空気を切り裂くような歓声を上げて走りだし、入ってきたケンズィーの細く長い足に飛びついた。彼はしゃがみこんで彼女を抱き上げ、「元気にしてたか、セシリア?」と頬に口づけた。彼女もケンズィーの両頬にキスの雨を降らせた。ここしばらく、ねだらない限り、彼にキスしてもらえなくなった風子は、女児を彼から引き離し、蹴飛ばして大泣きさせてやったらどんなに気持ちがいいかと思った。むくんだ顔の風子と目が合った彼は、苦しそうに視線を反らした。その冷たさは、鋭利な刃物のように風子の胸を刺した。
「やあ、フィル! 練習してきたか?」ケンズィーは姉を下ろすと、駆け寄ってきた弟の肩に手を置いて問いかけた。「いっぱい練習したよ。指も頭も痛くなるまで練習したんだ。ママも、いい加減、止めなさいっていうけど、僕はピアノが好き。モーツアルトもベートーベンもみんな好き。もちろん、一番好きなのはシューベルト」
 弟はいらいらするような舌っ足らずの話し方だった。
「あたしも、いっぱい練習した。ケンズィーと弾くのが楽しみで眠れなかったの!」セシリアはよほどエネルギーが余っているのが、飛び跳ねながらまくしたてた。
 風子は甲高い声に耳が痛くなってきた。彼が生活のために方々でピアノを教えているのは知っていたが、こんな騒がしいちびっこまで教えているのは意外だった。


「そうか。じゃあ、弾いてみようか?」彼は後ろに座っている母親に会釈し、ピアノの椅子を下げて、まずはセシリアを座らせた。長身の彼は、窮屈そうに隣に座り、「速さはこのくらい」と椅子を4回ほど叩いた。セシリアは頷き、ふっと大きく息を吸う。それを合図に軽快で重厚なマーチが始まる。風子も子供の頃、母親と連弾したことのあるシューベルトの軍隊行進曲第二楽章。セシリアは、さっきまでの落ち着きのなさが嘘のような集中力で鍵盤に向かい、高いほうのパートを危なげなく弾きこなす。やや指が滑る部分と走り過ぎてケンズィーとずれるのが気になる。だが、真摯に音楽と向き合う横顔は凛として美しい。2人の手が重なりそうになる箇所で、セシリアが頬を赤らめたのを見て、風子は全身の血が頭に昇るほど苛立った。
 弾き終えたセシリアは、褒められることを期待し、得意そうな顔でケンズィーを見た。だが、彼は「走り過ぎるところが多い。僕と全然合っていないのがわからなかった?」と冷酷に問いかけた。唇を尖らすセシリアに構わず、ケンズィーは合わない箇所を何度もやり直しさせた。初めのうちこそ、おとなしく従っていたセシリアだが、何度も「ダメだ、もう一度」と言われるたびに苛立ちを募らせ、終いには「こんなの楽しくないっ!」と叫び、大きな目から涙をぽろぽろこぼした。「楽しいだけが練習じゃない!」と怒鳴られたセシリアは、泣き叫びながら足をどんどん踏みならした。駆け寄ってきた母親にしがみつき、この世の終わりのようにおいおい泣きだした。
 ケンズィーは顔色一つ変えずに言った。「泣くなら外に出ろ。練習の邪魔だ。涙が止まったら、戻ってきてやり直すんだぞ!」
 母親は手慣れた様子でセシリアを抱き上げて連れ出した。セシリアの甲高い泣き声は、扉を閉めても聞こえてきた。


 ケンズィーは、さっきよりほんの少しだけゆっくり椅子を叩いて、フィルとの連弾のテンポを決めた。今度はケンズィーが高いパートを受け持つ。フィルは一つ一つの音を正確に弾いているせいか姉のような滑らかさはないが、タッチの強さは勇壮な曲にふさわしい。姉と違って、ケンズィーと合わせようと努力しているのが窺える。もう少し弾きこめば、固さとぎこちなさがとれ、一皮むけると期待できそうだった。
ケンズィーは「ぎこちなさがとれないな。練習怠けただろ?」と厳しく問いかけた。
「僕は頑張ったよ……」フィルは目を伏せてぶつぶつ言った。
「結果を出さなければ意味がないって、いつも言っているだろ!」
 厳しい言葉にフィルの顔がくしゃっと歪み、ひっくひっくと肩が上下し始めた。
「子供に、そんなにきつく言わなくても!」見ていられなくなった風子は、飛び出していってフィルの肩を抱いた。
彼は日本語で風子に怒鳴った。「黙ってろ! 彼らは中途半端な気持ちでやってるんじゃない。親も俺に任せている」


 ケンズィーは「このあいだ、注意したところからやるぞ」と冷酷な声で言った。フィルは袖で目をこすり、鍵盤に向かった。ケンズィーはメトロノームでリズムをとりながら、難しい箇所をその速さで弾けるように何度も練習させた。フィルはどうしても指が早く回らない。30分も同じ箇所の練習が続き、フィルの顔は真っ赤になり、鍵盤に汗が垂れそうだった。見かねた風子は、クリネックスで汗を拭いてやった。


 それを合図に、ケンズィーは休憩にし、外にセシリアの様子を見にいった。泣き叫んで疲れきったセシリアは、同じくらい憔悴した母親に抱かれ、教会内に戻された。ケンズィーは二人の気持ちが落ち着くまでピアノを弾いていた。のびやかなベートーヴェンの交響曲第7番第1楽章で気持ちを持ち上げると、ストラヴィンスキー「ペトリューシュカからの3楽章」を怒濤のように弾き始めた。桐子は、オーケストラの音をピアノで再現する超難曲だと聞いたことがあったが、ここまで音が多いとは思わなかった。頑張れば僕のように弾けると力強く語りかける彼の声が聞こえるようだった。第1楽章が終わる頃には、セシリアは目を輝かせ、フィルは呆けたように口を開けて聴き入っていた。


 そんな二人を見たケンズィーは、「最後に1回、2人で弾いてくれないか。一番いい演奏を聞かせてくれ」と甘い笑顔を見せた。笑顔の戻った2人は、リラックスしてピアノに向かった。疲れが出ているおかげで、2人の迸るようなエネルギーがほどほどに抑えられ、安心して聴いていられる。気心知れた姉弟で弾いているため、ケンズィーと弾いているときとは明らかに違う独特の安定感があった。この年の子供にしてはかなりレベルが高い。すっかり魅了された風子は、彼がこの騒がしいちびっこを鍛えている思いがわかる気がした。


 母親の車に乗せられて帰っていく二人を見送った風子は、どっと疲れが出て、一番後の信徒席に座りこんでしまった。ケンズィーは風子の隣に座って尋ねた。
「あの子たち、どう思う?」
「何だか嵐が過ぎ去った後みたいだね。圧倒されちゃった」
 彼はそんな風子に冷めた視線を投げ、感情を殺した声で言った。「僕に子供ができたら、あんなふうになる可能性が高い……」
風子は、いきなり何を言いだすのかと彼を見返した。
「あの子たちは、僕と同じ発達障害だ。子供の頃の僕にそっくりだ。僕が10歳のとき、日本のオーケストラでチェロを弾いていた両親は、僕が原因で離婚した。僕はひどい癇癪もちの子だったからな。体が弱くて、こんな外人みたいな外見だから、いじめられて、学校を休んでばかりだった。離婚した父はアメリカに帰った。日本人の母は、厄介な息子が原因で再婚を拒まれた。だから僕は12のとき、父親に引き取られてアメリカにきた。僕のピアノの才能をアメリカで伸ばしてやりたいっていうのもあったらしいが、母は厄介払いができてほっとしていただろう」
 ケンズィーは教会のなかを忙しなく行ったり来たりしながら話し続けた。「僕は英語やアメリカ生活、新しい家族への適応がうまくいかなくて、日本語で癇癪を起してばかりで、父の家でも台風の目だった。学校では、英語がわからないから、苛められる。ぐったり疲れて帰ってくると、家の手伝いはしない、宿題はしない、ピアノの練習もさぼる。怒られると、日本語と英語を混ぜて暴言を吐く。父はだらしない僕を規則づくめで縛り、従わないと暴力で抑えつけた。僕も切れてやり返して、2人とも傷だらけになった。1カ月で祖父母も父も疲れ切って、僕を養子に出すか施設に入れることを考えた。わかるだろ? 家族は毎日が戦争なんだ」
「ケンズィー、そんな言い方しないで。親が子供をそんなふうに思うわけないよ」
 懇願するような風子の口調に舌打ちし、ケンズィーは冷ややかに言った。
「君も台風だったんじゃないか?」
「は? 何が言いたいの?」風子は心底理解に苦しむという表情で尋ねた。
「風子、怒らないで聞いて」ケンズィーは風子の隣に掛け、オクターブ低い声で畳みかけた。「多分、君も発達障害だ。それは、君が悪いのでも、家族の育て方が悪かったのでもない。生まれつきの脳の障害だ。この障害は遺伝だ。それも、かなり確率の高い遺伝らしい。隔世遺伝もある。君の家族や親戚にもそれらしき人がいると思う」
「わけわかんない。障害って、どんな? 何で私がそうだとわかるの?」
「発達障害の症状は、光を分解したスペクトラムみたいなものだ。脳の中枢神経系の機能不全のせいで、知能、精神活動、運動機能などの発達が妨げられて、行動や認知に特有の症状が出る」
「私にどんな症状があるっていうの?」風子はいきなり障害者扱いされたことに困惑し、突っかかるように尋ねた。
「僕は専門家じゃないけど、風子はADHDっぽい。ADHDの症状は、不注意、多動性、衝動性。原因は、脳の前頭葉がうまく働かないことと、神経伝達物質の働きの弱さ。核になる症状は不注意。脳の機能不全で、覚醒レベルが少し低いから集中力が続かない。だから、忘れっぽい、ケアレスミスを繰り返す、計画を立てて物事を勧められない、課題をやり遂げられない、整理整頓が苦手、服装を整えられないとか困った症状が出る。僕は子供の頃、そのほとんどが当てはまった。君は?」
 風子にも当てはまる部分がたくさんあったが、認めるのがしゃくで、反発するように尋ねた。「多動って何? 授業中、座っていられずに歩き回ることとか……?」
「そういう症状は9歳くらいで収まるけど、大人になっても、その名残で貧乏ゆすり、早口で一方的に話し続ける、落ち着きがないという行動で残ることもある。衝動性が強いと、人と話している最中でも、遮って割り込んで、浮かんだ考えを口に出してしまう。言ってはいけないことを言って相手を傷つけたり、場をしらけさせたりする。他にも、かっとなってつい口論してしまったり、順番が待てなかったり。車の運転で無理な追い越しをしたり、スピードを出しすぎるので事故率も高い。後先考えずに大切なことを決めてしまったり、昔の僕みたいに、その場の雰囲気に流されて女と寝てしまったり……」
 自分のことを言われているようで不愉快になった風子は、ふてくされて口を噤んだ。
「こんな厄介な障害を抱えているから、自分のことで精一杯で、相手を思いやったり、空気を読める余裕が持てるまでに、普通の人より時間がかかる。自分は平気で人が傷つくことを言うくせに、ストレス耐性が低いから、人に何か言われるとすぐへこむ」
 言い当てられて憮然とする風子を無視し、彼は続けた。「ADHDを持っていると、学校や職場で低い評価を受け続ける。遅刻する、忘れものをする、いじめられたりからかわれたりが続く、テストでケアレスミスが続いて思うように成績が伸ばせない、集中力も根性もないと言われる。職場でミスをして同僚や上司に迷惑をかける、空気を読めない、締切りに間に合わない、約束を忘れる、一度にたくさんの仕事を抱えるとパニックになる、臨機応変に動けない、よかれと思ってやったのに、どこかずれていて周囲を苛立たせる、成功体験は少ないのに、失敗体験ばかりが重なって、自然に自己評価が低くなる」


 耳を塞ぎたいことばかりだった。専門医に診断してもらうまでわからないだろうが、当てはまることが多すぎ、認めないわけにはいかない。一度自分のなかで肯定してしまうと、ああ自分が悪いわけではなく、脳のせいだったのかと思うと、常に逆立っていた不安や怒りの突起が、撫でられて鎮まっていくような不思議な安らぎがあった。
  

   彼は信徒席に座り、長い脚を組み直して続けた。「どの症状が強く出るかは個人差がある。多動・衝動性が強い型、女性に多い不注意優勢型、二つを併せ持つ混合型がある。大人は多動が治まってるから、ADDって呼ぶことが多い」
「あなたはいつ、自分がそうだって気付いたの?」
「アメリカに来てからだ。学校の先生に指摘されて専門医を受診した。処方された薬が効いて、集中力が維持できるようになって、いくらか穏やかになった。家族もほっとした。アメリカのほうが、治療法は進んでいたし、理解もあった」
 ケンズィーはピアノの前に座った。「ここアメリカはADDの国だ。ADD専門のアメリカ人医師が書いた本に、アメリカを建国した人たちに、ADDの発症率が高かったっていう記述がある。彼らは、故郷を飛び出して大洋を渡って、未知の大地に乗り込むアドベンチャー精神を持った人たちだ。刺激を求めるADDの特質だ。アメリカの特質に、暴力的で無鉄砲、結論を急ぐ実用主義、忍耐のなさ、階級的差別、強烈な刺激への傾倒があるのは、その遺伝子にADDが色濃く潜んでいるからだと書いてあって、妙に納得した」
 ケンズィーは、ガーシュウィンのラプソディー・イン・ブルーを奏でながら問いかけた。「この曲はアメリカ生まれの音楽の代表だ。ADDのアメリカの特質をうまく表現してると思わないか?」
「うん。陽気で、何かが始まりそうでわくわくするところも、じっとしていられずに体が動きだしそうなところも、甘く切ないところも……」
 風子は自分が、アメリカに流れてきたのがわかる気がし、思わず笑みがこぼれた。ケンズィーもアメリカに来て救われたのだろうと思った。
「あなたは、アメリカに来て診断してもらって、薬が効いてよかったね」
「だが、カウンセリングと検査で、僕はADHDのほかにアスペルガー症候群の症状も強いことがわかった。人間関係に不器用で、聴覚や嗅覚が過敏で、運動神経が鈍くて、手先が不器用だ。子供の頃から嫌いな音や臭いが多かった。特に聴覚過敏は強くて、音程の狂った歌は我慢できないし、調律の悪いピアノで弾くのが嫌で癇癪を起した。話し方、歩き方や走り方が変だとか、姿勢が悪いとか、視線がおかしいとか、しょっちゅう笑われて頭にきて、今度は何を言われるのかと、常に体は緊張していた」
「でも、あなたはピアノの才能に恵まれた。今まで聴いたなかで、プロのピアニストを除けば、一番うまいのはあなたよ」
「発達障害のある人は、クリエイティブな面が突出していることがあるから、表現者や研究者として大成する人もいる。モーツァルトもベートーヴェンもサティも発達障害と言われている。エジソンとかアインシュタイン、レオナルド・ダ・ヴィンチもピカソもそうだったらしい」
「知らなかった……」
「モーツァルトもベートーヴェンも、死んでから100年以上経っても、たくさんの演奏者を食べさせている。演奏者に留まらず、様々な音楽関係者や学者の生活を支えている。考えてみろよ。発達障害のダ・ヴィンチが生み出したものに、100年以上後に生まれた研究者たちが挑み続けているんだ」
 風子の胸にほのかな希望が宿った。「悪いところばかりじゃないね。もし、私達に子供ができて、発達障害が出ても、才能を開花できるように育てればいいじゃない」
「甘いな」ケンズィーは嘲笑うように続けた。「発達障害者のすべてに食べていけるほどの才能があるわけじゃない。才能があっても、それを伸ばせる環境に恵まれるとは限らない。症状だけが強くて、何も取り柄のない惨めな奴を嫌になるほど見た。僕もカーティスへ入学できたけど、コンサートピアニストとして成功するほどの才能はなかった。子供の頃は体が弱くて疲れやすくて、集中力が切れやすくて、練習時間に限界があった。成人しても人に指図されるのが嫌いで、反発して素直に受け入れられないから、上達は頭打ち。食べるにも困る三流ピアノ弾きにしかなれない。それが現実だ」


「ねえ、ケンズィー、あの2人にピアノを教えているのって……」
「やつらをボランティアで教えてるのは、食べていけるようになってほしいからだ。やつらは学習障害もあって、読み書きにも苦労するけれど、ピアノだけは見込みがある。父親は2人を連弾ピアニストにしたがってる。コンクールで入賞させて何とか世に出したがってる。僕はいずれ、あいつらを有名な先生に紹介する。それまでのレベルにしてやりたい」
「そうなんだ。もし、私達に子供ができて、発達障害が出ても、彼らのように才能を伸ばしてあげればいいんじゃない?」
「遠慮しとく。ああいう子供をこれ以上、この世に増やすのは一種の犯罪だ」
「犯罪……?」風子は自分の聞いた言葉が信じられなかった。憤怒の形相で彼を睨み、怒りのままに詰め寄った。「ちょっと待ってよ、何その言い方! 発達障害を持つ人は、子供をつくってはいけないって言いたいわけ……?」怒りに震えた自分の声は、思いのほか低く、知らない女の声のようだった。
「そうは言ってない。つくりたい人はつくればいい。だが、僕は絶対につくらない。無責任に障害を遺伝させて、報われない人生を歩ませるのも、社会に迷惑をかけるのも犯罪だ」彼は平然と言ってのけた。
 風子は煮えたぎる怒りをどうにか押し込め、宥めるように言った。「ねえ、そんなに自分を責めないでよ。あなたは、とても素敵な人よ。発達障害があったからそれだけ苦労して、こんな魅力的な人になったのだから、私は障害も含めてあなたを愛している。ずっと、一緒にいたいよ。私たちが結婚して、子供ができて、発達障害が出たとしても、2人で向き合えばいいじゃない」
 彼は苛立ちを露わにし、心底我慢ならないという口調で言い放った。「もう、止めてくれないか! 僕は子供が大嫌いだ。欲しいと思ったことは生まれて一度もない!」
「そんなに嫌いだったら、どうしてあの騒がしい2人を我慢できるの?」
「正直、嫌でしょうがない! 昔の自分を見るようだから義務感で教えてる。僕がどれだけ自分を抑えて、あのガキの相手をしてると思う!! もう、子供の話はやめろ!」
 彼は怒りに任せ、ピアノの上に置いてあったメトロノームとクリネックスの箱を床に投げつけた。彼の目は血走り、肩で荒い息をしていた。
 風子は両手で顔を覆った。どうして、ここまですれ違ってしまうのか! 物心ついたときから、自分の子供を抱くことを夢見て、人形をベッドに寝かせ、ミルクを飲ませて遊んだことが悲しく胸を過る。女に生まれたら、愛する人の子供を産みたいと思うのは自然ではないか? それが、そんなに悪いことなのか。


 どれだけの時間が経っただろうか。彼が遠慮がちに隣に掛けた。風子は、終わりの言葉を告げられるのを恐れ、身構えるように体を固くした。彼は風子の肩を恐る恐る抱いた。風子がびくりと身を竦めると、彼は傷ついたように手を離した。怖いくらいの静けさが教会を包む。
「怒鳴って悪かった」暫くして、彼は疲労困憊した声で言った。風子は黙って首を左右に振った。
「風子、まだ僕のこと好き……?」彼はおびえを含んだ声で尋ねた。
「好きだよ。嫌いになんかなれないよ……」風子はふてくされた声で答えた。
「僕も好きだ。君が、僕の障害も含めて愛してるって言ってくれたこと、本当は死ぬほど嬉しかった……。やっぱり、君は神の祝福だ。離したくない……」
 ああ、彼の気持ちが離れたのではなかった。風子の顔がくしゃっと歪み、両目から涙が迸った。今まで彼なりに悩んでくれたのだと思うと、傷つけられたことも許せる気がした。風子は嗚咽を抑え、涙を拭いて鼻をすすった。靴を脱ぎ、信徒席に両膝をついて彼を抱きしめた。自分も同じ障害があるとわかった今だからこそ、彼が秘めてきた怒りや苦悩が胸に迫る。障害を抱えながら、懸命に生きてきた彼が以前にも増して愛おしかった。風子は、ステンドグラスに描かれた赤ちゃんを抱くマリアが、自分たちを慈愛に満ちた眼差しで見守ってくれているのに気付いた。自分も聖母マリアのように彼を愛し、守りたいという温かい思いが胸の底からどくどく湧きあがってくる。風子は彼の柔らかい髪に顔を埋めた。
「ごめんな。たくさん泣かせてしまって……」彼は風子のむくんだ両頬を手で挟み、目尻に残っていた涙を長い指で優しく拭った。彼は風子を自分のほうに向かせ、切迫した声で尋ねた。「風子、僕と2人で、2人だけで、これからの人生を歩いてくれないか?」彼の低い声は静謐な教会に厳かに響き渡った。懇願するようなプロポーズは、他のことが頭を占める余地を与えなかった。風子は迷う間もなく「イエス」と答えていた。

 

 たった1日で、世界一不幸な女から、世界一幸せな女に引き上げられたはずだった。さんさんと降り注ぐ太陽の下、愛する人と2人で永遠に時間を重ねていける……。これ以上の幸福はない。だが、本当にこれでいいのかという思いが、小石が水たまりに波紋を広げるように広がっていく。
 風子はリビングにあるルームメイトのパソコンを拝借し、インターネットで発達障害について夜を徹して調べた。知れば知るほど、自分がそれに当てはまることがわかる。同時に、発達障害を持つ人への行政や民間の支援、治療方法について、日本とアメリカのホームページを調べた。風子はアメリカの薬物療法や療育の充実、食事による症状の改善方法、民間企業による発達障害者の能力を活用する取り組みに驚いた。
  日本では、女性のADDを紹介する『片づけられない女たち』が翻訳され、ベストセラーになって、自分はADDかもしれないと精神科を訪れる女性が急増したらしい。だが、日本ではまだ発達障害の専門医が少ない。


 リビングのソファに倒れ込んだ風子は、仰向けになり、真っ白な天井を仰いで家族の顔を思い浮かべた。癇癪持ちの祖父、身なりが整えられない不器用な父、勉強はできるが社会性に乏しい兄。風子が生まれる前に亡くなった祖母は、優しい人だったが、どこか抜けていて、始終ぼーっとしていたと聞いた。祖父がそんな祖母を怒鳴ったり、竹刀で打ったり、殴ったりして、随分苦労したと聞いた。家族で唯一、定型発達と思われる母は、さぞや大変だっただろう。
 自分はどれだけ家族や友人、周囲の人を傷つけ、振り回してきただろうか。今さら発達障害だったと言っても許されることではない。穴があったら、入りたい気分だった。発達障害らしい同級生の顔が浮かんでは消えていく。自分も含め、彼らは適切な支援を受けられず、家族にも友人にも教師にも理解されないまま成人し、海の向こうで劣等感と苛立ちを抱えて生きているのだろう。
 ネットの情報によると、発達障害を持つ者は、研究者のように、関心のあることに集中して取り組め、自律性の高い職業に向いているという。メーカーの研究員や大学教員が多い故郷の街に、発達障害を持つ人が多いのは何ら不思議ではない。父が言うには、あの街に移った研究員には、発想力豊かだが、社会性に乏しく、周囲と摩擦ばかり起こしている変わり者が集められたらしい。父のように風呂が嫌いで、1週間入らなくても平気なのは序の口だという。ゴミで床が見えなくなり、ドアを開けると、悪臭と蠅やゴキブリがお迎えしてくれる部屋に住んでいる後輩、化粧をせず髪は寝癖だらけで、作業着の尻に経血の染みをつけたまま仕事に没頭している女性の同僚……。
 そんな研究員たちが、あの街で伴侶を探し、子孫を残している。そうして、発達障害の血は遺伝していく。あの街で、発達障害を持つ人への支援体制はどうなっているのか。跳ねるようにソファから起き上った風子は、インターネットで調べ始めた。1時間もネット上を彷徨っていたが、それらしき取り組みは1つもヒットしない。


 窓から微かに白い光が差し込んできたのに気付き、風子は目を上げた。朝を告げる小鳥のさえずりも遠くから聞こえる。ベランダに立つと、サンディエゴの朝の冷気が肌を刺し、身が引き締まった。風子は朝日に向かって両手を高く差し伸べた。やっと、やるべきことが見えた自分が祝福されているようだった。