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「カモメと富士山」12

 ローンパインの街が近づき、荒野が続いた車窓の風景に看板や家、木々が飛び込んでくる。カズヤが、アメリカ本土最高峰のホイットニー山が見えると教えてくれる。頂上部がギザギザに見える険しい山肌がそれらしい。

 カズヤはこの町が西部劇のロケ地だったことに言及した後、話の先を続ける。
「1941年12月7日、日曜日の朝、車で乗りつけた叔父が険しい表情で家に入ってきた。彼は朝食を食べている私たちに、すぐにラジオをつけろと怒鳴った。真珠湾攻撃を告げるアナウンサーの声は今でも耳に残っている。私は両親に通訳しながら、誤報であることを願った。両親も、日本がそんなことをするわけないと半信半疑だった。その願いも虚しく、翌日アメリカと日本は戦争状態に入った」

 真珠湾攻撃のニュースを聞いたカズヤの胸に、日本にいる佳史や富士子のことが去来したに違いない。アメリカ留学を切望していた祖母の富士子は、どこで日米開戦の報を聞き、何を思っただろうか。

 カズヤの一連の反応は、彼が祖母に友人の妹以上の感情を持っていたのではという疑念を植え付けた。祖母も同じ思いだったと仮定すると、彼女が良好な日米関係を切望し、私に英語を学ばせ、外交官にしようとしたことも理解できる。そのことを考え始めてしてしまうと、仲睦まじかった祖父母の姿も別の意味を帯びてしまう。今も元気な祖父の勇次郎の顔が浮かび、勝手な推測をしてはいけないと思考にストップをかける。頭の奥で執拗に鳴る風鈴の音を締め出したくて、両手で耳を塞ぐ。

 カズヤは車窓に目をそらした後、静かに続ける。
「日系人社会のリーダー的存在の一世は、真珠湾攻撃の日の夜から、FBIに協力した地元警察に連行されていった。活動写真館を営んでいた私の叔父、日本語学校の校長、日系新聞の関係者、仏教の開教師、県人会の役員や剣道の師範など、私の知っている人もたくさん連行された。彼らがどこに連れていかれ、いつ帰ってくるのかわからず、家族はとても不安だった」

 アリシアが声を大にする。
「9・11後のイスラム教徒やアラブ系も似ているわ。9・11が起こって間もなく、FBIは800名ほどのイスラム教徒に尋問を始め、彼らのほとんどは強制送還されている。その後もイスラム教徒やアラブ系が身柄を拘束されている。テロとの関連ではなく、些細なビザ違反などが理由。私のような移民弁護士は、依頼人が収容場所を次々に移されるから、どこに収容されているかもわからなくて、接見できないのよ。
 9月21日に主任移民裁判官が、政府が必要と判断したら移民裁判を非公開にできるというメモを全移民判事に送っていたことがわかったの。家族は、彼らがいつまで拘禁されるのか、知らないうちに強制送還されないか、不安でたまらないと思うわ」

 朔くんが乾いた声で言い放つ。
「1941年は、アメリカと日本は戦争状態だった。それなら、敵性外国人である一世が身柄を拘束されるのは仕方ないんじゃありませんか? スパイの疑いがないか調べる必要がありますし。 
 9・11の実行犯は、中東諸国出身のイスラム系過激主義者ですよね。だとしたら、彼らと宗教や出身地の属性が共通する人たちから情報を得るのは当然でしょう」

 彼は眉一つ動かさず、淡々と正論を吐く。当事者たちの前ではあまりにも非情に響く。

 ミナさんが、アイラインをくっきり引いた目を吊り上げる。
「あんた、テロと関係ないのに拘束された本人や家族がどれだけ不安か想像できないの? 少し頭を働かせて、口を慎んだら」

「すみません。俺、こういう物の見方しかできないんです」

 こんなとき、私にはさらなる一撃を加えて黙らせる朔くんが、ミナさんには頭が上がらない。この二人は、案外バランスが良いのかもしれない。

「年が明けてから、日系人社会はさらなる恐怖に見舞われた。FBIは、昼夜を問わず、日系人の家を捜査令状なしに家宅捜索するようになった。カメラや短波受信機、農地開拓に使うダイナマイトなどの禁制品が没収され、所持者は逮捕、連行されていった。どこの家でも、FBIの家宅捜索を受けたときに、日本とのつながりを疑われそうなものも処分した。マエカワ家でも、父の指示で掛け軸、剣道の竹刀、日本語の本、日本から来た手紙を焼いた」

 カズヤは先を続ける。
「日系人に対するヘイトクライムは以前にも増して増え、両親の店もスプレーで落書きをされたり、石を投げ込まれてガラスを割られたりで、私達は身の危険と隣り合わせの日々だった。店は、白人のお得意さんからの注文が減り、収入が激減した。周囲では仕事を失うものが続出していた。日系人に対するヘイトクライムを恐れた中国人の友人が、『私は中国人です』と書いた札をつけているのを見て複雑だったよ」

 運転席のアリシアが口を開く。
「やはり、真珠湾攻撃の後もヘイトクライムが激しくなったのね。そして、外見の似た人々も巻き込まれた。
 9・11後のイスラム教徒やアラブ系、外見が似ている人々も同じよ。アメリカ中で、モスクへの襲撃や放火、家屋や店の破壊、暴言や暴力、殺人が起こり、命の危険にさらされている。
 9月15日にはカリフォルニア州ロサンゼルス郡のサン・ガブリエルで、コンビニエンスストアを経営する48歳のアラブ人、コプト系キリスト教徒がイスラム教徒と間違えて射殺された。
 9月30日にも、カリフォルニア州サンディエゴで、シーク教徒の女性が車の運転中に赤信号で停車しているとき、男二人に頭を二度刺された。男たちは刺す前に、『これは、お前らが俺たちにしたことへの報いだ! おまえの喉をかき切ってやる』と叫んだ。他の車が信号に近づいてきたら、二人は逃げ去り、捕まっていない。
 10月4日には、テキサス州メスキートでコンビニエンスストアを経営する49歳のインド人が射殺された。犯人は、9・11テロへの怒りから、イスラム教徒に見える店舗オーナーを襲いたかったそうよ。
 コンビニエンスストアやガソリンスタンドなどの店舗経営やタクシー運転手は、アメリカに来て日が浅い人々が就く職業。中東・南アジア出身者も、そういう人が多いから、その職種に被害者が多いのよ」

 ミナさんが怒気をにじませる。
「ひどすぎる! リベラルなカリフォルニアでさえ、そんなヘイトクライムが起こっていたなんて。サンディエゴで刺された女性の命は無事だったの?」

「彼女は地元の病院で手当てを受けて、その日のうちに帰れたそうよ」

 朔くんが、冷ややかな声で言う。
「お門違いのところに八つ当たりするバカは、いつの時代にもいるんすね。本当に単純な奴らですね」

 今度ばかりは、皆が彼に同意して頷いた。
 イスラム教徒と誤認されて刺された女性はどんなに恐かっただろうか。東アジア諸国とアメリカの関係が悪化したら、留学生の自分も同じ目に遭う可能性を考えてしまう。身体の芯が冷えていくのは、効きすぎたカーエアコンのせいだけではない。

「1942年2月19日、F・ローズベルト大統領が大統領令9066号に署名した。陸軍長官と軍に、特定地域を軍管理地域に指定し、住民を立ち退かせる権限を与える命令だ。私は、外国人である一世はともかく、アメリカ市民である二世や三世を正当な理由なしに立ち退かせることは憲法違反だと考えていた。法の適正な手続きなく、生命、自由または財産を奪われることはないと憲法の修正五条で保障されているからだ。
 その期待は見事に裏切られ、市民権の有無に関わらず、日本人の血を引く者を対象に特定地域からの立ち退き命令が出され始めた。9066が出て4日後、サンタバーバラ沖の製油所が日本軍の潜水艦から砲撃されると、海軍基地があったターミナル島の日系人約3000人に48時間以内の立ち退き命令が出た。行き場のない日系人がリトル・トーキョーに集まってきた。
 3月には、全ての日系アメリカ人は午後8時から午前6時までの外出が禁止になり、行動範囲は居住地から5マイル以内に限定された」

「グランパたちは、いつ立ち退いたの?」

「5月初頭、日本人の血を引く者は、6日後に衣類や寝具、食器など身のまわりのものだけを持ってソーテルの日本語学校の校庭に集合せよと掲示が出た。渡米して数十年、忍耐で財産を築いた一世がそれを処分する口惜しさは言葉にできなかったと思う。あちこちの家で、家具や商売道具を金に換えるため、立ち退きセールが開かれた。私の家でも、商売道具のミシンやアイロン、家具をただ同然の値段で売った。噂を聞いて集まってきた白人たちは、立ち退きまでに日がないことを知り、足元を見るような値段で買っていった。商売道具や家具を二束三文で売ることに耐えられず、燃やしたり、壊したりする家もあった。
 私たちはバスにすし詰めにされて運ばれた。私は胸に名札を付け、虚ろな目をした男が窓に映り、こちらを見ているのに気づき、思わずのけぞった。それが、自分の姿だと気づいて、ぞっとしたよ。
 私たちは、まずロサンゼルス郡アルカディアのサンタ・アニタ集合センターに運ばれた。以前は競馬場で、馬小屋を住居に変え、駐車場に500のバラックを新たに建てたという。私たちの入った部屋は、馬小屋だったので悪臭が残っていた。部屋には裸電球、コンセントに軍隊用ベッドと毛布。マットレスは支給された軍隊用の袋に自分たちで藁を詰めて作った。隣室の会話は筒抜けでプライバシーなどなかった。洗面、食事、洗濯、シャワー、何をするにも列に並ばなくてはならず、行列に時間が費やされた。シャワーやトイレは仕切りがなく、女性は辛かったと思う。私たち三人は、忠誠を誓ってきたアメリカに、こんなところに入れられたショックで、不満ばかり言っていた。そこでしばらく暮らし、いま向かっているマンザナー収容所に運ばれた」

 砂埃が舞い、見るからに暑そうな車窓の風景を横目に思いを巡らせる。戦時とはいえ、アメリカ政府は日系人を劣悪な環境に追いやって平気でいられたのだ。それは日本人の血を引く者に対するアメリカ社会の態度を象徴しているようで、ひどく屈辱的な気分になる。

 カズヤたち日系アメリカ人はこうした状況下に置かれても、アメリカ人として忠誠を尽くし、居場所を得るために闘ってきた。
 その闘争は、今でも終わっていない。彼らは、9・11後にイスラム教徒や中東・南アジア出身者へのヘイトクライム、人種や国籍、信仰に特化した取り締まりが行われているのを見て、自分たちと同じことが起こるのを恐れ、それを許さないために活動している。それが、アメリカ人として正しいことだと信じているからだ。

 カズヤが言ったように、日系アメリカ人が正しいと思う行動は、日本の利益と相反することがあるかもしれない。
 昨年、国際政治経済学の講義で聞いたことを記憶の底から引っ張り出す。昨年9月、商務長官だったノーマン・ミネタは、日本が高級レストランで鯨肉を提供するために、調査の名目で捕鯨していると糾弾し、クリントン大統領に対日経済制裁発動を要請した。ミネタは下院議員時代から、通商問題で対日強硬派だったという。彼は、自信のルーツになる国を叩くことも辞さず、アメリカの閣僚、議員として行動したのだ。

 人種差別を経験したことがなく、当たり前のように日本人として生きてきた日本人は、日系アメリカ人の行動が理解し難いかもしれない。いまの私はミネタの複雑な心理が前よりも理解できる。彼は100%以上のアメリカ人であることをアピールしなければ、アメリカ社会にそう見てもらえないと思ったのかもしれない。

 いま私は、60年近く前に日系人たちが運ばれた道をたどっている。年月を経ても、ロサンゼルスからの距離、厳しい気候、目に映る山々は当時とそう変わらないだろう。

 いまなら、カズヤが私たちをここに連れてきたかった意味がわかる。ジョージにも、以前より近づけた気がする。


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