見出し画像

「カモメと富士山」13

 マンザナ―収容所跡に着き、車を降りると、熱気と砂埃の混じった風に包まれる。眼前には、雪の残る美しいシェラネバダ山脈が、青空と雲を背に厳然とそびえている。乾いた砂地が一面に広がり、深緑色の草がところどころに生えている。皆、それぞれの思いで周囲を見回す。

 カズヤがサングラスを外し、照り付ける陽に目を細めながら説明する。 
「ここは1992年に国定史跡に指定されて、5年後に国立公園局がロサンゼルス市から土地を取得した。これから、国立公園にするために、当時の建物の再現が進むと思うよ」

 アリシアが小さく溜息をつく。
「ここに、1万人以上が暮らしていたのね。砂漠に出現した日本人の町……。蜃気楼が浮かんできそう」

「ここには、長さ120フィート(30m)、幅20フィート(6.1m)のバラックが建ち並んでいた。バラック14棟で1地区を構成し、全部で36地区あった。各地区には、食堂、洗濯場、アイロン場、男女別のトイレ兼シャワー室があった。敷地内には、管理棟、病院や孤児院、郵便局、学校、教会、仏教寺院、軍の工場、墓地、日本庭園などがあった」

 カズヤは周囲をぐるりと指さしながら続ける。
「収容所全体が有刺鉄線で囲われていて、監視塔が8つあった。監視塔に立つ兵士の銃は、内側に向けられていた。祖国アメリカから銃を向けられるのは辛かったけれど、耐えるしかなかった」

「囚人扱いだね……。グランパのバラックは、どの辺りにあった?」

 カズヤは片手を額にかざし、はるか遠くに視線を投げる。
「ここは814エーカー(329ha)もある。車で行ってみよう」

 車で移動すると、収容所の規模を実感させられる。ここに収容された日系人は、収容前の職業や収入、学歴など関係なく、みな黄色い肌で平たい顔のジャップになってしまったのだろうかと思いを馳せる。

「この辺りに私たちのバラックがあった。部屋は、縦19フィート(6m)×横24フィート(7.5m)くらい。最初に入ったときは軍用ベッドと毛布、電灯とストーブしかなかった。そこに、両親と私たち3人の5人が暮らした。母が部屋の真ん中にシーツをつるして2つに分け、片方に母と妹、もう片方に父と私と弟のベッドを置いた。バラックはパーテーションで部屋として区切られているだけで、天井はなかったから、隣の会話は筒抜け。朝から晩まで、何をするにも行列に並ばなくてはならない生活は、サンタアニタと同じだ。
 夜は窓から入ってくるサーチライトの光が気になって、慣れるまでは目を閉じて布団をかぶっても眠れなかった。朝起きると布団の上に砂がうっすらと積もっていたよ。毎日吹き込んでくる砂を外に掃き出さなくてはならない生活だった。風や砂が吹き込むのを防ぐために、缶のフタなどで隙間や穴を塞いだよ。前が見えないほどの砂嵐が吹き荒れて、部屋に閉じこもっているしかなかった日もある。
 砂漠は寒暖差が激しいから、日中は灼熱地獄でも朝晩は冷えた。夏は華氏100度(摂氏38度)を超えることもあって、冬は華氏40度(摂氏4度)くらいまで下がった。シェラネバダ山脈から吹き降ろす冷たい風が肌を刺し、雪が積もることもあった」

 皆で外に出て、カズヤのバラックがあった辺りを歩く。靴を履いていても焼けた砂の熱が伝わってきそうだ。風で砂が巻きあげられないように、水が撒かれていたのだろうか。建ち並んでいたであろうバラックを心に描いてみようと、目を閉じ、耳を澄ますと、様々な訛りの日本語や英語で交わされる会話、生活音が聞こえてくる気がする。

 ミナさんがカズヤに尋ねる。
「サンタアニタでは、女性は仕切りのないトイレが耐え難かったそうですが、ここではどうでしたか?」

「ここでも便器がずらりと並んでいるだけで、ドアも仕切りもなかった。軍用施設だから仕方ないが、女性は辛かった。妹のエミーと母は、恥ずかしいから、誰もいない早朝や深夜を狙って用をたしにいっていたが、考えることは皆同じだったようだ。毛布や段ボールで周囲を隠してもらって用をたす人もいたそうだ。器用な人が、トイレにドアを作ってくれた地区もあって、彼女たちは遠くてもそこまで行っていたよ」

 私は気にかかっていたことをカズヤに尋ねる。
「一世のご両親は中高年になっていましたよね。収容所の厳しい環境に適応できたのでしょうか?」

「私の両親は、日本がアメリカにいる自分たちのことを考えずに真珠湾を攻撃したことで、祖国に裏切られたと憤っていた。元々、移民に冷淡に接する領事館の役人を良く思っていなかったからね。差別を受けたアメリカにも強い不満を抱いていたが、ここで生きると決めていたので、大人しく収容所で生活することで、アメリカに協力していた。両親は、危険と隣り合わせの生活から隔離してもらって、ただで食べさせてもらえるんだから文句を言うなと私たちをたしなめたよ。
 父は農場で働いた経験を生かし、仲間とともに砂漠に水を引いてきて畑を作ったそうだ。収穫された野菜は、味気なかった収容所の食事を充実させた。母はドレスメーカーの仕事を生かし、服作りの仕事に就いた。時間があるときは、殺風景なバラックを少しでも快適にしようと、風や砂が吹きこむ隙間を埋めたり、きれいな布を手に入れてカーテンを作ったりしていた。
 前向きでいようとする両親たちに刺激され、弟のシグは収容所内にできた高校で学び始めた。エミーは迷彩ネットを作る軍の仕事に就いた」

 朔くんが日本語で、淡々とした口調で問いかける。
「アメリカが、人間が住む環境ではない場所に、日本人の血を引く人々を追いやったのはわかりました。同胞を見捨てた日本にも、問題があったと思います。
 ですが、ここまでの事態になってしまったのは、日系人社会がアメリカの敵ではないと訴える声が小さかったからではないですか?」

「ちょっと、朔くん……」
 いくら日系人がアメリカへの忠誠を訴えたとしても、真珠湾攻撃の恐怖でヒステリー状態の世論に対抗することなど不可能だ。ただでさえ、差別に怯えていた日系人にそれを求めるのはあまりにも酷だ。

「あんた、失礼なことを言うのやめなさいよ!」

 朔くんは冷静さを失わずに続ける。
「批判しているわけではありません。客観的に見てそう思ったので、ご意見をお伺いしたいだけです」

 ミナさんは朔くんを睨んでため息をつき、日本語がわからないアリシアに小声で通訳を始める。

 カズヤが朔くんに腹を立てた様子はなく、かすかに片頬を緩める。
「朔くんの言うことも一理ある。日本人の外見や生活習慣が奇異に映るからこそ、戦前から積極的に外部とコミュニケーションを取るべきだった。一世は当初は出稼ぎだと割り切っていたこともあり、英語も不自由で、差別や暴力を恐れて声を上げにくかった。私たち二世も、もっと声を上げていたらと思う。 
 だからこそ私は、家族を収容所に入れられたままでも、語学兵としてアメリカ陸軍に入隊した。弟のシグも陸軍の戦闘部隊に入り、ヨーロッパ戦線で戦った。私たちは、アメリカの為に戦って忠誠を証明したんだ」
 
「語学兵というと、日本語の通訳ですか?」

 私の問いにカズヤが頷く。
「収容所に入って間もなく、MIS(陸軍情報部)が語学兵にならないかと私に接触してきたんだ。語学兵はミネソタ州キャンプ・サヴェッジの陸軍情報部語学学校(MISLS)で日本語の訓練を受けた。そして、戦地で捕虜になった日本人の尋問、日本軍から捕獲した文書の翻訳、通信の傍受などを通じて、アメリカに有利になる情報を収集した。さらに、絶望的な状況でも徹底抗戦する日本軍に、スピーカーを持って日本語で投降勧告をしたり、投降を促す日本語のビラを作ったりしていた。
 私は迷わず入隊を決めた。苦労して身につけた日本語が評価され、アメリカに必要とされたことが嬉しかった」

「その……、結果として日本と戦うわけですよね。日本にいた佳史さんや祖母のことを考えると辛くなかったですか?」

「あの時の私を動かしたのは、アメリカに忠誠を示す機会だということと、早く戦争が終わって佳史くんや富士子さんに会いたい思いだ。自分の日本語が戦争を早く終結させるために役立つなら、行くべきと思った。収容所で何もできず、気をもんでいるよりはましだからね」

 カズヤにとって語学兵になることは、アメリカへの忠誠を証明し、戦争を早く終わらせて日本の友人に会いたい思いを両立できる選択だった。だが、日本で生まれ育った両親は、息子が日本語を使ってアメリカのために働き、血縁者のいる日本に弓を引くのは耐え難かったのではないか。カズヤにそれを尋ねるのは酷に思い、胸にしまう。 

「MISLSの通常の訓練は9ヶ月ほどだったが、私たちは特別速習クラスを2ヶ月半で終えた。一緒に学んでいた14名のうち12名が私のような帰米で、卒業は9月初めだったよ。
 1942年11月、私は仲間とともに、オーストラリアのブリズベンに送られ、アメリカ諜報部隊の司令部付きになった。MISLSを卒業すると、白人は将校になれたけれど、二世はどんなに能力があっても軍曹止まりだったよ。
 翌年1月末、私はニューギニアのポートモレズビーに行き、日本軍から捕獲した文書の翻訳と捕虜の尋問をした。私たちは日本軍への憎悪に満ちたアメリカ兵に、情報を引き出すために捕虜を生かしたまま捕らえること、捕獲した文書を私たちに提出することを根気強く説いた。味方であるアメリカ兵から、何で日本人がいるのかと不審の目で見られることがよくあって、最初は仕事がやりにくかった。笑い話だが、日本兵と間違えられて、捕虜にされかかったこともあったよ。
 私たちは日本軍だけではなく、味方の偏見とも戦ったんだ。白人から忠誠心を疑われてきた私たちは、しっかり仕事をして、アメリカへの忠誠を証明しなくてはと気負っていた。それに、私を含めた帰米の多くは、日本軍の捕虜のなかに知り合いがいないかと、気が気ではなかったと思う。
 捕虜の尋問にしばらく携わったあと、ブリズベンの連合軍通訳翻訳部(ATIS)に移った。ここでは、ニューギニアの戦場から運ばれてくる膨大な捕獲文書をざっと見て、どれが翻訳すべき文書かを見極めるセクションで仕事をした。その後、私は教官としてミネソタ州のMISLSに戻ることを命じられた。厳しい気候と激務で、体がぼろぼろになっていたから、この配置替えは嬉しかった」

「グランパ、終戦はどこで迎えたの?」

「ミネソタだ。私は一刻も早く日本に行きたかったが、占領に伴う語学兵の増員は急務で、教官の仕事は多忙を極めた。日本行きを命令されたのは1946年1月。少尉に任官しての進駐だった。陸軍は二世のモラルや進駐してからの立場を考慮して、やっと昇進させるようになったんだ。
  私が配属されたのはATISが拠点を置く東京の日本郵船(NYK)ビル。日本語の読み書きが達者だった私は、5月に開廷する極東軍事裁判の関連文書を翻訳する任務に就いていた。裁判を最後まで見届けたかったが、ママが腰を痛めてふせっていると聞いて、その年の末に除隊して帰国した。
 ATISの責任者マシューバー大佐の回顧録に、二世がいなければ太平洋戦争は損害が多く、長引き、二世の貢献で何千人ものアメリカ人の命が救われ、何百万ドルもの軍需品が救われたと書いてあった。それを読んだとき、私達の仕事が評価され、戦争終結を早めることに貢献できたと報われた思いだったよ」

 カズヤと祖母の富士子が恋仲だったと仮定すると、二人はアメリカで暮らすことを意図していたのだろうか。富士子が留学を切望していたことを考えると、その可能性は消し去れない。カズヤはアメリカで富士子と暮らす未来のためにも戦ったのだろうか。
 頭のなかで響く風鈴の音に誘われるように、カズヤの部屋の窓辺に風鈴がつるされていたことを思い出す。祖母も離れの二階の窓辺にずっと風鈴をつるしていた。あの風鈴には、何か意味が込められているのだろうか。根拠のない仮定は、砂塵に吹き飛ばされるように消えていく。