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「カモメと富士山」14

 収容所内で亡くなった方々の慰霊碑に移動し、皆で手を合わせる。碑の囲いに吊るされた千羽鶴は日焼けと砂塵で色褪せている。カズヤは、それに軽く触れてから口を開く。

「弟のシグことシゲルは、私が収容所を出た後、戦闘部隊に入ってアメリカのために戦った。
 
 その前に、1943年初頭、収容所で忠誠審査が行われた。戦時転住局はアメリカに忠誠心を持つ日系人が収容所を出て、西海岸以外に移住することを奨励していた。それに伴い、出所させてよいものとそうでないものを分別するために、17歳以上の男女を対象に審査が課された。
 この審査は軍隊への志願の意志を問う機能を持っていた。陸軍省は1942年6月に、市民権に関わらず、日本人及びその子孫が軍務につくことを受け付けないと発表していた。だが、兵役につく人材が不足したので方針を変え、1943年2月に、日系人による連隊規模の部隊を編制すると発表した。こうした含意で行われた審査に含まれた二つの問いが、家族や友人を引き裂いた。
 
第27問 
 あなたはアメリカ合衆国軍隊に入隊し、命ぜられたいかなる戦地にも赴き任務に服する意思がありますか。
 
第28問
 あなたはアメリカ合衆国に無条件の忠誠を誓い、国内外のいかなる武力攻撃からも合衆国を忠実に守り、日本国天皇あるいは外国政府や権力組織に対するあらゆる形の忠誠や服従を拒否しますか。
 
 一世には酷な質問だった。アメリカ国籍がもらえない一世は、28問にイエスと答えれば無国籍になる可能性がある。この問題に気づいた戦時転住局は、一世への質問を、アメリカの法律を守り、戦争努力を妨害しないかという趣旨の質問に替えた。葛藤を抱えながら、家族と暮らすため、または二世への影響を憂慮して、イエス、イエスを選んだ人が多かった。他方で、ノー、ノーと答えて忠誠が疑われた者が集められたツールレイク収容所に送られ、日本送還を選んだ人もいて、大きく道が分かれた。
 二世の多くは、二問ともイエスと答えた。しかし、その心中は複雑だった。私のように日本に友人や親戚がいる二世は、27問にイエスと答えるのは辛かったと思う。収容所に入れられたことで国家に裏切られたと失望し、ここから出してもらえるなら、27問にイエスと答えると言った二世もいた。また、28問にイエスと答えれば、今まで日本国天皇に忠誠心を持っていたと認めることになり、受け入れ難く感じた。そして、強制収容への抗議、兵役拒否など様々な理由でノーノーを選び、ツールレイク収容所に送られた二世もいた。

 私はニューギニアにいたので、妹のエミーから聞いた話だが、薄いバラックの壁を通し、あちこちから言い争う声が聞こえたそうだ。言葉の壁がなければ、互いが抱える複雑な感情を吐露しあい、わかり合うことができた家族もあっただろう。
 
 私の両親はエミーに質問を日本語に訳してもらって答えた。27、28に来たとき、いつも英語で話すシグが、苦手な日本語で言ったそうだ。

―僕はイエス、イエスだ。僕はアメリカ人だ。でも、国はそう見てくれない。だったら、行動で証明するしかない。そうしないと、僕たちはずっとこのままだ。

 僕たち日系人は今までアメリカのために戦って、忠誠を示す機会がなかっただろう? 僕はアメリカのために戦って、家族が堂々とアメリカで暮らせるようにしたい。

 両親は驚きで言葉が出なかったそうだ。一番年下で寡黙な陸上少年だったシグに、アメリカ人としての強い意志が潜んでいたことを見せつけられたからだ。エミーの答えもイエス、イエスだったが、彼女はシグが家族の将来まで考えて答えを出したことに驚いた。しばらく議論が続いたが、最終的に両親はシグの説得を受け入れ、イエス、イエスと答えたそうだ。葛藤はあったと思うが、両親はアメリカで家族そろって暮らすことを選んでくれた。シグは、これで戦う大義ができたと清々しい顔をしたそうだ。

 1943年末、19歳になっていたシグは徴兵された。彼は442連隊戦闘団の歩兵連隊にいた。この隊は、本土とハワイ出身の二世で編成されていて、ヨーロッパで目覚ましい戦果をあげた。彼は1944年10月に、フランス北部でドイツ軍に包囲されたテキサス大隊を救出する作戦に加わった。211人を救出するために、約800名の死傷者を出した過酷な作戦だった。
 彼は生還できたが、何年もひどいPTSDに苦しめられていた。自分を庇ったせいで仲間が撃たれて亡くなったことを深く悔やんでいた。最初の結婚が離婚に終わったのは、PTSDが原因だ。私は後に戦闘の様子を詳述した本を読んで、弟がどれだけ悲惨な状況で戦ったかわかった。

 442部隊は、陸軍史上、最も多く勲章を授与された隊として歴史に名を残した。トルーマン大統領は、ワシントンD.C.で二世部隊を閲兵し、『君たちは敵のみならず偏見とも戦い勝利した』と賞賛してくれた。

 私もシグも、祖国アメリカに理不尽な状況に置かれても、忠誠を証明するために命がけで戦ったんだ……」

 朔くんが日本語で尋ねる。
「日系人を理不尽な環境に置いたアメリカのために、死力を尽くして戦った方々に敬意を表します。その上でお伺いしたいのですが、それで本当に差別がなくなったのでしょうか?」

 カズヤは低い声で答える。
「人々の意識を変えるには時間が必要だった……。特に西海岸では、収容所から出た日系人への風当たりは依然として強かった。西海岸に戻った日系人の家や店に落書きや投石をされたという話もたくさん聞いた。二世の戦死者が地元のアメリカ在郷軍人会によって、名誉戦死者のリストから外されそうになったこともあった」

 朔くんの乾いた声が砂地に吸い込まれるように響く。
「何か切ないですね。つれない白人社会に受け入れられようと、媚びているみたいで……」

 ミナさんが朔くんの頭を勢いよく叩く。
「あんた、どうしてそういう失礼なこと言えるの! アメリカに居場所を作るために、そうせざるをえなかったことがわからないの? 今、日系がアジア系のなかで最もアメリカ社会に同化しているのは、カズヤさんたちの努力あってこそなのよ。
 韓国系は、日系のようにアメリカの敵になった歴史がないし、今のアメリカは多様な文化が尊重されてるから、同化へのモチベーションが低い人がたくさんいる。だから、韓国語だけ話して、韓国コミュニティで生活していられるのよ」

 カズヤは細い肩を揺らし、くっくと笑う。
「朔くんと同じようなことを娘に言われたよ。ジョージの母親で、いまはニューヨークで弁護士をしているグレースにね。
 私は戦時中の屈辱的な経験を子供たちに話さず、日本語も教えなかった。子供たちが白人主流の社会に受け入れられるように、高い学歴をつけさせ、生活習慣まで厳しく指導してきた。
 だが、1950-60年代の公民権運動の時代に青春時代を過ごし、黒人を始めマイノリティの権利が向上するのを見て育った彼女は、強制収容のことを知ったとき私を責めた。

―なぜ、お父さんは、おかしいことに黙って従ったの。日系としてのアイデンティティを殺して白人に合わせて、モデルマイノリティと呼ばれていい気になってる。

 彼女の世代は、誤っていることがあれば声を上げ、正すことでアメリカ人らしさを示すことができるようになった。日系アメリカ人としてのアイデンティティも私たちの世代より大切にできる」

「ママはそういう人だよ。ママは、一世のおじいちゃんに当時の体験を聞かせてくれるよう頼み、立ち退きの日にマンザナ―を訪れる巡礼ピルグリメッジにも一緒に参加したんだってね。俺が日系四世というアイデンティティを大切にしているのも、ママの影響が大きい」

「私はグレースに、おまえたちに私達の苦しみが理解できるわけないだろうと怒鳴ったよ。
 だが、強制収容に対する補償請求リドレス運動が実を結び、1988年に連邦議会で市民の自由法が可決された。政府が強制収容を公式に謝罪し、補償金が支払われると決まった。
 それを見て、考えが変わったよ。これからは、アメリカ憲法に違反し、アメリカ的ではないことは、正さなくてはいけないと思った。それも、アメリカ的な行動なんだ」

 アリシアが厳かな声で切り出す。
「日系アメリカ人の補償請求運動は、不正義を正し、補償を得るために連邦議会で金銭的補償を請求する法の制定や、法廷闘争というアメリカの制度を用いて行われた。そして、この補償運動は、憲法に反する行為を正す運動で、アメリカの正義に深く関わる問題だと世論に認識させた。だから、他のマイノリティや公民権運動家にも支持を広げることができたのよ」

 彼女はしばし間を取ってから言い継ぐ。
「日系アメリカ人が沈黙を破って声を上げ、成果を残してくれた。そして、9・11後もカズたち日系アメリカ人が声を上げ続けてくれるから、私達イスラム教徒やアラブ系に同じことが起こってはいけないと世論が認識してくれる。
 そして、私たちを支援してくれるエスニック団体や宗教団体は、いまアラブ系やイスラム教徒に起こっているヘイトクライムやレイシャルプロファイリングは、情勢が変われば自分たちにも起こると危機感を共有してくれる。その結果、私達は幅広い支持が得られている」

 彼らの活動の意義が腑に落ち、口を挟んでしまう。
「こういう流れを見ると、アメリカが人種問題で前進していると実感させられます」
 ジョージが眼鏡の奥の目を優しく細め、私の腰を強く抱く。

 カズヤが頷く。
「同感だね。私がアメリカ人で良かったと思う大きな理由だよ。
 第二次世界大戦中は、世論はマイノリティの権利に冷淡で、権利擁護団体も少なく、日系人は孤立していた。
 だが、公民権運動を経て、マイノリティの権利を尊重することの重要性は世論に浸透している。主要な国内メディアもマイノリティの権利に理解のある報道をするようになった。権利擁護団体もたくさんでき、力になる法律や判例もたくさんある。
 そして、世界中の人が、インターネットでアメリカのニュースや個人のブログをリアルタイムで追える。イスラム教徒や中東・南アジア系がアメリカで不当な扱いを受けていると海外メディアで報道されたら、アメリカは留学、ビジネスの場、旅行先として著しく魅力を欠いてしまう。世界中から優秀な人材を引き付け、その力で発展してきたアメリカには多大なる損失だ」

「その通りね。来週の集会では、ここでカズの体験を話してもらった後、私がいまのような話をするわ。
 そして、権利は、守り続ける努力をしなければ、恐怖とヒステリー状態の世論に押され、簡単に踏みにじられてしまうことを皆で確認する。その後、これから日系アメリカ人とイスラム教徒が協力して、何ができるかを話し合うのはどう?」

 ジョージが私の腰に手を回したまま、大きく頷く。
「有意義な集会になりそうだな。今日、皆でここに来たから、話がまとめられたね」

 朔くんが気の抜けた声でつぶやく。
「うち、ゼネコンなんすよ。アメリカにいくつか現地法人あって、プロジェクトを手掛けてます。現地の雇用を奪ったり、アメリカに馴染まない日本的なやり方を押し通して嫌われないようにしたほうがいいですね。日本が嫌われると、日系アメリカ人が、バッシングされるんですよね?」

 カズヤが口元をほころばせる。
「その通りだ。宜しく頼むよ。私はカリフォルニア州に進出する日本企業の法務を引き受けてきた弁護士で、日本企業をこちらのやり方に馴染ませるのに苦労させられたからね」

 二人は日本語で談笑を始める。朔くんの父親が率いるゼネコンがロスに進出した60年代に、法務を担ったのがカズヤだと判明し、二人とも驚愕している。カズヤは、カリフォルニアに拠点を置く日本企業の間で「カズさん」はちょっとした有名人だったと胸を張る。

 日が傾き始め、収容所跡は夕陽に包まれて寂寥感を増す。だが、日系アメリカ人がここでの屈辱を踏み台に、アメリカに居場所を獲得するために闘争し、アメリカ社会の主流に食い込み、補償請求運動にも成功したことを思うと、夕陽が傷を癒すように温かく映る。

 ロスへの帰路、祖母とカズヤのことに思考を戻される。祖母はみかん農家を継ぐために祖父と結婚し、カズヤもアメリカで別の女性と結婚した。それを鑑みれば、過去に何があったとしても、いまさら暴くことに意味はない。
 だが、祖母が良好な日米関係を切望し、私を外交官にしようとしていたことを思うと、彼女の過去とそれが結びついているように思えてならない。私の人生まで、彼らに支配されてきたように思えてくる。勘繰り過ぎかもしれないが、気になり始めると頭から離れない。頭のなかで何かを訴えかけるように風鈴が鳴りだす。


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