「カモメと富士山」11
車はシェラネバダ山脈の東側を走る395線を南下する。紺碧の空を背に、雪を残した峻厳な山々がそびえ、北アメリカの雄大な自然を感じさせる。水気の乏しい台地に、乾燥に強そうな植物が生えている景色が果てしなく続き、これから行く場所の気候の厳しさを示唆している。乾燥と熱気が強くなり、私達はカズヤとジョージが用意してくれたペットボトルの水で水分補給する。
アリシアが運転席から尋ねる。
「カズのご両親は、土地所有を諦めたの?」
「ああ。でも、私が生まれた頃、両親に運が向いてきた。
1918年に、農場主のアーサーがよく働く父に目をかけ、新しく開墾した農場の監督に抜擢してくれたので給料が上がった。同じ年に母が私を身ごもると、アーサーが母をメイドとして雇ってくれたので、彼女は厳しい農場の労働から解放された。アーサーの妻ベスも理解があり、私が生まれてからも、母が乳飲み子の私をおぶって仕事をすることを認めてくれた。アイルランドから無一文で渡ってきて農場を持つに至った夫妻は、似た境遇の日系人に理解があったのだろう。母はベスから洋裁を習った。もとから裁縫が得意だった母は、彼女が教えてくれることを貪欲に吸収して、裁縫仕事を任されるようになった。そして、ベスやメイド仲間とおしゃべりしたおかげで、英語も上達した。
自信がついた母は、身につけた洋裁と英語を生かして仕立屋を開きたいと父を説得した。紆余曲折の末、両親は1921年に西ロサンゼルスで店を開いた。一家は今まで住んでいた家から店の2階に引っ越し、1923年に長女のエミーことエミコ、1924年に次男のシグことシゲルが生まれた。
両親が店で忙しかったので、私達3人はリトル・トーキョーにある叔父の家によく預けられた。たまに、一般のお客さんに混じって、日本映画を見せてもらった。当時のリトル・トーキョーは、様々な訛りの日本語が聞こえて、活気のある街だったよ。そこにいる限り、一世は白人から差別されることも、英語を話す必要もなく、日本語の世界で生活できた。
私の両親は、正月、お盆、月見、年越しなど日本の行事を大切にしていたので、私たちは日本文化が身近にある子供時代を過ごした。親達の生き方から学んだ忍耐、勤勉、倹約、家族の恥になることをしないという美徳は私たちにも受け継がれたと思う。一世はアメリカ育ちの二世と言葉が通じなくなるのを憂慮し、早くから日本語学校をつくったから、私たちも学校が終わってから日本語学校に通っていた。
それでも、私たちは英語で教育を受けてアメリカ人になった。通った小学校は日系が大半を占めていたが、ドイツ系やロシア系の白人、中国系も多かった。皆同じように胸に手を当てて国家を歌い、星条旗に忠誠を誓った。日本語学校で教わった天皇への敬意は、いつしか星条旗への忠誠に道を譲っていた」
「グランパが子供の頃の西海岸は、日系人差別がひどかったんだろう?」
「大人の世界では日系人をあからさまに差別する人もいたが、子供同士は人種に関係なく付き合っていた。
だが、私が中学時代に、ロシア系の女の子と恋仲になったとき、彼女のお父さんが、ご子息を娘に近づけるなと両親に言いに来たことがあった。そのお父さんは、マエカワ家のホームドクターで、気さくに付き合ってくれた人だっただけに、ショックは大きかったよ。一番悔しかったのは、私が中学の卒業式で卒業生総代に選ばれたとき、日本人をよく思わない父兄の反対でおろされたときだね。両親は前から私に日本留学を勧めていたが、私が決意したのはこのときだった」
カズヤはペットボトルの水で喉を潤した後で続ける。
「マエカワ家の生活が軌道に乗った一方で、排日気運と外交上の移民問題は続いていた。1920年には写真花嫁が禁止された。アメリカ側は、日本人労働者の入国を禁止したのに、渡米してくる日本人妻も低賃金で長時間労働に従事して白人と競合すると批判した。それに応じ、日本は写真花嫁へのパスポート発行を禁止した。いわゆる淑女協定だ」
「紳士協約に続く日本側の自主規制ですね。やはり、日本はアメリカへの移民を禁止されるのは避けたかったのですね。そして、アメリカ側も日本を刺激したくないので、顔を立ててくれた」
「その通りだ。だが、1924年に、『帰化不能外国人』の入国を禁止する付帯条項のついた俗に言う『排日移民法』がとうとう成立してしまった。中国人も他のアジア諸国も既に入国を禁止されているので、これは明らかに日本人を対象としていた。反日世論に押された西海岸諸州から選出された連邦議会議員の働きかけの成果だ」
「日本政府は抗議しなかったのですか? アメリカ側も、日本を刺激したくなかったんですよね?」
私の問いに、カズヤは渋面をつくる。
「駐米日本大使はこの法律の可決を阻止しようと国務省に根気強く働きかけを続け、日米関係を重視する国務長官も力を尽くした。だが、三権分立が機能するアメリカでは限界があった」
「日本側は、どう反応したのでしょうか?」
「幣原外務大臣は国際協調路線を重視し、この問題は少数の排日論者とアメリカ政治制度の欠陥に起因する結果だと世論を宥めた。アメリカ側も、中国の独立と門戸開放、機会均等の原則を重視するワシントン体制による日本との協調を重視していたので、国家レベルでの友好関係は大きく損なわれなかった。
だが、ひどく失望した日本の世論も、知識人層も反米に傾いていった。私は、この法が、日本が米英主導のワシントン体制に失望し、中国大陸進出に可能性を見出す一因になったと思えてならない。
その流れは、幣原の国際協調路線を批判し、軍拡自主行動路線を掲げる田中義一首相を生む下地になったのだろう。田中の下で、日本政治は大陸に進出した。大陸での日本軍の行動がアメリカの反発を招き、日米開戦につながったことを思うと、排日移民法が開戦の遠因の一つと言えるかもしれない」
カリフォルニア州の反日感情が連邦法に結実し、日本の反米感情に火をつけ、開戦の遠因になった。そのことは、今までとは別の角度から日米関係史に光を当てる。
「日本は1931年に満州事変を起こし、翌年には満州国を建国。1933年には国際連盟を脱退。1934年にはワシントン海軍軍縮条約を破棄して国際的に孤立していき、アメリカとの雲行きが怪しくなります。カズヤさんは、この時期に日本に留学していたのですよね?」
その頃、娘盛りだった祖母は、華やかに装い、つんとすまして津田英学塾に通っていたのだろう。カズヤと佳史と3人で写った写真が思い出され、耳の奥で風鈴の音が響く。
「うん。軍国主義が高まっていく日本を肌で感じていたよ。1939年7月には、アメリカが日米通商航海条約の破棄を通告し、1940年に破棄された。これによって、日米の貿易が途絶えた」
「グランパは、開戦前にアメリカに帰ったんだよね? 戦争になるかもしれないと思ったから?」
「それもあったが、一番は家の事情だ。1940年11月、活動写真館を経営している叔父が買い付けで来日し、私を訪ねてきたんだ。そのとき、想像もしていなかった話を聞かされた。両親の仕立屋は赤字続きで、かなり危険なところに借金をしてまで私の学費を工面しているという。おまけに、昼夜を問わずにミシンを踏み続けた母は、ひどい腰痛に悩まされていた。病院で診てもらうと、腰痛の原因に婦人科系の病気もあるとわかり、その治療費もかなりかかっていた。窮状を知る叔父も随分融通してきたようだが、どこまで援助できるかはわからないので、君も考えてほしいと宣告された。寝耳に水だった。居ても立ってもいられなくなり、翌年の3月に帰国した。辛い決断だったよ……」
彼は微かに潤んだ瞳を隠すように、ペットボトルの水を飲み干す。
ジョージが、いま思い出したことを装うような口調で尋ねる。
「そういえば、グランドアウント(大叔母)エミーが、カズ兄さんは帰国してから日本にたくさん手紙を出していたと言ってた。アメリカからの郵便が届きにくくなっているから、日本に帰国する人がいると聞くと、日本で投函してくれと手紙を託しに行ったらしいね。そこまでして、手紙を出したい人がいたの?」
「あ、ああ……。お世話になった人に近況を知らせたかったんだ」
堂々としていたカズヤの口調が上ずったのが気にかかった。手紙の相手は誰か、何が書いてあったのか思いを巡らせていると、頭のなかで何かを知らせるように風鈴が鳴りだす。
カズヤは、そこから話をそらすかのように続きを急ぐ。
「帰国した私は、カリフォルニア州立大学に入学した。その年の7月、ルーズヴェルト大統領は、日本への経済制裁の一環として、在米日本資産を凍結した。8月には、日本への石油の禁輸を発表した。ワシントンD.C.での日米交渉がいよいよ行き詰り始めると、日本企業の駐在員や留学生まで引き上げるようになり、いつ太平洋航路が閉ざされるかという懸念がささやかれていた」
カズヤの話に集中できないまま、頭のなかで散らばっていた記憶を拾い集める。私がカズヤの家に祖母の畑のみかんでつくったジャムを持っていったとき、祖母が実家の離れの建てかえを頑なに拒んでいたと話した際、祖母が好きだった牧水の短歌を口に出した後、カズヤは不可解な反応を見せた。それは、封印していた感情を抑えきれないようにも映った。
それらをつなぎ合わせた結果が何を意味するかを考えると、1つの仮説が立ち上がる。だが、それはあくまでも私の想像でしかない。隣に座るジョージに、それをぶつけてみたい衝動に駆られるが、昂る思いを理性で抑えつける。頭の中で風鈴が鳴り続ける。荒野に響く涼やかな音は、熱風と砂塵に飲み込まれていく。