コラボ小説「ピンポンマムの約束」14
本作は、さくらゆきさんの「紫陽花の季節」シリーズと、私の「澪標」シリーズのコラボ小説です。本作だけでも楽しめるように書きましたが、関連作品も読んでいただけるとより興味深く楽しんでいただけると思います。週一で更新するので、宜しくお願いいたします。
※扉絵は、さくらゆきさんの作品です。この場を借りて御礼申し上げます。
6月は駆け足で過ぎていく。
米田先生との入院中最後のカウンセリングで、退院後の課題を決めた。
① 家族を巻き込んで確認せずに強迫観念を乗り切る。
② 毎日一つ、幸せを感じることをする。
③ 毎日一冊、神社仏閣や呪いが出てくる小説や漫画を読む。
◎が10個ついたら、ご褒美に化粧品を1つ購入することにした。
思う存分、強迫観念の相手ができてしまう生活から脱却するため、高卒認定試験の勉強やバイトを開始し、生活リズムを作ることを勧められて終了した。外来になってからもカウンセリングを受けられる安心感からか、それほど感傷的にならずに済んだ。
金先生は、神社仏閣や呪いが出てくる小説や漫画をどこからか大量に集めてきて、「返却は外来のときでも結構です」と大きな袋をどさりと置いていった。海宝さんとあたしは、その量に度肝を抜かれた。先生が冷淡な仮面の下で気にかけてくれていること、引き続き外来で診てもらえることに深い安堵を覚えた。
海宝さんは、開花したばかりの紫陽花を花瓶にさして持ってきた。空色の紫陽花は瑞々しい生命力にあふれ、愛でられる喜びに満ちている。あたしには眩し過ぎ、目を反らしてしまう。
病棟勤務の海宝さんとは退院したら縁が切れてしまうだろう。病棟を訪ねれば会えるが看護師さんの忙しさはよく知っている。患者とスタッフがプライベートで会うのは良くないだろうから、もう入院中のように話せない。
海宝さんは浮かない顔のあたしに気づく。
「最近、気分が晴れないようね」
「あたし、退院して、やっていけるのか不安で……」
「どんなことが不安なの?」
海宝さんは、病室の隅にあるパイプ椅子を広げて座り、ベッドの上にいるあたしと目線を合わせる。
「今は、手に負えない強迫観念がきても、海宝さんや先生たちがいてくれて、相談できます。あたし、こんなふうに見守ってもらったの初めてで、とても心強いんです。でも……」
あたしは、海宝さんが何か言い出す前に口を開く。
「わかってるんです! 先生たちに依存しちゃいけないって。早く良くなって、学校通ったり、働いたりしたいんです。人生を前に進めなくちゃと焦ってます。でも、病院を出たら、この傷が目立つ……。コンシーラーでも隠しきれないから、リストバンドするしかないですよね。腕時計やバングルじゃ隠れないし」
あたしは左手首の傷をちらりと見て、目を背ける。深く大きな傷は痛々しく、絶望的な気分になる。
弱気になるなと怒られるのを覚悟していたが、海宝さんの眼差しはいつも以上にあたたかい。
「千秋さん、えらいわ。退院が不安で、悪くなったふりをする患者さんもいるのに、あなたは前に進もうとしている」
目頭に溜まった涙がこぼれないよう、あたしは小さく顎を上げ、言葉が飛び出すにまかせる。
「美容部員になりたいとか夢みたいなこと言ったけど、そもそも、こんな傷があったら採用されないですよね。この手でメイクされるお客さんはマジ怖いと思うし、コスメが売れるわけない。退院したら、最初に髪切りに行きたいと思ってたんです。伸び放題で鬱陶しいし、恥ずかしくて外歩けないから。けど、その前に通販でリストバンド買わないと。この傷あったら、ヤバい人かと思われちゃう」
「傷は完全に消えないかもしれないけれど、レーザーや手術で改善するはずよ。形成外科か美容外科で相談してみるといいわ」
海宝さんは、あたしの髪に目を走らせた後、声を落として言った。
「千秋さん、明日の土曜日、治療を頑張ったご褒美をお届けするわ」
「え、何それ。意味わかんない……」
ワゴンを押して出ていく海宝さんの足取りは、いつもより軽快だった。
★
翌日は、梅雨の晴れ間で、流れる薄雲を縫うように陽が射していた。
海宝さんは、髪をハーフアップにし、草色のワンピースで病室に現れた。いつもと印象が違い、一瞬誰だかわからなかった。一緒に来た髪の長い中年女性は、特別美人ではないが、肌が陶器のように綺麗だった。手には旅行バッグのようなカバンを2つ持っている。
「千秋さん、彼女は私の義理の娘の美生さん。この週末、家族でうちに泊まりにきてるの。東京でヘアメイクとネイル、着付けができるサロンを経営しているの。病院や老人ホームにヘアカットで出張することもあるのよ。今日はあなたの専属美容師!」
「初めまして、千秋さん。美生と呼んでください」
美生さんの朗らかな声は、それだけで空気を華やかにする。あたしは、雰囲気に飲まれ、いつもよりトーンの高い声で挨拶した。
「金先生と師長の許可は取ったから心配ないわ。綺麗にしてもらいなさい」
海宝さんは美生さんと一緒に、持ってきた新聞紙を床に広げ、その上にパイプ椅子を置く。
ここまでしてもらっていいのかと、ぞわぞわが出て、全身から血の気が引く。これは、ご褒美じゃなくて、エクスポージャーじゃないかと海宝さんに詰め寄りたくなる。流石にそうするわけにはいかないので、マインドフルネスを意識し、いま起っていることをつぶさに観察する。どくどく打つ脈は、左手首の傷を盛り上げる勢いだ。美生さんは40代後半だろうが、メイクが上手いせいか、法令線や目元のしわが目立たない。海宝さんもカバー力のあるファンデーションを使っているが、さすがに年齢の刻みを隠すのは難しい。近くにいる人の肌やメイクを観察していると、観念から気がそれることを発見し、光が射したような気分になる。
「千秋さん、ここにお掛けください」
言われるままに座ったあたしは、パジャマの襟にネックシャッターをつけられる。時折視界に入る美生さんのネイルは、薄紫色から空色に変わる美しいグラデーションで、思わず目がいってしまう。つけてもらった散髪ケープの感触を意識しながら、最後に美容院に行ったのはいつか考えるが、思い出せない。美容師さんとの会話が苦手なあたしは、いつも緊張していたことが脳裏をかすめる。
美生さんはジーンズの腰にはさみや櫛が入ったウエストポーチをつけ、カバンから霧吹きやドライヤーを取り出して、広げたパイプ椅子に並べる。手首の傷を隠す余裕がないまま、着々と準備が整っていく。
「改めて、宜しくお願いします。本日はどうなさいますか?」
美生さんの屈託のない明るさと快活な声は、あたしをリラックスさせてくれる。
「あ、すみませんが宜しくお願いします。えっと、前髪を眉が隠れるくらいに切ってください。あと、全体の毛先を15センチくらい切ってもらえれば」
「かしこまりました。量はどうします?」
「全体的に少し軽くしてください」
美生さんは頷き、あたしの髪を軽くブラッシングしながら尋ねる。
「レイヤーが入っているようですが、今回も入れますか?」
「お願いしていいですか?」
「お安い御用です」
美生さんは、二つ返事で引き受け、霧吹きで髪を湿らせていく。
美生さんのはさみは、魔法のように滑らかに動き、切られた髪はケープを滑って新聞紙の上に落ちる。美容院のように正面の鏡がないので、たまに彼女があたしの意向を問うために手鏡で見せてくれる。彼女は、あたしが会話が苦手なのを察したのか、余計な話をせずに進めてくれるのがありがたい。
軽快になったり慎重になったりするはさみの音、かすかに肌にあたるクリップや肌を滑る髪の感触に集中するうちに、カットが完成した。ブロウが終わり、顔に落ちた髪を払った後、美生さんが手鏡で前後を見せてくれる。
「いかがでしょう?」
「わあ、すごい!」
毛先にレイヤーが入っていて、首を動かすとふんわりとした動きが感じられる。エアリーでフェミニンなミディアムレイヤーカットに大満足だ。
「前髪もう少し切りますか? 気になるところがあれば、何でもおっしゃってください」
「完璧です! 本当にありがとうござます」
幸せではちきれそうなあたしを見て、美生さんも海宝さんも満足そうに視線を交わす。
「艶のあるストレートの黒髪と、シャープな顎のラインの相乗効果で、清楚な印象が際立つわね。美生さんの腕は最上級でしょう?」
「はい! あ、カット代、手持ちで間に合うかな……。足りなかったら、すぐコンビニでおろしてきます」
「いいんです。お金はいただきません」
「そういうわけにいきません。こんなに素敵にしてもらったのですから、いくらでもお支払いしたいです!」
「千秋さん、いいのよ。エクスポージャーを頑張ったご褒美よ」
「そんな……。わざわざ、来ていただいたのに」
「いいんです。うるさい息子二人をお義父さんに任せて、いい仕事ができたんですから、私がお支払いしたいくらいです」
「ぞわぞわするでしょ? 最高のエクスポージャーね」
海宝さんは勝ち誇った笑みを浮かべる。何のことかわからない美生さんは、首を傾げながら片づけを始める。
「美生さん、メイクもしてくださる? 千秋さん、メイクしてもらったら私服に着替えるといいわ。写真を撮りましょう」
「海宝さん、これ以上は!」
「病院ですが、メイクして大丈夫ですか?」
美生さんが海宝さんに尋ねる。
「千秋さんには、それも治療の一つなの。問題ないわ」
「それなら安心です。千秋さんはスリムで可愛らしいから、メイクしたらモデルさんみたいになりますよ」
美生さんは、嬉々として準備を始める。あたしは、ぞわぞわしながらも、カバンから取り出されるメイク道具に目を奪われてしまう。プロの技術をこの目で見られるチャンスに胸が高鳴る。
あたしにケープを掛け、前髪をクリップで留めると、美生さんは尋ねる。
「どんなイメージにしたいですか?」
「お任せします!」
即答だった。彼女があたしをどう変身させてくれるかわくわくする。
美生さんはあたしの顔と髪型をいろいろな角度から見た後、昨日海宝さんが持ってきた紫陽花に目を留める。
「紫陽花のイメージはいかがでしょう? 千秋さんの黒髪と清楚な顔立ちは、清らかで、純粋な力強さを持つ紫陽花を思わせます。ちょうど、紫陽花の季節ですし」
「千秋さん、すごいぴったりじゃない!」
あたしより先に、海宝さんが歓声を上げる。もちろん、あたしも大賛成だ。
「ぜひ、それでお願いします」
美生さんは了解ですと微笑み、あたしにベースメイクを施す。化粧水や乳液、下地はあたしの知らないオーガニックブランドだが、上質で肌に良さそうなのは香りと感触でわかる。
ファンデーションは、このあいだ、金先生が言っていたディオールの美容液ファンデだ。いつもより明るい色なので、ブルべのあたしの肌を健康的に見せてくれる。
くっきり入ったアイラインは、可憐さの奥に潜む強い意志を思わせる。アイメイクは淡い空色ベースで仕上げられ、眉は清楚に描かれる。チークがほんのり乗ると、血色が良くなり、立体感が出る。ルージュは淡いコーラルピンクで、薄く小さな唇に嫌味のない存在感を与えてくれる。さすがに、高価なコスメは発色がいいと感動の連続で、メーカーと色を控えさせてもらった。
「紫陽花の季節にぴったりですね」
「本当に……。まさに紫陽花の精霊ね」
「こんなあたし、見たことないです……」
鏡に映る女は、あたしなのに別人のようで、改めてメイクの可能性に魅了される。
「そうだわ」
美生さんが思いついたようにカバンの中を探り、大きなケースを取り出す。中にはプラスチックケースに入った色とりどりの手作り髪飾りが並ぶ。
美生さんは、青と緑、オレンジ色の花がついた髪飾りを大事そうにケースから取り出し、海宝さんに見せる。
「美生さん、これ!?」
「ええ、澪さんが結婚式でつけた私の手作りのピンポンマムの髪飾りです。式が秋だったのでオレンジも入っていますが、緑がかった青の色打掛に合わせた色使いです。今日の千秋さんにも合うかと思うのですが、いかがでしょうか?」
「え、海宝さんの結婚式のときの? そんな大切な思い出がこもっているもの、絶対につけられません。海宝さんだって嫌でしょう?」
あたしの不幸が幸せな記憶を台無しにしてしまうと思い、ぞわぞわ感が全身を走る。
「千秋さん、嫌? 私はあなたにこそ、つけてほしいのに」
「嫌なわけありません。すごく可愛くて上品です。でも、こんな大切なもの、今のあたしにふさわしくありません……」
「じゃあ、いつならいいの?」
「え? 結婚式のために作られたなら、結婚式のときとか……。でも、そんな可能性ないし」
「私も結婚式なんてもうないと思っていたのよ。でも不思議なものでね……。それなら、あなたがこれを持っていてほしいの。結婚が決まったら、一度だけつけて私を思い出してくれれば嬉しいわ。美生さん、これいただいていいかしら?」
「もちろんです。澪さんが良ければ」
「もちろんよ。千秋さんが持っていてくれれば、私も髪飾りも嬉しいわ」
海宝さんが、そんな大切なものを一患者のあたしに譲ってくれたことに、胸が一杯になる。涙を堪えて海宝さんを見つめる。
「あたし、絶対に結婚式でつけます! 海宝さんのように幸せになれる気がします! 大切なものを本当にありがとうございます。ずっと宝物にします」
海宝さんは、目尻を下げてやわらかく微笑む。
「千秋さん、今つけてみてくれないかしら? 折角だから、写真を撮りましょう。着替えるといいわ」
あたしは今ある私服のなかで、一番今日のメイクに合いそうなブルーデニムのワンピースを選ぶ。着替えのあいだ、美生さんは後ろを向いて片づけをし、海宝さんは自販機に飲み物を買いに行ってくれた。
美生さんが撮ってくれたサイドに髪飾りをつけたあたしは、家族にも先生たちにも見せびらかしたいほど可愛い。あたしは早速家族に送信し、スマホの待ち受けにする。
「素敵。雑誌の表紙になりそうじゃない!」
「本当に。ヘアメイクをさせていただけて光栄です」
パイプ椅子に掛けて爽健美茶を飲みながら、2人は女子会のように盛り上がっている。
あたしは鏡に映った女を様々な角度から眺める。ナルシストっぽいけど、いつまでも見ていたいほど可愛く仕上がっている。美容部員は無理かもしれない。けれど、こんなに人を幸せにできるメイクの仕事を諦めたくない思いが、むくむくと湧き上がってくる。
「美生さん、あたし、こんな傷があるんです……! それでも、メイクの仕事ってできると思いますか?」
衝動的に手首の傷をさらしてしまったが、美生さんはこんな生々しいものを見せられて、ぎょっとしたに違いない。
「すみません、いきなり……」
傷を隠しながら、自分の軽率な行動に自己嫌悪する。
美生さんは、まったく動揺した様子はなく、朗らかな声で話し出す。
「うちの店には生まれつき顔に大きなあざがあるスタッフがいますよ。他はわかりませんが、うちは技術とコミュ力があれば、根性焼きがあろうと傷やあざがあろうと関係ありません」
あっけらかんと言われ、あたしのほうが面食らってしまう。
「でも、こんな傷があったら、お客様が嫌がりませんか?」
「そういう方は、そこに行かなければいいだけのことです。うちでは、顔にあざがあるスタッフにも、たくさんお客様がついています」
美生さんは、ビジネスカードを取り出して、あたしに渡す。
「メイクかネイルの技術をつけて、もし気が向いたら、うちに来てください。大きなイベントのときは、うちのスタッフ6人では足りなくて、以前働いてくれた人や育休中の人も動員しています。皆、個性豊かで楽しい仲間です。下町で美容院をしている大家族で育った私は、賑やかなのが好きです」
ここを出ても、あたしは生きていけそうだと根拠のない自信が芽生えた。もともと死んでもいいと思ってたわけだし、生まれ変わったつもりで、我武者羅に進んでみようと闘志が湧いてくる。
海宝さんは頬を紅潮させるあたしを優しい眼差しで見ていた。