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澪標 エピローグ

 Zoom画面の向こうで、少々お疲れ気味の彩子が手を振っている。背景に映るアンティークな掛け時計は、ただ同然で購入したという古民家の部屋に気持ちよく調和している。

「すーちゃん、今日は本当にありがとうね」

「こちらこそ、2人らしい素敵な結婚式に参列させてくれてありがとう。幸せパワーをたくさん分けてもらったよ。いま、透さんは?」

「店で明日の仕込みを手伝ってる。また、ゆっくり紹介するね。コロナ収まったら、泊りにきてよ。すーちゃんが北関東事業所に来てくれて本当に嬉しい!」

 背後で毛繕いをしていた茶白猫の柚子ゆずが、みゃううと鳴いて彩子の膝に乗る。

「ありがとう、楽しみにしてる。彩子、本当にお疲れ様。今までいろいろ大変だったんでしょう?」

「まあね。春からいろいろ変化が多すぎて疲れたけど、いまは頑張らなくちゃいけない時期だから」

「そっか、無理は禁物だよ。ところで、彩子のご両親は、まだ透さんとの結婚を許してくれないの?」

 彩子は柚子を撫でながら、複雑な笑みを見せる。「前も話したけど、最初から一貫して大反対」

「最初は、どうに紹介したんだっけ?」

「私たちは、透の強迫性障害と一緒に戦いながら関係を深めてきたでしょう。だから、透が回復して、同じ病気の患者さんを励ますために、仲間や先生方とZoomセミナーを開いたとき、透に内緒で私の両親に視聴してもらったの。私と透が協力して治療に取り組んだ経験を話すセッションもあったから、私たちを理解してもらうために一番いいと思って。そしたら、セミナー終了直後に、両親が強烈な反対メール送ってきて……」

「どんな?」

「父の送ってきたメールには、自分もお母さんも病棟の薬剤師をしていたことがあるから、心療内科の患者さんも見てきた。苦労するのは目に見えている。考え直しなさいってつらつらと。それからすぐ、以前父の紹介でお見合いしてお断わりした相手に、もう一度娘とのことを考えてほしいって連絡をとったみたいで……。お見合い相手からも、透はやめろってLineが入ってて……」

「お母さんは?」

「セミナー終了直後に、着信入ってた。2回も。後でかけ直したら、すごい剣幕で反対されて、互いに物をはっきり言う性格だから醜い言い争い。透には、挨拶に行っていい日程を聞いてほしいと言われてたのに、それどころではなくなっちゃった。透からも、セミナー視聴なんかしてもらうから、こんなことになったんだって責められて」

「じゃあ、ご挨拶には?」

「行ったよ、6回も。3回目からは、コロナ対策を理由に、家にも入れてもらえなくなって……。こんな時期なのに、何度も来るのは非常識極まりないって怒鳴られる始末。だから、もう諦めた。許してもらえなくても、式を挙げることにした」

「いいの? 彩子は辛いんじゃない?」

 彩子は歩み寄ってきた白柴犬の胡桃くるみの頭を撫ぜた。胡桃は、彩子の足にあごを乗せて目を閉じた。

「辛くないといったら嘘になる。でも、いま守らなくてはいけないのは、透の心と、私たちの関係。だから、早く式を挙げたかったの。私、透に頼りにされているのが本当に嬉しいんだ。父と母には兄も兄嫁も甥もいる。でも、透には私しかいない。それに、両親は心配してくれるからこそ反対してるとわかってるし、私たちが幸せになれば、いつか認めてくれると信じてる」

「そっか、彩子は守るべきものを見つけたんだね」

 画面の向こうで微笑む彩子から、以前にはなかった落ち着きと包容力が感じられる。幸せをつかみ取った親友は、神々しいまでに美しい。

「透さん、強迫性障害は治ったの?」

「たまに、強迫観念を引き起こすトリガーにぶつかるけど、やりすごす方法を身に付けたからもう大丈夫。ここまで回復した彼を心から誇らしく思う」

「よかったね。本当におめでとう。彩子を誇りに思うよ」

「ありがとう。ところで、すーちゃんは、今は誰とも……?」

「うん。まあ、いい出会いがあればと思うけど……。私は準備万端でも、このコロナ禍ではね」


 彩子は、何かをためらうように視線を2匹に泳がせた後、静かに切り出した。

「私、先月の週末、秋葉原で機器を探すために上京したんだけど、そのとき上野駅で海宝課長に会ったの。山手線のホームで偶然会って、少しだけ立ち話」

 躰にさっと緊張が走り、息を詰めて続きを待った。

「そのとき、彼からすーちゃんが使ってた香水と同じ香りがしたの。ロクシタンのエルバヴェールだっけ? あのグリーン系の」

「嘘、そんなはずない。彼はサムライのアクアクルーズしかつけないよ……」

「間違えるはずないよ。すーちゃんの部屋に泊りにいったとき、いつも漂ってた香りだもん」

 胸がきゅっと締め付けられ、喉元に熱いものがこみあげてくる。

「大丈夫、すーちゃん?」言葉が出ない私に、彩子が心配そうに問いかける。

「ごめんね。すーちゃんの再出発のためには、言わない方がいいかもしれないと思ったけど……。香水のこと、海宝課長に尋ねたの。そしたら、『僕の澪標です。死ぬまで使い続けます』って。直後に電車が来て、彼は急いでいるからと乗ってしまって、それ以上は聞けなかったけど。すーちゃんには、意味がわかるのかな」

 温かい感慨が胸に波紋を描くように広がっていき、声を上げて泣き出したいのを気力で堪える。

「彩子、教えてくれて本当にありがとう」


 あなたからもらったサムライ アクアクルーズは、あの荒海に還すと決めた。


(完)



主要参考文献、サイト   

加藤忠史『双極性障害 双極症Ⅰ型・Ⅱ型への対処と治療 第2版』(ちくま新書、2019年)

加藤忠史『双極性障害(躁うつ病)の人の気持ちを考える本』(講談社、2013年)

野村総一郎監修『新版 双極性障害のことがよくわかる本』(講談社、2017年)

双極性障害ABC    https://www.smilenavigator.jp/soukyoku/about/

双極性障害と全般性不安障害は高頻度に合併 https://www.carenet.com/news/general/carenet/42460

双極性障害患者の強迫性障害合併、その特徴は https://www.carenet.com/news/general/carenet/44846

厚生労働省 新型コロナウイルス感染症対策(こころのケア)https://kokoro.mhlw.go.jp/etc/coronavirus_info/