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ピアノを拭く人 第4章(10)

 Zoomセミナーの開始時間まで、透がピアノで奏でるベートーヴェン 交響曲第9番の第3楽章が流れている。天上の調べとも言われるアダージョは、開始前の張りつめた空気を和らげてくれている。

 彩子は、Zoomセミナーは、透が赤城に感謝したくて力を入れた企画という思いが消えず、複雑な思いだった。だが、その後の透の言動を信じ、何としてもセミナーを成功させる意気込みで臨んでいた。

 彩子は、前半の司会を務める赤城、トークに参加するシオリ、タクミ、カルロスが座る位置を入念にチェックした。レンタルしたプロジェクターのスクリーンに、4人が無理なく収まったのを確認すると、視聴者との接続に問題ないかテストを始めた。
 羽生は、終了後のミニパーティーのために用意した料理を冷蔵庫に収めている。桐生は、羽生が用意してくれたミントウォーターを紙コップに注ぎ、皆に配るのに忙しい。

 ふと一息ついた彩子は、シオリを送ってきた母親が、椅子に掛けて娘を見守っている姿を目にした。自分の両親もセミナーを視聴することを思い出し、にわかに不安がこみあげてきた。だが、優雅にピアノを奏でている透を見ると、きっと大丈夫だと心が凪いでいった。

「あと3分で開始です。ちなみに、今日の視聴者は合計22名です。時間が押しても、休憩時間で調整しますので、視聴者に聞こえるように、ゆっくり大きめの声で話してください。宜しくお願いします」
 彩子の呼びかけに、ライトベージュのワンピース姿の赤城が大きく頷く。タクミが顔を隠すためにフランケンシュタインのお面を被ると、シオリとカルロスは吹き出さないで話せるよう、今のうちに、けらけら笑っている。
 透のピアノ演奏が止み、彩子は赤城に向けて片手を差し出し、ゴーサインを送った。


(赤城)みなさん、こんにちは。お忙しいなか、お時間をいただきまして、ありがとうございます。前半の「新型コロナウイルス感染症対策と強迫症の治療」の司会を務めさせていただく赤城と申します。

 新型コロナウイルス感染症対策が始まってから、もうすぐ1年が経とうとしています。私は、精神科医として臨床の場に立っていますが、患者さんも様々な面でコロナの影響を受けていることを日々実感しております。不況により仕事を失い、心を病んで通院を始めた患者さんもいれば、医療費が捻出できなくなり、やむなく通院を止めてしまった患者さんもいます。そして、コロナ感染の恐怖により、強迫症の症状が再発して治療を再開した患者さんもいれば、症状が悪化したために通院できなくなってしまった患者さんもいます。

 そんな折、私の外来に、症状は異なるものの強迫症に苦しむ4人の患者さんが、ほぼ同時期に来てくれました。彼らは、1週間の入院治療中、4人で励まし合いながら、エクスポージャーと儀式妨害、薬物療法を受け、生活に大きな支障がないまでに快復しました。そんな彼らが、同じ病気で、外出できずに苦しんでいる患者さんを励ませればと企画したのがこのセミナーです。
 強迫症の方のなかには、コロナの流行により、症状が悪化したり、治療が思うようにできずに苦しんでいる方がいらっしゃると思います。コロナ禍で、果敢に治療を受けた彼らの声は、大きな励みになるでしょう。

 皆様ご存じのように、4人はYou Tubeで、自身の症状、受けた治療の内容を配信しているので、詳しいことはそちらに譲りたいと思います。

 

 では、最初に、前半に参加してくれる3人に、新型コロナウイルス感染症対策による症状への影響を聞いてみたいと思います。

(赤城)シオリさんは、3年前に不潔恐怖と洗浄強迫を克服したのに、コロナの流行で再発してしまったのですよね?

(シオリ)はい。自分がコロナに感染するのが怖かったですし、無症状でも感染していることがあると聞き、自分が誰かに感染させてしまうのも怖くなりました。

(赤城)再発したときの状況を話していただけますか?

(シオリ)新型コロナウイルス感染症対策がはじまってから、私も普通の人と同じように、マスク着用、手洗いやアルコール消毒を心掛けていました。
 再発したのは、昨年の秋、自分が風邪をひいたときでした。もし、コロナだったらどうしよう、治っても後遺症が残るかもしれない。高校や電車、立ち寄ったお店で接触した人や家族に感染させたかもしれない、高齢の方を重症化させてしまったかもしれないなど、いろいろ考えてしまい、半狂乱になって市の発熱相談に電話で相談し、近くの内科クリニックを受診しました。
 そのときは、コロナではなかったのですが、それをきっかけに外出が怖くなって、高校を休みがちになりました。家にいるようになると、手洗いやお風呂の時間がどんどん延び、勉強や睡眠の時間が削られていきました。家中にクレベリンを置き、除菌スプレーで自分や家族の服、ベッド、ソファなどを何度も消毒するようになりました。買ってきたものは、全部消毒したり、入念に洗ってからでないと、使ったり、食べたりできませんでした。家族に懇願し、自費で受けられるPCR検査を何度も受けさせてもらいました。
 明らかにやりすぎなのですが、コロナの感染者数が増えていき、医療の逼迫が報道されるなか、医療従事者に迷惑をかけないためにも、このくらいして当然だと思いました。

(赤城)コロナ対策が、強迫行為を正当化する流れになってしまったのですね。
 加害恐怖を持っているタクミさんは、コロナによる影響はありましたか?

(タクミ)僕の主な症状は、車で人を轢いたかも知れない、電車のホームで人を突き落としたかもしれない、店で店員に危害を加えたかもしれないなどの強迫観念が浮かび、確認を繰り返してしまうものです。症状がひどくなって会社を休職してから、外に出るのが怖く、引きこもり気味でした。
 そんなとき、新型コロナウイルス感染症対策が始まり、ステイホーム、人との接触を減らすことが推奨されました。今思えば、僕はそれを理由にますます外出を控えるようになり、外出に対するハードルがさらに上がったと思います。

(赤城)休職して引きこもり気味だったところに、コロナ対策が始まり、外に出ないことを正当化する流れになってしまったのですね。外出を控えることで、時間ができてしまったと思いますが、症状に変化はありましたか?

(タクミ)時間ができて、強迫観念に振り回される時間が長くなってしまいました。あのとき、車で人を轢いたかも知れないなどの強迫観念が浮かぶと、居ても立ってもいられなくなり、轢いていないかを確認するために、ドライブレコーダーを見直し、ネットでニュースを調べ、実際にその場所に行って事故の痕跡がないかを調べました。それでも安心できなくて、警察に電話して聞いたこともあります。次々と強迫観念が出てくるので、確認しないと落ち着かず、疲れ果てて1日が終わる日々が続きました。観念が湧いてこないように、眠って過ごす日もありました。

(赤城)タクミさんも、シオリさんも、時間ができると、強迫行為に割く時間が増えてしまい、苦しい日々でしたね。
 カルロスさんは、涜神恐怖ですが、コロナ対策の影響はありましたか?

(カルロス)僕は、カトリックで、キリストやマリア、聖書などを侮辱する考えが、意思に反して浮かぶようになって悩んでいました。僕には、コロナの影響はないように見えますが、あるんです。
 僕は教会で嫌な考えが浮かぶのが怖くて、ずっと教会に行けませんでした。でも、去年はコロナ対策で、三密を避けるために、礼拝が中止された時期がありました。僕は教会に行けないことを後ろめたく思っていたので、礼拝が中止されて、行かなくていいんだと安心しました。

(赤城)カルロスさん、タクミさん、シオリさんのお話から、コロナ対策が、不快感を呼び起こすものに敢えて曝され(エクスポージャー)、安心するための強迫行為をしない(反応妨害)、いわゆるERP(Exposure and Response Prevention)を控えることを正当化する傾向が見えてきます。
 そんな状況でも、3人は、なぜ病院に来ると決意し、ERPに挑戦できたのでしょうか? それから、いま病院に来られずに苦しんでいる強迫神経症の方々に、アドバイスをお願いしたいと思います。
 今度は、カルロスさんから、お願いしましょうか。

(カルロス)はい。僕は、嫌な考えが浮かぶために、教会に行けないだけではなく、キリスト教に関わるものが全部怖かったです。キリスト教に関するテレビ番組や映画は見られないし、聖書やロザリオも触れませんでした。嫌な考えが浮かんでくるたびに、取り乱し、自分や家族に天罰が当たらないように、必死で謝ったり、祈ったりしていました。去年からそれがひどくなって、仕事に集中できなかったり、眠れなくなったりして、このままでは頭がおかしくなって死ぬと思い、病院に行きました。

 僕のような症状で苦しんでいる人が病院に行くのは勇気が必要と思います。病院にいったとき、赤城先生に、嫌な考えが浮かぶのは、僕が神様を侮辱しているのではなく、病気のせいだと言われました。病気を治すために、天罰が当たるようなエクスポージャーに挑戦するのはとても怖かったです。でも、赤城先生と教会の神父様が、治療は神様を侮辱することにならないし、罰も当たらないと言ってくれたので頑張れました。
 同じような症状で悩んでいる人、神様を侮辱するエクスポージャーをしても罰は当たりません。僕にも家族にも罰は当たっていません。今は良くなって、教会に行けます。勇気を出して、治療を受けて下さい!

(赤城)カルロスさん、ありがとうございました。ご家族と礼拝に行けるようになり、絆も深まったのではないでしょうか。

(カルロス)はい。家族の前で、取り乱すこともなくなり、今は仲良く教会に行けます。

(赤城)先日は、奥様も一緒に外来に来てくれましたね。
では、次にタクミさん、お願いします。

(タクミ)僕は休職するために、近くの心療内科で診断書を書いてもらい、投薬治療を受けていました。でも、治らなくて、休職期間が伸びていきました。このまま社会から取り残されて、1日中、強迫行為を繰り返すのは、もう耐えられないと思い、大きな病院に行くと決めました。

 赤城先生に、入院して、今まで怖くて避けてきたことを敢えてやってみて、安心するための強迫行為をしなくても、不安がおさまることを体験するERPをやってみないかと聞かれたとき、とても不安でした。でも、薬だけの治療を1年近く受けても良くならなかったので、もうこれしかないと思い、覚悟を決めました。
 実際に治療を受けると、強迫観念が浮かんでも、実際に自分は加害行為をしないとわかりました。避けていたことに、敢えて挑戦することで、不安は湧いてくるのですが、時間が経つと落ち着くことがわかりました。

 僕のような加害恐怖と確認強迫で苦しんでいる人は、病院に行くために外出することは本当に大変だと思います。でも、病院に行き、精神科医や心理士の先生方の指導を受けてERPに挑戦すれば、今より楽になると思います。
 医療機関がコロナの患者さんの治療で大変なときに、自分が病院に行ってもいいのか、今のままでもどうにか生活できるからこのままでいいと思う気持ちもわかりますが、治療しないと今の苦しみがずっと続くと思います。勇気を出して治療してください!

(赤城)タクミさん、ありがとうございました。今年初めから、仕事に復帰したのですよね。

(タクミ)はい、おかげさまで。営業アシスタントとしてのデスクワーク中心の復帰です。営業職としての完全復帰を目標に頑張りたいと思います。

(赤城)目標があると、これからもERPを頑張れますね。
それでは、シオリさんに、お話を伺いましょうか。

(シオリ)はい。私は、新型コロナウイルス感染恐怖と不潔恐怖が悪化し、家族まで巻き込んでいて、家族も限界になったので病院に行きました。
 あの頃の私は、家族にも、帰宅したら、上着や持ち物を除菌スプレーで消毒し、手洗い、うがいをして、すぐにお風呂に入ることを要求しました。服や家具、寝具なども、徹底的に消毒してと頼みました。家族がそれを守らないと、私がパニックになって、怒鳴ったり、泣いたりし、喧嘩になることも多かったです。家族はいらいらし、水道代も上がっていき、お願いだから病院に行こうと母に泣かれました。
 私は、以前ERPを受けて、良くなったので、受けるべきだとわかっていました。それでも、なかなか、病院に行けなかったのは、コロナに感染するのが怖かったからです。

 私の動画でも話していますが、ERPでは、かなり怖いことをしました。マスクを外して、病院内を歩き回りました。満員電車のなかで、マスクを下げました。コロナの患者さんを受け入れている病院に行き、洋式トイレを使い、外来の椅子を自分のハンカチで拭いて、そのハンカチで自分のベッドを汚しました。手洗いを許されない状況で、こうしたERPをするのは本当に怖かったです。
 でも、入院治療後に受けたPCR検査は陰性でした。これだけのことをしても、コロナに感染しませんでしたし、強迫の症状はとても良くなりました。
私のような症状の方は、この時期に病院に行くことが本当に怖いと思います。でも、どうか勇気を出して病院に行き、治療を受けて良くなってほしいと思います。

(赤城)シオリさん、ありがとうございました。退院後は、コロナを必要以上に恐れずに生活できていますね。

(シオリ)はい。友達や街で見かける人がどうしているかを観察し、同じレベルでコロナ対策をしています。以前のように、高校にも通えています。

(赤城)視聴者の皆様、3人の生の声はいかがでしたか?
 コロナ禍でも病院に行くことを決めた3人に共通するのは、本人や家族が限界になったことです。本当に苦しかったと思います。
 苦しんで、もうこれしかないという気持ちでERPに挑戦したことが、治療の原動力になったと思います。ERPは、今まで避けていたことに挑戦する治療なので、強い意志がないと、挫折してしまうこともあるからです。

 私たちは、良くなりたい患者さんを全力でサポートします。コロナ禍で医療機関に来ることに抵抗があるかもしれませんが、感染防止対策をしたうえで、勇気を出して来院することをお勧めします。ご本人の来院が難しければ、ご家族の相談を受け付けている医療機関もあります。医療費の心配がある方には、専門スタッフが相談に乗ってくれるでしょう。

 質問等は、後半終了後にまとめてお答えする予定なので、チャットに挙げておいてください。

 それでは、これで前半を終了したいと思います。視聴者の皆様、シオリさん、タクミさん、カルロスさん、ありがとうございました。

 10分間の休憩後に、後半「強迫症と周囲のサポート」を開始します。