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連載小説「クラリセージの調べ」5-11

 私がキッチンに立っているのを見て、夫の顔に困惑と安堵が入り混じった表情が浮かぶ。
「澪……」

「おかえり、結翔くん。夕食は?」

「先輩の家で食ってきた」

 先輩と聞いて、裕美の家かもしれないと勘が働く。だが、それを問いただす気力もなく、必然性も感じない。

「そう。おでん作ったから、冷蔵庫に入れとくね。明日食べてくれてもいいし、いらなければ捨てて。疲れているときに申し訳ないけど、話がしたくて戻ってきたの」

 夫は夜気のしみ込んだコートを脱ぐと、脚を大きく開いてソファに掛ける。私は、その向かい側に腰を下ろす。

「私が、どうしてキッチンもリビングも片付けずに出ていったか、お義父さんから聞いた?」

「親父が子供のことで気に触ることを言ったから、澪が腹を立てたと聞いたけど……」

「それ以外に、何か言ってなかった?」

「いや」

「……あなたにはショックかもしれない。けれど、お義父さんは私に暴言を吐きながら、性的関係を迫ったの」

 夫は黒々とした目をきっとつり上げ、氷の矢を放つような声で言う。
「言っていいことと悪いことがあるのをわかってるよな?」

 夫のどこに、これほどの冷たさが潜んでいたのかという声色こわいろに怯んでしまう。だが、感情に流されないよう自分を律して続ける。
「お義父さんは、子供ができないなら一度くらいいいだろう、妊娠できないおまえには、それくらいの価値しかない。できてしまっても、息子と自分は血がつながっているのだから構わないという趣旨の暴言を吐いて、今あなたが座っている場所に私を押し倒した……。干してある私の下着に欲情して、感情をコントロールできなくなったとも言っていた……。2週間ほど前に、私が下着がなくなったと言ったの覚えてる? 私が出ていった日もなくなったけど、お義父さんだと思う……」

 当時のことがよみがえり、乱れる息を整える私に、夫が声を荒らげる。
「黙れよ!!」

 信じたくない夫の気持ちを思うと心が折れそうになるが、自分を奮い立たせて言い継ぐ。
「お義父さんが私を粘りつくような視線で見ているのは、ずっと気づいていた。ぞっとするような言動もあったけど、あなたがお父さんを尊敬しているから、信頼関係を失うのが怖くて、ずっと相談できなかった。
 昨日、お義父さんから聞いたけど、私は彼が昔好きだった女性に生き写しだから、感情を抑えられなくなったって……」

「いい加減にしろよ! 俺は澪がおふくろや絹姉ちゃんを悪く言うのを黙って聞いてきた。自分の家族の悪口を言われるのが不愉快だったけど、澪を愛してるから、家族とぶつかっても澪の味方をしてきた。
 けど、そこまで親父を貶められる作り話を聞かされて、黙ってられるかよ」

「あなたが認めたくないのは理解できる。できれば、見せたくなかったけど、一部始終を記録した動画があるの」

 彼はテーブルに置いたノートパソコンを立ち上げる私に、雷が轟くような怒号を浴びせる。
「なんでそんな状況で動画が撮影できるんだよっ!! 澪が親父をはめたんじゃないか?」

「違う! ずっと、お義父さんの言動が気味悪くて怖かったから、勝手だけど、この部屋に監視カメラをつけておいたの」

 夫は憤怒の形相でまくしたてる。
「ふざけんなよ……。俺は自分の家でずっと監視されてたのか? 何で家族にそんなことされなくちゃならないんだよ!」

「勝手にカメラをつけたのは謝ります。でも、お願いだから、この動画を見て下さい」

「親父を陥れる画像なんか、見るわけねえだろ! どうせ、あの医者の入れ知恵で加工されてるんだろ? あの医者とできてるから、俺と離婚したくてそんなこと言ってるのか? おふくろが、澪があの医者の車に乗って出ていったのを見たと言ってたしな」

「正気で言ってるの? すずくんは、お義父さんに襲われかけて逃げ出して、庭で過呼吸を起こしてた私を手当してくれたの。一緒に出ていったのは、ここにいるのが怖いと言った私を彼がビジネスホテルに送ってくれたから。
 妻がお義父さんに襲われかけたのに、信じてくれない上に、そんなに醜いこと言われるとは思わなかった。ずっと、一緒に暮らして、不妊治療も頑張ってきたのにがっかりだよ……」

 彼は声を震わせる私に答えず、つかみかかるような勢いで尋ねる。 
「カメラはどこについているんだよっ?」

 私がカーテンレールの上を指さすと、夫は伸びあがってそれを乱暴に取り外す。例の画像はノートパソコンとスマホ、クラウドにも保存してある。

 夫はカメラを手に、肩を怒らせてリビングを出ていくと、死人も目覚めるような音で玄関ドアを閉める。

 恐い思いをした私に寄り添ってくれないばかりか、信じてもくれない人と夫婦でいる意味はあるのだろうか……。

「もう無理……」
 二階に上がり、当面必要なものをスーツケースに放り込む。残りの荷物は夫のいないときに少しづつ運び出そう。

 家を出ると、清冽な夜気が頬をかすめる。月は雲に覆われていて、空は暗い。

 私が授からないことで、いろいろなところで歪みが生まれ、ここまできてしまったのだろうか。私は家庭を築くことにも失敗し、親の望む「ちゃんとする」を実現できなかった。また両親や祖父母を失望させてしまうと絶望的な気分に襲われる。

 暗い夜空を見上げているうち、瑠璃子が葉瑠ちゃんを恨みたくないために、二人の希望が一致する上京を選んだことを思い出す。私も、親を安心させるためにこの家に縛られ、年月が経ってから親を恨みたくない。看護師になり、自立した姿を見せるのも親孝行ではないだろうか。家族との関係で苦労した分、様々な事情を抱える家族に寄り添える看護師になりたい。

 月にかぶさっていた雲がゆっくりと流れ、月光が殺風景な庭に注がれる。

                
                 ★
 私からの着信を受けた義父は、戸惑いの混じった声で応答する。
「もしもし……」

「お義父さん、お願いがあります」

 電話の向こうの空気がぴりっと緊張し、警戒心のにじむ声が返ってくる。
「何だろうか?」

「私に子供ができないことを理由に、結翔さんとの離婚を命じてください。私の両親にも、お義父さんの口から、そのようにお伝えください。

 そうしてくだされば、お義父さんが私にしたことは墓場まで持っていきます。因みに、結翔さんは、お義父さんがしたことを伝えても私を信用せず、一部始終を録画した動画を見るのも拒否しました。もちろん、昨日お伝えした通り、結翔さんのお名前に、お義父さんの愛した方から一字をもらっていることは言っていません」

 良き夫、良き父親として長年家族を守ってきた義父のイメージまで台無しにするのは本意ではない。

「もし、そうしてくださらないのなら、動画と録音を市川家のご家族と私の両親に見せます。その上で、強制わいせつと窃盗罪で刑事告訴を検討します。ご存じかと思いますが、強制わいせつ罪は罰金刑がなく懲役刑のみで、未遂でも処罰されます」

「あんた、録画してたのか?」

「お義父さんの視線や言動が不審だったので、リビングに監視カメラを設置していました」

「家族を脅すのか……」

「お願いしているだけです」

 しばしの沈黙の後、声はか細いが、意思のこもった返答が返ってくる。
「わかった、あなたの言う通りにしよう……。ご厚情に報いるために、相場以上の慰謝料をお支払いする。示談と協議離婚で進めよう」

「ご理解とご協力、感謝いたします」

 電話を切ると、部屋のカーテンを大きく開け、うすい冬の陽を全身に浴びる。

 ベッドサイドに置いたアロマディフューザーから流れるクラリセージが室内を満たす。これからは、両親も夫も苦手な香りを好きなだけ楽しめる。立ち昇る芳香が、調べを奏でるようにエアコンの風に流されていく。

 フロントで宿泊を延長し、駅のカフェで当面住めそうなアパートを検索する。両親に事情を説明するために実家に帰り、アパートが決まったら市川家にある荷物を運び出さなければならない。周囲から漂う師走の慌ただしい空気が背中を押してくれる。


                ★
 瑠璃子を保証人に契約したアパートで、時間を忘れて衣類を収納している夕方だった。

 段ボール箱から出した服に埋もれていたスマホがぶるぶると振動する。
「すずくん、どうしたの?」

「今、市川さんの家に来てる。清司さんが弱ってて、あと数日の命だと思う。ご主人は、意識があるうちにすーちゃんと会わせたいけど、会わせる顔がないと言ってる……。どうする?」

「すぐ行く! 知らせてくれてありがとう」

 母屋に入ると、夫が硬い面持ちで迎えてくれる。
「来てくれてありがとう……」

「呼んでくれてありがとう」

「悪いけど、話を合わせてくれないか」

 首を傾げていると、絹さんが眠っている凛太郎くんを私の腕に預ける。

 夫と共におじいちゃんの部屋に入ると、義父が気まずそうに席を外す。空気が澱み、導尿バッグから漂うアンモニア臭が停滞している。蒼白い顔のおじいちゃんは目を開けているが、意識が混濁しているかのように光がない。

 枕元に座っていた白衣姿のすずくんが、私たちに場所を譲る。

「じいちゃーん、俺の奥さんの澪が子供を産んだよ! じいちゃんの曾孫だよー!」

 そういうことだったのかと、私も枕元に立って大声で呼びかける。
「おじいちゃん、立派な男の子ですよ! 市川家の後継ぎですよー」

 おじいちゃんの口元がかすかに上がり、笑ったように見えた。

 夫がおじいちゃんのか細い手を取り、赤ちゃんの手と触れ合わせる。そのとき、おじいちゃんの指先がしっかりと赤ちゃんの手を握る。思わず夫と目を合わせる。夫の目がみるみる潤んでいく。 

「おじいちゃん、澪です。元気になって、この子を抱いてくださいね。また私の作ったパンを食べてくださいね。お話と歌、もっと聞かせてください。いつも、優しくしてくれて嬉しいです」
 本当の曾孫を見せてあげられなくてごめんなさいと胸の中でつぶやく。

 すずくんはおじいちゃんの尿量と血圧をチェックした後、私たちを振り返る。
「何かあったらいつでも連絡してください」
 
 すずくんが引きあげた後、リビングに控えていた紬さんに遠慮がちに声を掛けられる。
「澪さん、お茶を飲んでいかない?」

 断る理由もないのでリビングに入ると、お義母さんと絹さんもいる。

 みな沈痛な面持ちなので、蛍光灯の光を浴びてできる影法師のように映る。

 紬さんがためらいがちに口を開く。
「澪さん……。離婚のことだけど、父があまりにも勝手なことを言ったんじゃない? 澪さんのご両親にも申し訳ないじゃない」

「そうだよ。お父さんは、いくら何でも頭が古すぎる。子供ができないから離婚なんて、いつの時代の話。市川の苗字が途絶えて何の問題があるの」
 いつもは辛く当たる絹さんまで肩入れしてくれることに、居心地が悪くなる。

 お義母さんは、口は開かないが、伏し目がちに私の反応を窺っている。

 お義父さんが悪者になってしまったことを少しだけ申し訳なく思う。だが、彼女たちが真実を知るのはあまりにも酷だ。

 私は毅然とした態度で言葉を紡ぐ。
「お義父さんは賢明な選択をしてくださいました。市川家の皆様には良くしていただいたのに、おじいちゃんに曾孫を見せてあげられず、本当に申し訳ございません。子供が好きな結翔さんは、一日も早く彼を父親にしてくれる方と一緒になるべきだと思います」

「澪さん……」
 義母は何か言おうと口を開きかけた。だが、私がこれ以上の議論を受け付けない空気をまとったので、言葉を飲み込む。


 おじいちゃんは翌日の深夜、眠るように息を引き取った。家族に見守られた大往生だった。

 すずくんは、呼吸、心拍、瞳孔を確認し、「23時46分 ご臨終です」と厳かな声で告げ、深く一礼する。

 枕元で悲しむ皆を見ながら、私は本当の曾孫を見せてあげられなかった罪悪感に苛まれていた。すずくんの手で、死後の処置が施されるのを見守っていたが、いたたまれなくなり、そっと母屋を出る。

 月を見上げながら、思いを巡らせる。
 おじいちゃんは、曾孫ができたと信じたまま旅立てたと信じたい。子供ができなかったのは残念だったが、お義父さんにされたことを考えれば、できなくて良かったのかもしれない。そんなことを考えてしまう自分が不謹慎に思えた。

 その罪悪感は、憔悴した市川家の皆を支え、通夜から葬儀までの雑事を積極的に手伝う力になった。おじいちゃんは、私が最後に市川家の一員として働ける機会をくれたのだ。

 近隣の斎場で開かれた告別式には、私の知らない親戚、町内会の人々、学校関係者が葬儀会社の見積もりよりたくさん来てくれて、多めに用意した引き出物が足りなくなる寸前だった。

 会葬を済ませたすずくんを追いかけ、斎場の外で声をかける。
「すずくん、来てくれてありがとう。おじいちゃんは、すずくんに看取ってもらえて幸せでした」

 冬空の下に出ると、知らない間に喪服に染みついたお線香の匂いを強く感じる。

 すずくんはかすかに視線を上げて空を見上げた後、私に視線を移す。
「清司さんを看取れてよかったよ。実は俺、正月休みが明けたら、千葉の病院に行くんだ」

「え、おめでとう! そんな慌ただしい時期に来てくれてありがとう。引っ越しとか、何か手伝えることがあったら言ってね」

「ありがとう。大した荷物はないから、引っ越しは大丈夫。けど、もしよかったら一つ手伝ってほしいことがあるんだ」

「何?」

「クリニックの駐車場で暮らしている地域猫がいて、主に俺が餌をやってた。推定5歳の雄の黒猫。去勢とワクチンは済ませてある。ネコエイズ陰性。千葉に連れていくつもりだったけど、病院の寮では飼えない。だから、もし、猫を欲しがってる人がいたら教えてほしいんだ。大晦日までに見つからなければ、俺がアパートを契約して、落ち着いたら迎えに来ようと思ってるけど」

「ねえ、その子、私が飼ってはダメかな? これから一人で頑張っていく支えがほしいと思ってたの。絶対大切にするから」

「マジ? すーちゃんが飼ってくれるなら安心だけど、大丈夫?」

「うん、猫大好きだし、今のアパートはペットOK。すずくんには言葉にできないくらいお世話になったから、お役に立てるならこんなに嬉しいことはないよ」

「本当に? まずは見に来てよ。相性もあるし」

「もちろん! ところで、どんな病院に行くの?」

「泌尿器科で女性から男性への性別適合手術をしている私立の総合病院。直接の知り合いではないけど、O大の同門の先輩がいる病院で、求人出てたから、電話して、押しかけて、面接してもらった。いきなり、手術の第二助手に入るよう言われて、手技をチェックされて焦ったよ。でも、同じ門下だったから、通じ合うものがあって、その日に採用が決まった。ネットの書き込みのことも正直に話したけど、こっちに来てしまえば問題ないと言ってもらえた」

「すごい、さすがはすずくん。私も嬉しい!」

 そう言いながらも、すずくんも行ってしまうことは胸を切り裂かれるように寂しい。

「落ち着いたら、岩崎と一緒に遊びに来てよ。看護学校始まる前の春休みとかどう? その頃は、岩崎も都内にいるだろ」

「絶対行く! そうだ、私、久々に海が見たいな」

「いいな。海なし県の俺たちは、海に惹かれるんだよな。きれいなところ、探しておくよ」

 年が明け、離婚手続きは流れるように進んだ。義父は看護学校三年分の学費に近い慰謝料を振り込んでくれた。最初は返すか迷ったが、墓場までの口止め料だと思って有難くいただくことにする。奨学金ももらえるので、貯金を合わせて一人と一匹の暮らしを賄える。

 失望させるかと思った実家の両親と祖父母は、意外にも私に同情的だった。市川の両親を口々にののしる彼らに同調したい気持ちもあったが、余計なことを口にしてしまう危険があったので沈黙を貫くと決める。真実を話しても、誰も幸せにならない。

 キャリアウーマンだった祖母と母は、私が手に職をつけようとしていることを心から応援してくれている。彼女たちの気持ちが嬉しく、絶対に看護師資格を取得すると決意を新たにした。