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「檜林に消える」3

 街路樹の銀杏いちょうが黄金色に変わる頃、私と圭介さんは、小山駅に近い2LDKの賃貸マンションで新生活をスタートさせた。圭介さんは、家財の大半を処分し、ビーズクッション、肌に馴染んだ衣類とリネン、仕事に必要なものだけを持ってきた。ASDで変化を嫌う彼には思い切った決断で、いずれ来るときを見据えているように思え、胸を締め付けられる。私は居心地の良い空間を作ろうと、抑制の効いた色彩の家具や日用品、リネンで部屋を整えた。

 彼との生活で戸惑ったのは、片付けとトイレ掃除、汚れた下着の洗濯が大変になったことだ。彼が週3でハウスキーピングを依頼していたことに納得した。それを除けば、愛する人との日々は、ずっと乾いていた心身を潤わせてくれて、指先から足先まで力が漲ってくる。彼の立てる生活音は、ドアの開け閉め、廊下を歩く足音はもちろん、ユニークな消化音と蠕動音、激しい排泄音とそれに続く流水の音まで愛おしく、生活に張りを与えてくれる。 

 彼のがんは完治できず、期待できるのはがんの縮小と余命の延長、疼痛や不快感が来るのを遅らせ、来てしまったら、できる限り緩和することだ。だからこそ、彼にはポジティブでいることで、免疫力を上げてほしい。

 勤務を終えて帰宅し、圭介さんと夕食をとるのが日課になった。彼の食事に制限はないが、消化が良く、栄養価の高いものを作ろうと心掛けている。

 温かいうどんと温野菜をダイニングに運ぶと、リビングのソファで転寝うたたねしていた圭介さんが起きてくる。

「検査お疲れ様。疲れたでしょう?」
 大腸の検査を知る私は、そのストレスと体力の消耗を想像できる。

 彼はうどんを豪快にすすってから答える。
「前の病院で撮った比較的新しい検査結果があったから、それほどでもなかったよ。以前の主治医も言っていたが、私の腸は潰瘍性大腸炎をしたせいで狭窄や癒着がひどくて、カメラが奥まで入らない。葛城かつらぎ副院長も断念した」

「そう……。大変だったね」
 葛城先生は、他院で大腸カメラの挿入が困難だった患者さんでも、難なく入れてしまう。彼が諦めたとなると、よほどなのだろう。 

 彼は難しい顔をした私の気分を引き上げるように言い継ぐ。
「腫瘍の位置から見て、人工肛門にしないで済むそうだ」

「本当? 良かった~」

「20代で潰瘍性大腸になったときも、主治医が内科医だったから、大腸を切除しないで済んだ。結果的に、これで良かったと思うよ」

 彼は口元に飛んだつゆをティッシュで拭い、いつもより明度の高い声で言う。
「鈴木院長が診察室に来てくれた。ハンサムで、エリート街道一直線のような人に見えて、苦手なタイプかと思ったが、話したら全然違う。謙虚で、誠実で、人好きのする男だ。診察の後、院長室に招いてもらって、時間を忘れて話しこんでしまったよ。澪の近くに、彼がいてくれると思うと安心だ」

「彼は頭脳と容姿、家柄にも恵まれてるけど、あれでいろいろ苦労が多い人だよ。彼がゲイだから、私たちは色恋抜きの親友でいられるの」

「ん?」
 彼は箸を持ったまま動きを止めたが、落胆の混じった声で言い継ぐ。
「あれだけの男が独身なのは不思議だと思ったが、そういうことか。彼になら、私がいなくなっても澪を任せられると思ったが……」

 むっとした私は、答えずにうどんをすすり続ける。

「悪かった……。だが、私のほうが早くいなくなるのは火を見るより明らかだろう。澪が強気なのは、寂しがりを隠すためだと知っているから心配なんだよ……」

「わかってるなら、一緒に過ごす時間だけ考えてよ!」
 
 彼は私の意思をくみ取るように言い添える。
「手術日が決まったよ。鈴木先生が前の主治医に連絡を取って、当日はリモートでアドバイスしてくれるよう手配してくれた。彼は腹膜播種の切除経験が豊富だから安心だろう?」

 圭介さんはカレンダーの前に立ち、10日後の水曜日にマジックで丸を付けた。うどんと温野菜を平らげると、手術によるダメージを計算に入れ、仕事の調整に動き出す。自室で電話をかけている声をドア越しに聞くと、元気でいてくれることに感謝の気持ちが湧いてくる。

               
                ★
 いつものように、院長の顔で診察室に入ってきたすずくんは、エスプレッソを受け取り、予約リストをスクロールしてチェックを始める。初冬の朝日がブラインドの隙間から漏れ、彼の背中にボーダー模様をつくっている。

 私は声を落とし、彼に耳打ちする。
「圭介さんの件、いろいろご配慮いただき、ありがとうございました。本人も、とても喜んでいました」

 彼は頷き、眉間に深くしわを寄せる。彼のおでこのしわがくっきりとしたのに気づき、思わず自分のそれに手をあててしまう。

「しかし、悔しいな。あそこまで進行するまでに、自覚症状がなかったはずはないのに……。その時点で、受診していたらな」

「あの人、どこか人生を投げてるようなところがあるんです。神経発達症で子供の頃から苦労したせいか、自己肯定感が低いです。話していて、悲しくなることがあります……」

 彼はふっと眉間を緩め、優しい面持ちになる。
「彼は苦労した分、考えが柔軟で、既存の価値観に囚われない。それに救われた親や子供は多いと思うよ。彼が神経発達症の人を支援するNPOを作るために立ち上げたクラウドファンディングに、目標の5倍以上の額が集まっている。彼が、メディアや講演会で発信してきたことに賛同する人が、それだけ多いってことだよ」

「そんなことまで、話したんですね……」
 二人が私の知らないことまで共有していることが、ささくれをひっかかれるような痛みを引き起こす。その反面、二人が親しくなったことを嬉しくも思う。私は、砂時計の砂がさらさらと落ちるように、そのときに向かっている圭介さんと一人で向き合うのが怖い。だからこそ、その時間をすずくんと共有できることが支えになっている。

 気持ちを切り替えたとき、ノックもなしにドアが勢いよく開く。かけ直したばかりのスパイラルパーマの髪を揺らしながら、師長が入ってくる。

「お二人、随分仲がよろしいようですね。半同棲中なんて噂が出てるのをご存じですか。ようやく戻ってこられたのですから、昔みたいに変な噂が立って、また追い出されたら困るでしょう、若先生?」

 師長は「若先生」という呼び方をことさらに強調し、放った言葉の効果を確認するかのように、ねっとりとした視線を注ぐ。

「何か御用ですか?」
 院長が感情を乗せない口調で尋ねる。

「ええ。院長の診察の日は、FTM(Female to Male  女性から男性性を希望)の患者さんもいらっしゃるでしょう。こういうことは、大変申し上げにくいのですが……。お子さんが、そういう人を怖がるので、目に触れないようにしてほしいと投書がありました。小さいお子さんが、背が高く、髪が短くて、男の服装をしているのに、声は女という方を怖がるのは無理もないでしょう? 診察室を移す、時間を限定するなど、何らかの方法をご検討いただけますか?」

 院長は師長のヒラメ目から視線をそらさず、毅然とした姿勢で尋ねる。
「わかりました。その投書を私に見せていただけますか?」
 
「それは……。いま、持っていませんので」

「では、私が総務課で確認させてもらいます。他に何かありますか?」

「あ、あの……。いえ……」

「では、診察の準備があるので、その件は後ほど」

 彼はバツが悪そうに出ていく師長の背中に、冷ややかな視線を投げる。ドアが閉まると、やりきれなさのにじむ溜息をつく。

「投書があったのは嘘だろうな」

「そんな気がします。師長は前にも、若い外来ナースに髪型が不適切だと注意するとき、投書を理由にしました。言われたナースが総務に問い合わせたら、そんな投書はきていないと判明したんです。師長は、自分の受け入れ難いものを排除したがるんです。若いナースの茶髪ベリーショートが問題なら、自分のボリューミーなスパイラルパーマはどうなんでしょう。処置中に落ちてきたのを見たことがあるし、清潔感に欠けます」

 師長をやりこめても、こきおろしても、彼女がナイフを振り回すように浴びせた言葉が残していった痛みは消えない。電子カルテをチェックする彼の背中が、傷ついた戦士のように見える。

 彼は事前問診のファイルを渡すとき、小声で尋ねる。
「昼飯一緒に食わない? 院長室に用意しとくから」

「わかりました。伺います」


 午前の診察を終え、私たちは院長室に用意された仕出し弁当のふたを取る。
「幕内ですね。美味しそう!」
 食物繊維と炭水化物、肉と魚がバランス良く詰まった弁当を見ると、午前の疲れが吹き飛ぶ。

「食欲戻ったんだ」

「はい。彼が来て、私がへばってるわけにはいかないと思ったら食べられるようになりました」
 私は俵型のご飯を箸でつまみ、ぱくりと頬張る。高級なお米の程よい甘みが口の中でほどける。

「そうか。安心したよ」

 彼は煮物からご飯の順に、バランスを意識して箸を進めていき、私は食欲のままに箸を動かす。

 食べ終えた彼は、箸を置いてふたを閉め、強張った口調で切り出す。
「これから、鈴木さんの部屋に行くのは止めたほうがいいかな?」

 言い出すだろうと予想していたが、実際に口に出されると、思った以上に衝撃が大きい。
「どうしてですか?」

「圭介さんが来たし、師長に言われたこともあるだろ。鈴木さんに、迷惑かけるわけにはいかない」

 彼は圭介さんへの思慕には触れず、私もそのことを口にしない。

「院長が気になるのであれば、そうすればいいと思います。ですが、私がそんなことを気にしていないことだけは、申し上げておきます。圭介さんも、院長をベタ褒めしていたし、今まで通り来てくれれば喜ぶと思います。
 他人にどう見られようと、私たちが心地良い関係なら、いいじゃないですか。何も悪いことをしていないのですから」

 彼は一瞬、気の抜けたような表情を見せ、かすかに目を潤ませる。眼鏡をはずし、顔をひとこすりすると、透明感のある声で言う。
「ありがとう。そういってもらえて安心した」
 彼は鼻の上にしわを作り、はにかむように笑う。久々に、中学時代に戻ったような笑みが見られた。

「師長が言ったFTMの患者さんって、今日来たAさんですよね?」
 ボーイッシュな服装とショートヘアが似合い、長身を生かして大学のバスケットボール部で活躍しているAさんの笑顔が浮かぶ。ホルモン治療の副作用に振り回されながらも、自分の身体が変化していくことに希望を感じると話してくれた。

 彼はペットボトルのお茶を口に運びながら頷く。
「師長の目に、そう映っていると思うと悲しくなるよ。Aさんは、子供の頃から男性でありたいと思っていて、女性になっていく自分の身体に違和感を覚え続けた。悩み抜いた末、大学二年のとき、意を決して精神科の門を叩いた。二名の精神科医から性同一性障害と認められて、一年間の精神療法を経て、ようやく泌尿器科でのホルモン治療までたどりついたんだ。今まで、散々悩んで、傷ついてきたのに、医療従事者にまで冷たい視線を向けられるのは耐え難いだろう……。
 俺もLGBTQの一人だから、Aさんが否定的な目で見られると、自分のトラウマも刺激される。結構、堪えるんだよな……」

「もし、本当に子供さんがAさんを怖いと言ったとしても、周囲にそういう人がいると知る機会になったと思います。最近は、小学生の頃からLGBTQについて教わるし、上の世代より子供のほうが柔軟に受け入れられる気がします。
 LGBTQの方々の試練は終わらないと思いますが、本人が周囲の人と心地良さや幸せを感じられる関係を築ければいいなと思います」

 彼は大きく頷き、鼓舞するような声で促す。
「そろそろ、行くか! 午後もFTMの患者さんが来るぞ」

         
                ★
 土曜の昼下がり、すずくんは引っ越し祝いの果物かごを持って訪ねてきた。立派な果物たちの中で、一際目を引くのは大きな林檎だ。黄色い皮にほとばしるように広がる赤い色素に、激しい生命力を感じる。手に取ると、ずっしりとした重みとひんやりとした感覚が心地良い。今すぐ圭介さんに食べさせたくなり、思わず彼の頬に林檎を押しあててしまう。不可解な顔をする彼の視線を背に、水道水を勢いよく出して林檎を洗う。皮が小気味よく水を弾く。

 二人は、林檎をさくさくと咀嚼しながら、ゲイカップルが、家族の理解を得て結婚式を挙げるまでのドキュメンタリーに見入っている。世間体を気にする家族に、なかなか理解してもらえない二人の苦悩と葛藤が胸に刺さる。

 番組のエンドクレジットが流れ始めると、すずくんが口を開く。
「ご存じかもしれませんが、俺もゲイです。どれだけ、LGBTQの情報が普及しても、自分の子供がそうだと知ったときの親の葛藤は変わりませんね。私は十年ほど前に、ちょっとしたことがきっかけで親にばれたのですが、今のドキュメンタリーと似たり寄ったりの反応でした。兄のように、病院にとって条件の良い女性と結婚してほしい親の気持ちも理解できただけに、期待通りになれない罪悪感は残りました」

「親は、一般論としては受け入れられても、自分の子供のこととなると動揺してしまうのだろうね。でも、これだけ情報が普及したことで、受け入れられやすくなったり、他人の考えを知れたり、同じ悩みの人とつながれるようになったのは良い傾向だね」

 圭介さんが林檎を食べていた爪楊枝を置いて言う。
「普通にこだわる親は多いですよ。私が関わった神経発達症の子供を持つ親の中にも、子供を何とか普通の道に乗せようとする人たちがいました。子供が義務教育の普通学級に在籍して、高校、大学を卒業して、会社に就職して収入を得てほしいと躍起になっているんです。親が力を尽くしても、子供は思うように成長しないこともあります。思ったようにいかない現実を前に、親は鬱に、子供は不登校になってしまう家庭もありました」

「LGBTQも神経発達症もそうだけど、親も本人も、普通にこだわってしまうのは無理ないと思う。考えを転換するのは相当な勇気が必要。それには、時間や経験、きっかけが必要なのだろうね」

 圭介さんがやわらかい眼差しで続ける。 
「私は、親御さんには勇気が必要なことだけれど、親の希望と違っても、子供さんが幸せや充実を感じられる道を優先するように、発想を転換しましょうとアドバイスしています。子供さんが普通学級で居心地が良いなら、それでいいのです。特別支援学級のほうが良いならそれでいいし、その後に通信制高校や通信制大学を選んでもいい。正社員にこだわらなくても、派遣や契約でも、短時間のアルバイトでも、在宅の仕事でも、起業を選んでも、本人が充実感と成長を感じられればいいと思うんです。親が、子供の選択を肯定してくれれば、子供は自信が持てます。
 働けない時は、家族に養ってもらっても、福祉に頼ってもいいんです。私は、そんなときに頼れるNPOを作るためにクラウドファンディングで資金を集めています。幸い、目標額を遥かに超えた資金が集まっています」

「無理に親の敷いたレールを進んだ子供が、心身を壊したり、何十年も親を恨むようになってしまうのは、双方にとって悲劇だよね。
 私は神経発達症ではないけれど、親の期待に応えれなかったことに罪悪感を抱いて、関係を難しくしてしまったと思う。最近ようやく、確かに私の両親は優秀だけど、頭脳と体力に恵まれた人たちで、私はそうではなかったと割り切れるようになった。ずっと、親と同じ学歴や職が得られなかったのは私の努力不足だと思ってきたけど、私なりに力を尽くしたし、これからは自分の充実を大切にしようと思えるようになった」

 圭介さんが私の肩を抱き寄せる。
「澪も、長い時間と経験を経て、そこにたどり着いたのか」

「40を過ぎてから、ようやくね」

 すずくんの目に嫉妬の色が走ったように見えたが、すぐに穏和な表情がそれに替わる。
「話は変わりますが、俺のようなゲイだと、築く人間関係が、周囲から見ると、異常だと思われてしまうことがあります。圭介さんの前では言いにくいのですが、俺はすーちゃんと親友で、部屋に入り浸って話し込み、泊めてもらうこともありました。
 でも、世間から見れば、恋人ではない男がそうするのは異常ですよね。先日、看護師長に、俺たちが半同棲していると変な噂が出ていると言われたんです。圭介さんも来たし、これからは自粛します」

 私より先に、圭介さんが口を開く。
「先生、遠慮しないで下さい。先生が来てくれるのは、私も澪も嬉しいです。周囲がどう見ようと、私たち三人がそれでいいなら、いいじゃないですか。私が来たせいで、先生と澪の関係が切れてしまったら、私がいなくなった後、澪はどうなるんですか」

「人と人が寄り添うかたちは、夫婦、恋人、友人、家族とか、既存の言葉に当てはめるのが正しいとは限らないよね」

「こだわってたのは、俺のほうでしたね」
 すずくんは恥ずかしそうに肩を竦める。

「すずくん、夕飯食べていくでしょう?」

「ごちそうになります」

 オープンキッチンに立ち、談笑する二人の会話を聞きながら、カレイの煮つけを作る。圭介さんを見るすずくんの瞳は光を放ち、声に張りがあり、見たことがないほど生き生きしている。圭介さんも、膝を乗り出して、すずくんの話に聞き入っている。二人が仲を深めるのを嬉しく思いながらも、すずくんが私に嫉妬を感じ、今までの関係が壊れてしまわないかと不安が過る。圭介さんは、すずくんの気持ちに気付いているのかと考えたが、それ以上考えても仕方がない気がし、包丁を動かす手元に集中する。

           
               ★
「澪、これは何だい?」
 圭介さんは、リビングのテーブルに置かれたクッキー缶のフタを取り、首を傾げる。

「精油。このアロマディフューザーに取り付けると、いい匂いが拡散するの」

 私が檜の精油瓶をディフューザーに取付け、スイッチを入れると、ほんのりした香りが立ち上がる。

「これは、木の匂い?」

ひのき。あの夜も、これを焚いたの覚えてる? 苦手じゃない?」

「ああ。これなら、匂いが強くないし大丈夫だ」

「よかった。今日は猫の月命日だから、お線香代わりに焚こうと思ったの」

「ネロリだっけ? 澪の部屋に黒猫の写真と遺骨があるな。この匂いが好きだったのか?」

「ううん、猫にアロマは良くないから。ネロリはあの檜林で倒れて、檜の香りに送られて旅立ったの……」

「そうか……」

 彼はふと思いついたように、私を凝視する。
「これから、あの檜林に行かないか?」

「え、体調は大丈夫?」

「ああ。手術したら、どうなるかわからないから、今のうちに行きたい。しばらく、木の傍にいっていなかったから恋しくなったよ」

 檜林は初冬の風にさわさわと揺れ、木の間からうすい木漏れ日が注ぐ。ネロリが倒れていた場所で手を合わせてから、広くはない林の中を二人で歩く。どこかの家の防風林だったのだろうかと圭介さんが首を傾げる。

 彼は不意に立ち止まり、私を檜の幹に押しつけ、唇を重ねる。二人の頬に葉影が揺れ、木の香りが鼻腔をくすぐる。どれほど抱きしめあっても足りず、激しい抱擁が続く。いい歳の男女が昼間から何をしているのかと思うが、ただこの瞬間が愛おしい。

「心が落ち着く匂いだな……」
 彼は私を胸に抱いたまま深呼吸し、檜の香りを吸い込む。
「この匂いに包まれて旅立つのもいいな」

「縁起でもないこと言わないでよっ!」

 彼の腕から逃れ、肩を怒らせて車に戻る私を彼が背後から抱きしめる。
「いま、私はここにいるだろう……」

「うん……。風邪をひくと良くないから、もう帰ろう」
 車のエンジンをかけながら、檜の精油もネロリの写真も彼の目に入らないところにしまうと決めた。

「昨夜、すずくんと長電話してたね。何をそんなに話すことがあるの?」

「ああ、薬の副作用のことを言い忘れたから」

「そう。夕飯の買い物して帰ろうか」

 すずくんは仕事帰りに訪ねてきて、夕食を食べていくことが増えた。手術を控え、二人きりになると神経質になってしまう私たちには、彼を交えて談笑しながら時間が過ぎていくのはありがたい。

            
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 手術日には、火星さんが来てくれた。彼は、圭介さんからすべて聞いているらしく、私がここにいて当たり前の人間のように接してくれる。

 時間になると、第一助手に入る院長自ら、病室まで迎えに来てくれる。四人で手術室の入り口まで歩く。圭介さんは、火星さんと視線を合わせ、握手を交わす。固い面持ちの私を優しくハグし、行ってくるよと口角を上げる。

 並んで自動ドアの向こうに消える圭介さんとすずくんの背中は、既視感がある気もするし、そうではない気もする。自分の服に残る檜の香りがほんのりと漂う。

 二人の姿が見えなくなると、火星さんが忙しない口調で尋ねる。
「手術は5時間くらいかかるそうですね。圭介の病室で待ちますか、一階のカフェテリアに行きますか?」

「どうぞ、カフェテリアでお待ちください。病院を出ると、近くにファミレスと喫茶店もあります。私は、一階で同僚と顔を合わせるのが気まずいので病室にいます」

「ああ、そうですか。では、圭介の病室で少し話しませんか?」

「ええ」

 火星さんが買ってくれたミネラルウォーターのペットボトルを持ち、病室に向かう。すずくんの配慮で確保してもらった個室で、遠くに筑波山が見える。昨日入院した圭介さんは、そのことを喜んでいた。

 窓際に置かれた小さな応接セットの椅子に、火星さんと向かい合わせに座る。
「あの、圭介さんにはお兄さんとお姉さんがいますよね。お兄さんは京都の私大で教授、お姉さんは国立環境研究所の研究員だと伺いました。お二人とは縁が切れていると言っていましたが、本当でしょうか? 会わなくて、後悔しないでしょうか?」

 火星さんは、ペットボトルの水をぐびっと飲み、口元から垂れた水を手の甲で拭う。
「残念ながら、本当です。二度と会わないほうが、互いにとって幸せでしょう。あの兄弟の仲があそこまで悪化したのは、もとはと言えば、圭介の親父さんのせいです」

「お父様? ご両親は亡くなったと伺いました」

「ええ。あなたは圭介の奥さんみたいなものですから、話してもいいでしょう。親父さんは、圭介が自分は神経発達症だとテレビで言ったとき、みっともないことを言うなと説教したんです。圭介もかっとなって、それは事実だし、あなた方から遺伝したのだから受け入れるべきだと反論し、大げんかになったようです。以来、二人は冷戦状態でした。顔を合わせるのは、法事のときぐらいでした」

「そのお話は、圭介さんから少し聞いた覚えがあります。亡くなるまで、関係修復できなかったのでしょうか?」

 火星さんは、口角に泡を飛ばして続ける。
「できないどころか、3年ほど前、親父さんの死に際に、決裂が決定的になったんです。親父さんは癌で亡くなったのですが、緩和ケアに入って、モルヒネで朦朧としているときに圭介を呼んで言いました。自分の遺産は、未亡人になるお母さんに全額譲りたいから、おまえは相続放棄の書類を書けと。兄と姉にも同じことを頼んで了承してもらったので、あとはお前だけだと言われたそうです。圭介は釈然としないものを感じても、その通りにしたそうです。ですが、親父さんが危篤になり、兄弟で病室に集まったとき、兄と姉は相続放棄の書類を書いていないどころか、頼まれてもいないと判明しました。兄と姉は、お父さんが腹を立てたのは、おまえがメディアで神経発達症だと言って有名になって、家族に嫌な思いをさせたからだと圭介を糾弾したんです。そのことで、言い争いになり、圭介と兄姉は絶縁状態です」

「圭介さんは、お父さんがそこまでして自分に財産を相続させたくなかったと知って、本当に辛かったでしょうね」

「まったくです。圭介の親父さんは、研究者になった上の二人と違い、なかなか職が安定しなかった圭介を理解できなかったのでしょう。同じ血を引いているのに、研究者になれないのは圭介の怠慢と人格の問題だと言ったようです。親と子供は違う人間だと理解すべきだと思いますけどね」

「だから圭介さんは、神経発達症を持つ子供の親に、親が望む道ではなくても、子供が幸せや充実を感じられる道を選べるようにし、それを肯定してほしいと助言しているのでしょうね。彼自身に、兄姉のようになれない自分を親に肯定してもらえなかった悲しみがあるので、親の愛情であっても理想を押しつけられる子供の苦しみがわかるのですね」

「全くその通りです。圭介は、理解してくれるあなたが傍にいてくれて、幸せだと思いますよ。あいつ、言ってましたよ。愛する澪さんと、信頼する鈴木先生がいて、いまが一番幸せだと……」

 火星さんは、窓の外に視線を移した後、ぼそりと言う。
「圭介は、自分が最後に苦しむのも、その姿を愛する人に見せるのも嫌だと言っています。最後の瞬間を自分でコントロールするのが、彼の最後のわがままなのでしょう」

「DNAR(患者や代理人の意思により心肺蘇生を行わないこと)のことですか?」

 火星さんは、それには答えず、冬眠から覚めた熊のように大きく伸びをして立ち上がり、カフェテリアで仕事をしてくると出ていった。



扉絵は、さくらゆきさんが描いて下さいました。心より御礼申し上げます。