見出し画像

澪標(みおつくし)   プロローグ

 スクリーン越しに、同期の彩子さいことおるさんの笑顔がはじける。彩子は白無垢から純白のウエディングドレス、透さんは紋付羽織袴からタキシードにお色直しして画面に現れた。長身の2人には、和装も洋装も映える。

 透さんの右腕と左腕には、白豆柴犬の胡桃くるみと、茶白猫の柚子ゆずが、安心しきった眼差しでそれぞれ収まっている。彩子が2匹の頭を撫でながら、注意を画面に向けようとする。子供を持たないと決めた2人が、保護団体から迎えたペットに深い愛情を注いでいることは、2匹の表情からうかがえる。

 2人と2匹の醸し出す桜色の空気は、画面越しでも十分すぎるほどに伝わってくる。情報処理技術者の資格を持つ彩子は、透さんとの生活を支えるために、10年勤めた会社を辞め、在宅勤務ができ、給料のいい医療系のベンチャー企業に転職した。オンライン診療システムを構築する会社で、折からのニーズを反映し、業績はうなぎ上りだという。そんな充実感も、幸せに拍車をかけている。私は、あなたと離れるために転職を決意したが、不況で断念した。いまは、彩子のいた北関東事業所に異動し、彼女の仕事を引き継いでいる。

 彩子と透さんは出会いの場所であるカフェ《フェルセン》で、式を挙げることを望んでいた。その夢は叶ったが、その場にゲストを招くことは叶わなかった。

 2人の背後に映る大きな窓から、絵具で塗ったような夏空がかすかにのぞく。エアコンの効いた店を一歩出れば、瞬時に息苦しいほどの熱気に包まれ、全身から汗が噴き出すことは容易に想像できる。

 日本人なら誰もが知る猛暑日だ。だが、こんな式を目にすると、3密を避け、飲食するとき以外はマスクをつけ、店や施設に入るときに検温と手指のアルコール消毒を求められる2度目の夏だと意識させられる。

 高度に発達した陸海空の交通網は、未知のウイルスを瞬く間に世界中に拡散させた。私達の生活様式は一変した。短期間でウイルスを一掃することは困難だとわかると、「ウィズコロナ」が唱えられ、ウイルスと共存する日々が続いている。

 2人は、感染を心配せずに式を挙げられる日を待ち続けたが、断念してリモート結婚式にすると決めた。何でも楽しむ気質の彩子は、「リモートの結婚式なんて、そう経験できることじゃないよ」と、嬉々として準備を進めた。

 リモート結婚式では、2人の結婚を許さない彩子の両親が参列していないことも、透さんに両親がいないことも目立たない。

 マスク生活が手抜きメイクを覆い隠すように、ウィズコロナは、問題を隠すのを容易にする。パンデミックを乗り越えるために、世界中で、元から存在した問題が覆い隠されたり、先送りされたりしている。他方で、新たな生活は、以前から存在した問題に光を当て、向き合うことを余儀なくさせることもある。

 
 画面の端に並ぶアイコンから、会社の同僚の竹内たけうちくんも参列しているとわかる。彩子と竹内くんと私は、入社以来、苦楽をともにしてきた同期だ。

 コロナ禍で新たな出会いが難しくなった竹内くんは、巣ごもり生活で、別れを考えていた同棲中の恋人の魅力を新たに発見し、婚約にいたった。

 コロナ禍で元彼に振られた彩子は、人との接触を避けることをこれほどまでに求められなければ、透さん以外の可能性を考えたかもしれない。それでも、新しい出会いが難しかったからこそ、透さんとの出会いを大切にして、真摯に向き合え、彼の魅力がわかったのだろう。

 竹内くんと彩子に幸福を運んできたコロナ禍は、あなたの目を覚ました。私と荒海に航海に乗り出したあなたは、正しい航路に帰っていった。

 悲しくないわけではない。苦しくないわけではない。傷ついていないわけではない。

 それでも私は、あなたを正しい航路に戻せたことを誇りに思っている。

 進んできた航路を外れたあなたは、私の好きなあなたではなくなってしまうことに気づいていたから……。


 画面の向こうで、透さんが、彩子にプロポーズしたときに奏でたピアノ曲を生演奏している。

 きらきらした高音が、波のしぶきのように寄せてきて、私の胸を息ができないほどに締め付けていく。

 引き出しの奥に封印した「サムライ アクアクルーズ オードトワレ」の小瓶を手に取る。そっと蓋を取ると、清らかさの中に甘さを含み、陽光を浴びた海を彷彿させる香りが立ちあがる。引っ越す前の私の部屋は、あなたと同じこの香りに満ちていた。

 私は、もともとグリーン系の香りが好きだ。ロクシタンのエルバヴェールを愛用し、オードパルファム、シャワージェル、ボディミルク、ハンドクリームまで、この香りで揃えていた。

 そんな私は、あなたに私の香りを移さないように、あなたと同じ香りをまとうようになった。その香りとは相性が良く、それなしでは落ち着かないほど私の一部になっていた。

 あなたがいなくなってから引っ越した私の部屋には、本来の香りが戻ってきた。

 それでも、あなた色に染まった時間は、ふとした瞬間に立ち上がり、荒波のように私をさらっていく。