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ピアノを拭く人 第4章 (1)

 遮光カーテンの隙間から、金色のヴェールが差していた。彩子は、エアコンを点けずにベッドから身を起こし、昨夜の名残のある部屋を見回した。昨夜、同期会を終えた後、鈴木とZoomで話した。彼女に、透との関係を反対されると思った。だが、この年齢になって条件を考えずに好きになれる相手は貴重で、頼りにされることに生きがいを感じる彩子に合っているのではと背中を押された。

 しんと冷えた空気と、2021年を迎えた清々しさが、次第に心身を覚醒させていく。彩子はカーテンを勢いよく開けて新年の朝陽を迎え入れ、身づくろいをし、夜の名残を一掃した。

 実家からお裾分けされた餅を入れて雑煮でも作ろうと、昆布と鰹節で出汁を取っていると、母からメールが入った。真一に彩子の連絡先を伝えたという。気が変わる余地さえ与えない母の行動に、文句を通り越して、苦笑いがもれる。

 彩子は透に、フェルセンに年始の挨拶に行きたいが、迷惑にならない時間はいつかとLineを送信した。羽生に「新成人に生演奏1曲プレゼント」クーポン付きのチラシ案を見せる約束だった。

「悪いが、来られるなら、できるだけ早く来てほしい」
 5分も経たないうちに届いた返信に、彩子は首を傾げた。まだ、開店時間にもなっていない。どうしたのかと尋ねても返信がないのは、ただ事ではない気がする。

 

 フェルセンの扉を開けると、開店前にも関わらず、洋楽のCDが流れていた。カウンターの後ろで、マスクとエプロンを掛け、三角巾をかぶった透が、目を吊り上げて作業をしている。
「あけましておめでとう。どうしたの? 羽生さんは?」
「常連さんが注文したおせちを届けに行った。午前中に、取りに来るお客さんがいるから、和風をあと10個作らなくちゃならない。彩子がこれを考えたから、こんな目に遭ってるんだぞ」
 透が料理に飛沫を飛ばさないように、できるかぎり首を横に向けてぼやいた。よく見ると、大きな手には、ビニール手袋が、幾重にも重ねてはめられ、輪ゴムで留められている。不織布のマスクは、3枚ほど重ねているのだろうか。これでは、息苦しくてたまらないだろう。
 加害恐怖の透は、お客様に提供する食材を汚すのを恐れているのだろう。彩子は、次はこれをどうにかしなければと思った。

「手伝うよ」
 彩子は素早くコートを脱ぎ、手を入念に洗った。
「エプロンと三角巾はバックルームの右側の棚の下から2番目の引き出し!」
 彩子は初めて入るバックルームで、紺色のエプロンと三角巾を見つけて身に付けた。
「何すればいい?」
「詰め終わったのが2つそこにあるから、ふたをして、バンドをかけて、紙袋に入れて」 
 彩子は、言われた通りに手早く袋詰めした。
「そろそろ10時だから、お店開けていい?」
 透は集中してしまうと、周囲が見えなくなるのか返事がない。前かがみになり、サンプルの写真と食材を何度も見比べながら、菜箸で食材を詰めている。手袋を重ねてはめているので、手先の感覚が鈍っているのか、箸を動かす手つきがぎこちない。


 彩子は入口のプレートを『OPEN』に変えた。
「透さん、もう10時だよ。私、そういう作業、得意だから、代わろうか?」
 彩子は伸びあがり、透の耳元で叫んだ。
「いい!」
「じゃあ、まず、かまぼこだけ入れてくれるかな? 私が数の子を入れていくから。食材ごとに詰めていったほうが早いよ」
 透が渋々言われた通りにすると、数分で「お一人様おせち」が10個完成した。
「袋詰めは私がするから、取りに来るお客様に、焙じ茶でもお出しできるように準備しておいてくれる?」


 おせちと焙じ茶の準備ができると、透と彩子はカウンター席にへたりこんだ。
「すまない。助かったよ。ありがとうな。俺は神経発達症のせいで、手先が不器用で、視空間認知が弱いから、ああいう作業が苦手だ」
「ううん。私が考えたのに、今まで手伝わなくてごめんね。それより、その手袋とマスク、やりすぎじゃない? 無駄遣いになるし、お客様を驚かせちゃうよ」
「飛沫が飛んだり、手についた菌が入ると思うと、気になって仕方ないんだ。今は、コロナのせいで、皆が必要以上に神経質になっている。飲食店として当然じゃないか」
 そう言われると、口を噤むしかない。彩子は、気が立っている透を落ち着かせなければと話題を変えた。


「この歌手、透さんと声が似てるね。絹のようにやわらかくて、伸びやかで、一瞬で場を支配してしまう魅力的な声。高音がすごく綺麗。私、レ・ミゼラブルでジャン・バルジャンが歌う曲のなかで、このBring Him Home(彼を帰して)が一番好き」
「バカ言うな。これは、レ・ミゼの初代ジャン・バルジャンを演じたレジェンド、コルム・ウィルキンソンだぞ。大好きで、憧れて、何度聴いたかわからない。Bring Him Homeは、演出家と作詞家、作曲家が彼の声を生かしたくて、作った曲だ」
「そうだったの。知らなかった。透さん、この方の影響を受けたから、似てきたのかもね。でも、透さんの声は、また違う哀愁と力強さがあるよ。もう一度、聴いていい?」
 彩子はリモコンを見つけ、同じ曲を再生した。


「あけましておめでとう。今日は羽生さんはお留守かしら?」
 扉が開き、常連の藤岡が入ってくると、透は慌ててエプロンと三角巾を外して立ち上がった。
「藤岡さん、あけましておめでとうございます。昨年は御贔屓を賜り、厚く御礼申し上げます。今年も宜しくお願いいたします。羽生は配達に出ております」
「こちらこそ、今年も宜しくね。注文したおせちをいただきに来たの」
「ご用意できています。少々、お待ちください」
 透は厨房に戻り、一番外側の手袋を忙しなく外し始めた。


「よろしければ、お掛けになってお待ちください」
 彩子は藤岡をテーブルに案内し、焙じ茶を出した。
 透は手袋をしたまま、おせちを入れた袋を持ち、背筋を伸ばして藤岡のテーブルに近づくと、彼女と目の高さを合わせるため、傍らにしゃがんだ。彩子はモデルのように優雅な所作に魅せられ、目が離せなかった。
「お待たせしました。気を付けてお持ちください」
「ありがとう。私は1人だから、このくらいが丁度いいのよ。ねえ、この歌手の歌い方、ちょっとあなたに似てるわね。とても優しくて、深みがあって、表情豊かだわ」
 彩子は胸の中で「ほらね」とつぶやいた。
「もったいないお言葉です。僕など、彼に遠く及びません」
「ねえ、あなた、この曲歌ってくれない?」
「申し訳ございません。この時期なので、歌は自粛させていただいております……」
「1曲くらい、いいじゃない。他にお客様はいないし、私は離れたところに座るから」
 透は困ったように、顎に手を当てた。彩子は、透に目配せし、歌うように促した。
「かしこまりました。英語で歌うと、あまりの違いが目立って恥ずかしいので、日本語訳されたものを歌います」
 透は手袋を取り、マスクを1枚だけにして、ピアノの前に座った。彩子はすぐにCDを止めた。

 

 透のやわらかい絹のようなテノールで歌われる祈りは、聴く人を高みに引き上げる神々しさを帯び、伸びやかに響き渡る。1つ1つの歌詞が、台詞のように自然に胸に染みわたり、彩子はこみ上げてくるものを堪えた。
 透の黒いドレスシャツとスラックスは燕尾服に、窓から差す冬の陽はスポットライトのように映る。

 彩子は、透が創り出す世界を目の当たりにし、これが彼本来の姿なのだと思った。それを愛おしく思う一方で、彼が手の届かない場所に行ってしまう怖さに胸を締め付けられた。


「素晴らしかったわ。新年から素敵な歌を聴かせてもらって、よい年になりそうよ」
 藤岡は、夢見心地の表情で、透を労った。
「ありがとうね。羽生さんに、よろしくね」
 透は藤岡をエスコートするように寄り添い、扉の外まで送った。透の不自然な丁寧さが影を潜めると、恵まれた容姿が輝きだし、全身から放たれるオーラが目に見えるようだった。


 彩子は、藤岡と入れ違いに、ダウンジャケット姿で戻ってきた羽生と新年の挨拶を交わした。
「透さん、おせちを詰めるの大変そうでしたよ。手袋とマスクを重ねて……」
 彩子は小声で羽生に伝えた。
「あの徹底ぶりには、私も驚いたよ。どうにかしないとだね。まあ、強迫性障害も以前よりずっと良くなったから、少しずつ調理も覚えてもらおうと思うんだ。ゆくゆくは、彼の店になるからね」
 彩子は、透がパンクしてしまわないか心配だった。だが、忙しくしていることで、強迫行為をする暇がなくなれば、回復にプラスに作用すると思った。

「これ、『新成人に生演奏1曲プレゼント』クーポン付きのチラシ案です。ご検討ください」
 彩子はファイルに入れて持ってきた案を羽生に差し出した。
「うん、全体のデザインはわかりやすくていいね。新成人だけが対象だと、来てくれるお客様が限られそうだね。もう1種類、ドリンク1杯サービスのクーポンを付けようか。持ってくれば誰でも対象になるクーポン」
「かしこまりました。対象のドリンクは前と同じように、珈琲、紅茶、ハーブティーで、それぞれアイス、ホットの選択可でいいですか?」
「それでいこう」
「では、今日中に修正して、メールの添付で送りますね」
「いつもありがとう。本当に助かるよ」
「とんでもございません。お1人様おせちを提案しておいて、お手伝いできずに申し訳ございませんでした。宅配までしていらっしゃるとは知りませんでした」
「いいんだよ。あれ、帰省できない学生さんだけじゃなくて、お年寄りにも人気があったよ。ありがとう」


 帰り支度を始めた彩子に、透が耳打ちした。
「明日、1時にここに来られるか?」
「2日はお休みでしょ?」
「彩子に会わせたい人が来るから、ここを借りたんだ」
「大丈夫だけど、どなた?」
 彩子がいくら尋ねても、透は取り合わず、優雅な足取りでピアノに戻っていった。