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あたたかく、優しい光──レオン・フライシャー、シュトゥットガルト室内管弦楽団 ほか『モーツァルト:ピアノ協奏曲 第7番、第12番、第23番』【名盤への招待状】第15回

 ピアニストで指揮者のレオン・フライシャーの最後の来日公演を聴いたのは、大学三年の晩秋のことだった。二〇一五年一一月二〇日、すみだトリフォニーホール大ホールでの新日本フィルとの共演である。そのときは、すでに高齢であったとはいえ、これが彼の生演奏を聴く最初で最後になってしまうとは、思っていなかったのだけれど……。
 苦しんでいた時期だったことも、その、苦悩や傷も含めて生のすべてが人間的な優しさやいたわりをもたらしているような演奏と姿の記憶を、特別なものにしている。それは演奏を聴いて悩みがすっかり解消されたということではない。もしかしたらこの苦しみはなくならないのかもしれないけれど、やがてそれが他者そして自分自身にたいする優しさに繋がるのなら、苦しみを引き受け続けられるかもしれないと、音楽に満たされた胸で思ったのだった。
 もちろんこれは、あれから八年半の時を経て振り返って書いていることで、その時その瞬間に感じていたことの精確な言語化ではないかもしれないが、ともかく、彼の最後の来日公演は、私の音楽観や人生観の基礎を決定づけたもののひとつだった。
 その演奏会だけではない。フライシャーの遺した録音や言葉からも、純音楽的な感銘を受けるよりも深く、実に多くのことを教わってきた。そして、不思議なことに、フライシャーの表現に触れる、触れ直すタイミングはいつも、私にとってまさしく彼の音楽が必要だったと思われる時期であるような気がする。まるで、こちらの心中を察して彼がそっと差し出してくれたかのように。
 彼が二〇〇八年に録音したモーツァルトのピアノ協奏曲の弾き振り(オーケストラはシュトゥットガルト室内管弦楽団)を久しぶりに聴き返して、そんなことを考えていた。

 最初に収められたピアノ協奏曲第一二番第一楽章のオーケストラによる序奏から、軽やかだが落ち着いた運び、フレーズのもつかたちを大切にしたごく自然な歌い口と、古典の構成美を尊重した端正な音楽づくりがなされるが、演奏は同時に、静けさとともに水平に広がるような質感を湛えている。艶を抑えた弦楽器群と柔らかい管楽器群との繊細な調和、フレーズの閉じ方など細かな箇所に聴かれる慈しむような表情、演奏のひとつひとつの要素すべてに優しさが感じられる。
 フライシャーがピアノを弾き始めると音楽はさらに静謐な光に満たされてゆく。明るく透明で、硬質な芯がありながらも柔和な広がりをもつフライシャーのピアノの音は、光を放つというより、モーツァルトが書いた音に柔らかい光をまとわせるよう。演奏はつねに時間の緩やかな流れを感じさせ停滞しないのだが、音楽が「処理」されることは瞬時としてなく、休符や音と音の間に至るまでがすくい取られる。才能の赴くままに音と戯れたモーツァルトの、明るいけれどどこか寂しげな心の機微を、フライシャーが慈愛の目で眼差していることが伝わってくる。
 その静謐な光は、このアルバム全体に浸透している。妻のキャサリン・ジェイコブソン・フライシャーとの二台ピアノで演奏されるピアノ協奏曲第七番「ロドロン」では、明朗なオーケストラの響きのなかで、どちらがレオンでどちらがキャサリンなのか、正直に言って判別が難しいほどに両者の光が溶け合っている。第二楽章のカデンツァで交わされるふたつの光の対話は、特に印象深く美しい。
 作品としても一層の深まりを見せる最後のピアノ協奏曲第二三番では、演奏にもより深い情感が宿る。やはりアレグロとしては控えめのテンポ感を採り、その分、モーツァルトらしい光と陰の瞬間ごとの交替がよりていねいに描かれる。第一楽章の副次主題がピアノで登場する際、フライシャーはその一小節目の後半から二小節目に移る瞬間にかけて、微かに速度を落として間を取る。そこにとりわけこもった、さりげない濃やかな愛情が、作品全体を包み込んでいる。
 第二楽章の悲哀も、暗さを強調せず、フライシャーの音の静かな光が、モーツァルトの闇をそっと照らす。指揮においてもピアノにおいても、音楽に満ちるあまりの悲しみのためについ強い表情で弾きたくなるような部分で、彼は決してそのような誘いに惑わされない。むしろ抑えたような声でその強い感情を大切に大切に歌うさまに、フライシャーの人間ヽヽが表れている。終結部の弱音で奏でられるピアノの単音の透き徹った悲しみが、胸に沁み入る。
 第三楽章に溢れる静かな喜びは、直前の悲しみと対照されるのではなく、それを引き受けた上で生そのものを肯定することから生まれるものだろう。決して眩しくはない、イ長調のあたたかい光。さまざまなエピソードをはさみながらロンドの主題が繰り返されるたびに何かが込み上げて、何度目かに涙がこぼれた。なんてことのない素直なイ長調の主題を聴くだけで、なぜ胸が一杯になるのだろう。
 理由は、わからなくてもいい。思索の果てに突き当たる袋小路が苦しくなったとき、理屈を超えてほんとうに大切なことを思いださせてくれるのは、やはり音楽だ。いま、たとえ正面から希望を語ることが難しいとしても、この世界には、人の手が生み出したこんなにもあたたかく優しいものがある。それは、ある人にとっては、この世界を生き続けるためのじゅうぶんな支えになり得ると、私は思う。
 こういう気持ちにさせてくれるフライシャーがもういないということを、改めて寂しく思った。





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