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「為すすべのなさ」を抱えて──クリストファー・ノーラン『オッペンハイマー』

 先月末にようやく日本公開された、クリストファー・ノーランの新作映画『オッペンハイマー』を観て、しばらく茫然としていた。あまりの凄みに圧倒されて茫然としていながら、日常の音に劇中の音を想起するほど作品に頭が浸されてそれについて考えずにはいられず、しかしやはり思索はまとまらないという状態になってしまっていた。それでも考え続けているうちに、この茫然とするほかない感覚、言い換えれば「為すすべのなさ」のようなものこそが、そのままこの映画から私が受け取ったものだったのかもしれないと思い至った。
 私にとっては、かつてはときどき観るものだった映画を、日常的に観るものにしてくれたのがノーランの作品だった。時間を切り刻み解体し、ときに引き延ばして、それらを独自の法則で再統合することで創り上げられる、現実とは異なる時間の、建築物のごとき構成美。しかしその時間建築の内部は、善と悪、記憶と記録、虚構と現実、公と私、過去と未来といった、相反する二つのものの間でつねに揺れ動いている、ある種のアンバランス。鮮明でありながら陰のある映像で組み立てられたその時間は、基本的に速いスピードで流れ、かつ音楽に支えられた息の長さを持ち、膨大な情報量がそこに乗って高密度で押し寄せてくる。シャープな知性が、その時空間のなかで揺れを繰り返すうちにしだいに熱を帯び、思い詰めた知性とでも呼びたい容貌に変わってゆく。その映像芸術はいつも思考の新たな回路を開いてくれるような刺激に満ち、その作品を観るのが何度目であれ、観終わったあとはずっと、その物語自体とそれによって示されたものについて考え続けてしまう。
 だが、『オッペンハイマー』の凄みはこれまでにはないものだった。それは、これまでノーランが、どちらかと言うと概念的、形而上学的に追求してきたさまざまな「矛盾」を、自身の映画語法の限りを尽くして、オッペンハイマーという具体的な個人の内面に肉薄することで描いたからということに留まらないように思われる。彼の作品の背景には虚無があることが指摘されているが、その、これまではあくまでも作品の背景にあった自身の内なる虚無を、ノーランがいよいよ正面から見つめたことこそ、作品にただならぬ気魄をもたらしたのではないかと思うのだ。

(ここからは、映画の結末を含む展開や描写等に細かく触れています。)

『オッペンハイマー』で描かれる矛盾は、オッペンハイマーの、新たな世界の創造を夢見ていた物理学研究が、当時の社会状況やユダヤ系という自身の出自のためにより切迫していたナチスへの恐怖、軍部の接近、研究者としての抑え難い欲求などに翻弄され、原子爆弾という、世界を破壊する兵器へと結び付いてしまったことである。
 映画は、戦後、核開発に反対するようになったことなどからソ連のスパイ容疑をかけられたオッペンハイマーが尋問された一九五四年の聴聞会と、彼を公職から追放した開発推進派のストローズが商務長官にふさわしいかを判断された一九五九年の公聴会との二つの時間が並行して進み、さらにそれぞれの時間において、その時点までにあったそれぞれの出来事が回想的に描かれるという、四層構造によって成り立っている。この構造によってオッペンハイマーの置かれていた状況が立体的に浮かび上がると、原爆開発の責任はオッペンハイマーただ一人の個人のみに問うべきなのかと思えてくる。映画は、冒頭から、水たまりに降る雨の波紋などに彼が見る原子の動きをも映像化し、それを彼の不安定な精神のあらわれとしても提示する。オッペンハイマーを取り巻く状況を立体的に描くだけでなく、こうしたさまざまな映像表現によって彼の視点への吸引力が生まれ、また同時に、演出が彼への同情や共感を促すようなものではないヽヽからこそ、自分が彼の立場であったならば、開発を中断できたとほんとうに言い切れるのかという問いが突き付けられる。
 ノーランのテンポの速さと目まぐるしい場面転換は、特に、一度はじまってしまったことの後戻りのできなさを強調する。はじまってしまったこととは、言うまでもなくこの映画では原爆製造のマンハッタン計画である。劇中には、計画を止められたかもしれない瞬間が何度か訪れるが、それをオッペンハイマーはすべて逃してしまう。映画は彼の決して小さくはない人間的な欠陥(特に、自分の興味のない人に対する極端なまでの非礼)もはっきりと映しており、それが原爆開発を止められなかったことと結び付けられているようにも描かれる。作品はオッペンハイマーを決して許そうとするものでもないが、止められたかもしれない瞬間が描かれることで、その止められなさが逆に強調されているとも言える。
 何気ない場面だが、トリニティ実験成功後、原爆の取り扱いについて軍部に助言しようとすると「あとはこちらに任せてください」とあしらわれてしまう描写は痛烈で、為すすべがないヽヽヽヽヽヽヽままに彼は原爆投下の知らせを聞くこととなる。原爆投下を「祝う」席で、非倫理的な発言をオッペンハイマーは放つが、それも、立場的、状況的に言わざるを得なかったこととして描かれているように見え、観客を圧し潰すかのような映像表現と音響効果によって、オッペンハイマーが苛まれた罪悪感は最大限に強調される。その罪悪感から、戦後、冷戦のなかで核軍拡競争を懸念して水爆の開発に反対するが、それも、共産党員と親交があった過去と結び付けられて、すでに述べたように今度はソ連のスパイではないかという無実の疑惑をかけられ、「赤狩り」の対象とされてしまうことに繋がってしまう。
 動き出してしまったものに対しての為すすべのなさが究極的に示されるのが終結部である。終戦後、日照り雨の降る湖のほとりで、オッペンハイマーは旧知のアインシュタインと会話をする。アインシュタインは「将来君は皆から許され、メダルを授かるだろうが、それは君のためではなく、彼らのためだ」と言う。この「彼らのためだ」と言う瞬間には、空気を破るような金管の音が当てられ、音楽は急激に不穏なものとなり緊張感を高める。立ち去ろうとするアインシュタインをオッペンハイマーは呼び止め、映画の前半で描かれた、計算によると核爆発によって核物質が連鎖反応を起こして大気に引火し、地球が滅亡する可能性があることについて、トリニティ実験前にアインシュタインに相談したことに触れる。映画冒頭と対になるようにして、湖面に降る雨の波紋にオッペンハイマーはあるビジョンを見る。それは大量の核ミサイルが発射され降りそそぎ、地球が焼けつくされてゆく破滅の未来である。オッペンハイマーは「その通りになった」と言い、音楽による緊迫感が水位を超えたところで、彼が目を閉じて映画は終わる。
 このビジョンは、言うまでもなく、トリニティ実験の成功によって大気中の核物質こそ連鎖反応を起こさなかったが、人類、つまり「彼ら」による核開発競争が連鎖反応を起こしてしまったことを示している。地球の球体が端から炎で覆われていく映像は、核によるその瞬間の爆発の連続だけでなく、放射能によるその後何年にもわたる内的な破壊が広がっていくことをも連想させるものでもあろう。そしてこれらをもたらす根本的なものは、「彼らのためだ」という台詞が音楽と映像によって強調されているように、人間の私欲の連鎖だろう。
 時間が入れ換えられているが、オッペンハイマーが聴聞会にかけられるのはこの終結場面よりもあとである。映画では、オッペンハイマーにスパイ容疑がかかったのはストローズの策略によるものであり、それは核開発をめぐる意見の対立以上に、オッペンハイマーへの個人的な怨みと嫉妬心によるものだったことが終盤に明かされる。前述の通り、映画はオッペンハイマーの小さからぬ人間的欠陥を描いているが、彼は明らかにストローズを見下している。特にストローズがオッペンハイマーに笑い者にされた場面は(記憶にある限り)三回も繰り返され強調され、彼は、ラストシーンのアインシュタインとの会話の内容を、側に立っていたにもかかわらず教えてもらえなかったことも、それを自分の陰口だと思い込むほどに気にしている。つまり、ストローズの公私混同は許されないが、その私怨自体は理解できるものとして提示される。原爆開発の罪悪感と理不尽なスパイ容疑とが二重になってオッペンハイマーを追い詰めたことは聴聞会の場面の映像で巧みに表現されるが、ストローズのもくろみ通り、彼は公職から追放される。核開発を止められないのは、このようなさまざまな歪んだ私欲こそが連鎖しているからなのだろうが、ストローズの歪みに一定の理解ができてしまうことがまた、この連鎖に対する為すすべのなさを感じさせる。そして、人類は今日まで核の力を手放せていない。
 物理学の世界には、物理的決定論という議論があるらしい。原子の運動は物理法則によって決まっている。そして、人間の身体もまた原子の集合である。だから、私たちの行動のすべても、物理法則によって決まっているのではないか、というものである。私は物理学に関する知識は皆無であるから、この物理的決定論を連鎖反応と結び付けて語ってよいのかはわからないが、この映画で描かれる為すすべもなく続いてしまう連鎖を振り返っていると、ある個人の行為を方向づけてしまう社会構造や人間関係の複雑さを思うと同時に、これを連想してしまった。
 物理法則によって決定されてしまっているのであれ、社会構造や人間関係の複雑な絡まり合いによって方向づけられてしまっているのであれ、人間の意志というものが存在しないに等しいものであり、原爆という人類史上最大の虐殺兵器の創造ですら為すすべのなかったものだと言ってしまえるのなら、そしてそれを生んでしまった当人が悪の連鎖を止めようとすることまでもが阻まれてしまい、そこに為すすべのなさを抱くほかないのがこの人間世界であるのなら、その連鎖反応は、止められないものとしてこれからも続いていくのかもしれない。ならば私たちの生やいかなる創造的行為も、その集積である人類の歴史も、自己破壊に向かって進んでいるという巨大な虚無を抱えているのではあるまいか? 現に、この作品が着手されたのは二〇二一年だということだが、二〇二四年現在、この予感は、ますます現実味のあるものとして受け止められてしまうものとなっている。
 ノーランは一貫して、人間の自由意志を懐疑してきた映画作家だった。前作『TENET』でも、未来が現在を規定すること、つまり意志の不在を描いていたが、しかしそこでは、それでも自分の手のなかで起きたことをある信念を持って受け止め行動し続けることには、個人の生としては意義があるはずだということが示されていた。さらにさかのぼって『インターステラー』では、公と私とが、一方が他方の犠牲になることなく両立するためになにが必要なのかが、希望をもって描かれていた。
 それらは、この為すすべのない世界を、一人の人間として生き続けるためのひとつのよすがになり得ると私は信じる。だが、ノーランが、それらを描いたあとにヽヽヽ、自身の根底にある虚無を徹底的に見つめ、この絶望的なビジョンを示しただけに、それはより重くし掛かってくるのである。

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