燃え上がる生──マルタ・アルゲリッチ&ギドン・クレーメル『ベルリン・リサイタル』【名盤への招待状】第5回
いろいろなところで書いたり話したりしていることだが、私の音楽観や音楽の好みは、大学の4年間で大きく変わった。高校時代に熱心に追いかけていた演奏家の演奏を、今聴いてもそれほど心動かされないというようなことは少なからずあるし、勿論その逆もある。しかし、人生で最初に「好きだ」と感じた演奏家であるピアニストのマルタ・アルゲリッチの演奏は、今でも変わらず愛聴し続けている。変わったことは、当然のことながらその何が特別なのかを理解できるようになったこと、そして、そのどこに一番惹かれるか、というところである。
音の瑞々しい生命感、動き出したくてたまらないと身体が疼くような音楽の躍動感、楽器を弾く困難を聴き手に感じさせない鮮やかな技巧の燦めき、鋭い閃きのままに瞬間瞬間に生のしぶきを散らしてゆく大胆さ。音楽を学べば学ぶほど、学んで可能になるような類のものではない、特殊で特別なものがそこにあることが理解されたが、今、彼女の演奏を聴いていてとりわけ耳に残るのは、その脆さである。かつてはその奔流のような情熱にのみ耳を奪われて気が付かなかったが、彼女が大胆に散らすしぶきから、ふっと生の儚さや脆さ、そして孤独が匂い立つ瞬間がある。それが聴き取れたとき、彼女が独りで舞台に立つことを極度に恐れてソロリサイタルから退いていることが、より深く納得できるような気がした。
実演を聴く機会になぜかあまり恵まれないことや、私などが彼女のようなあまりにも有名な演奏家についてわざわざ書くこともないだろうという思いなどもあって、これまでアルゲリッチについて改まって書いたことがなかった。今年は彼女が80歳の誕生日を迎えた年であるし、年が明けないうちに彼女のアルバムを選ぼうと思った。どれにするかなかなか決まらなかったが、結局、今年購入したばかりで机上に出したままになっていた、ヴァイオリニストのギドン・クレーメルとの『ベルリン・リサイタル』(2枚組)を挙げることにした。
2006年に行われたこのリサイタルは、中学か高校の頃、CSのクラシカ・ジャパンで、クレーメルのインタビューを交えながらドキュメンタリー風に一部が放送されたのを視聴したことがあったのだが、全篇を収めたライブ録音がリリースされていたことは、最近まで知らなかった。
プログラムはシューマンのヴァイオリンとピアノのためのソナタ第2番とピアノ独奏の《子供の情景》、バルトークの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番というものである。内に渦巻く狂気や夢想を音楽にするためには形式を打ち破ることも躊躇わないシューマンと、原始的な力に潜む秩序を冷徹に見出し厳格な形式に落とし込んで研ぎ澄ませるバルトーク。彼らは音楽の質感は言うに及ばず、作曲家としての資質も大きく異なっており、あまりに対照的な組み合わせである。しかも、前半と後半にそれぞれ分かれているならまだしも、演奏順が互い違いときている。ここでシューマンに同じ「B」でもブラームスを組み合わせたりしないところはクレーメルらしいが、プログラムの意図するところは読み取りにくい。
恥を忍んで正直に言うと、この組み合わせの意図は、残念ながら今の私には演奏を聴いても最後までよくわからなかった。しかし、互い違いに演奏されることで、そのコントラストがより鮮烈なものになっていることは間違いない。呟きから張り裂ける叫びまで、シューマンの「内なる声」を迸る熱情で描き尽くしたソナタ第2番の響きの充溢の後で、クレーメルの鋭角の感性から生まれる線の細いざらついた音がバルトークの無伴奏ソナタを切り込み、空気が一挙に締まる。後半に入って、アルゲリッチがシューマンの《子供の情景》を少年期の想い出が次々に溢れ出すように紡いで夢へと誘うが、バルトークのソナタで再び覚醒し、透徹した音を重ねて荒々しい興奮へ突き進んでゆく……というように。
それにしても、燃焼度の圧倒的に高い演奏である。両者のまさにしぶきを散らす生のぶつかり合いは、皮膚が灼けつくような感覚を齎し、最後のバルトークの終楽章に至っては、音楽もろとも二人も燃え尽きてしまうのではと思われるほどに、破綻寸前の高揚へ上り詰めている。
また、バルトークでのアルゲリッチの音について特筆しておかなければならない。ここでの彼女の音の冴えは尋常ではなく、特に第2楽章でそれが纏う柔らかく澄んだ光の環は、何か超人間的なまでの美しさに達している。
「実演を聴く機会にあまり恵まれない」と書いたが、実は2020年の3月に予定されていたこのデュオの来日公演のチケットを取っていた。周知のとおり演奏会はパンデミックのために中止になってしまい、高校生のときぶりにアルゲリッチを生で聴く機会はまた遠ざかってしまった。盟友クレーメルとの生の燃焼を実演で聴ける日が訪れることを願いながら、アンコールの粋なクライスラーに耳を傾けよう。
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