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メナヘム・プレスラー

 ピアニストのメナヘム・プレスラーの実演は、彼が93歳のとき、2017年10月16日にサントリーホールで開いたリサイタルを聴いたのみだが、その音楽の根底に息づいていた瑞々しい明るさは、今でも折々思い出している。
 大分時間が経ってしまっていて、当時もごく短いメモしか残していなかったので、当時感じた通りに精確に述べることは難しいが、とりわけ、前半が素晴らしかった。彼の芸風のためには会場が広すぎるとも思ったが、冒頭のヘンデルのシャコンヌから、老大家の演奏について抱いてしまいがちな「諦観」だとか「枯淡」といったイメージとは対照的な、透き通った明るさに静かな驚きを覚えた。落ち着いていながらも軽やかな音は、重力を感じさせず、羽毛のように聴き手の耳に着地した。
 私がこの日最も心動かされたのは、続いたモーツァルトの幻想曲ハ短調K.475、特にそのニ長調のフレーズだった。灯されてゆく一つ一つの音は、赤子を包み込む手のひらのように暖かく繊細で、慈しみに満ちていた。
 後半はドビュッシーとショパンで、前者の前奏曲「沈める寺」、後者のバラード第3番などは、さすがに技術的に厳しい場面もあったが、演奏が勢いに任されるような瞬間は一切なく、音を紡いでゆくことそれ自体から生の尊さのようなものが滲み出ていた。
 アンコールのショパンのノクターン第20番もドビュッシーの「月の光」も、彼が立ち昇らせるものは常に瑞々しく、人間の心が本来持っている純粋さを、プレスラーの音の明るさが静謐の中で照らし出しているようにも感じた。
 プレスラーの演奏については、しばしば「円熟の境地」などと語られる。私も異論はない。しかしそういった言葉が極めて安直に用いられている今改めて言いたいのは、確かに音楽には人間が反映するが、それは、人生経験を積めば誰でも深みのある表現ができるなどという単純な話ではないということである。そこは、表現に深みを与えるだけの齢の重ね方や、あらゆる意味での人間力、そしてそれを演奏に落とし込める技術や才能の鍛錬、経験といった、様々な要素が響き合って達することのできる場所のはずである。
 それにまた、人生は、実りを齎(もたら)すばかりでなく、人間を歪めてしまうこともある。瑞々しい感性をあれほど傷つけずに保つためには、揺るぎない信念と、矜持が必要だろう。
 プレスラーという、一人のまたとない芸術家であり人間の、あの時奏でた音の柔らかい光を、私は忘れないだろう。

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