スターバックス同盟
「山井さぁ……」
と、彼女は正面で同じく黙々と作業に勤しむ彼に話しかける。話しかけられた方の彼はPCのディスプレイから目を離さずブラインドタッチも休めずに、答える。
「何」
「ちょっと聞いてもいい?文法」
「条件は?」
「数学の宿題、写させてあげるよ」
「……分かった、じゃあ10分だけ」
と、彼はようやく手元の作業を一旦休止し、彼女へと顔を向ける。やや痩せ型で小柄めの黒髪の彼は、ごくごく平凡な高校生男子。なんならちょっと地味属性で目立たない。彼の取り柄はオタク趣味に打ち込むことだけですと言われたら、すんなり「そんな感じ〜」とイケてる同世代の若者からは小馬鹿にされてしまいそうな、そんな風貌。
一方の彼女も、黒髪ミディアムヘアのごくごく冴えない女の子。親戚の叔父さんくらいからしか「可愛いね」と言われることもなく、かと言ってそんな容姿へのコンプレックスに悩む時代なんてものはとうの昔に通り越してきた。彼女は自分が決して美しい部類の人類ではなかったのだということを、もう既に痛い程理解している。
彼女は英語の参考書を広げ、不明な箇所を彼に質問する。それは高校の教科書ではなく、実際の時事ニュースをテキストとしてまとめたもの。そんなものをなぜ土曜日の午前中のスターバックスでわざわざ勉強する必要があるのだろう、と多くのクラスメイト達は思うに違いない。こんな勉強は別にテストの成績を左右しない。学年主席を常に維持する彼女はそもそも、もう十分過ぎる程勉強に勉強を重ねてきている。しかも今手を出している時事ニュース云々は「勉強と勉強の合間の気分転換」なのだそうだ。彼女曰く、「実際海外に遅かれ早かれ行きたいのでどうせ必要だし、そもそも興味がある。ていうかとにかく気分転換になるから」とのこと。実際友人たちに話しても「美和はホント、真面目だし頭いいよね〜」と半ば呆れられており、そろそろこの自己研鑽への温度差についていけないという周囲の軽く引いている感じも顕になってきている。――ただ一人、彼だけを除いては。
彼は――山井賢は――羨ましいことに帰国子女なので、日本語しか母国語として扱えない佐々木美和には分からない難解な構造の長文や、あるいは砕けた現地っぽい口語表現、そのどんな質問にだって容易に答えられる。だが彼はその他の勉強は決して人並み以上とは言えず、特に理系の科目については苦戦を強いられている。だけど余計な勉強はしたくない。なぜなら明確な目標があるから。そしてその目標の為に、とにかく時間が惜しい。その惜しい時間をわざわざ割いて、どうせ使いもしない役に立つ予定もない苦手科目を克服することになんて絶対に体力を浪費したくない、のだそう。
その発想――「苦手科目はばっさりと捨てる」という潔さと、それから友人から引かれても尚淡々と努力を積み上げるストイックさと、今この時の青春を捨てて未来へ投資するという高校生らしからぬ決意の固さ――そういった考え方が、この二人の奇妙な友情と仲間意識を形成しているのだった。彼らは毎週末、学校から数駅離れたこのスターバックスで、それぞれの積み上げ作業を続けるのだった。
彼女はひたすら、勉強。
彼はというと、今日もPCで記事を量産している。彼は若きブロガーだった。
ある日偶然、彼をこのスターバックスで見かけた時、彼女は驚いたものだった。クラスではとにかく地味で目立たない彼が実は毎日、誰にも知られずにPCでブログ記事をせっせと生み出していること、そしてそれによって実際、月十万円程のお金を稼いでいるということ。その実績に驚愕しつつ、なにより彼のブログを頑張る目的があまりにも滑稽で馬鹿馬鹿しくて、でも自分と同じだったということに、彼女は驚いたのだ。
そして彼女はその時初めて、誰にも言えないでいた秘密を打ち明けた。
質問タイムが終わり、時計の針が12時半を指したのでいつもの通り昼休憩とした。高校生にとって、お昼ごはんをスターバックスで済ませるというのは何とも贅沢で特別な感じがする。それが二人がなんとなくこの場所を選んでいる理由でもあった。頑張る自分にご褒美を。おかわりのカフェオレを飲みつつ、彼女は何の気なくTwitterを眺めて「あ」と呟いた。
「愛ちゃん、彼氏と別れたらしい」
「……ふーん」
サンドイッチを頬張ろうとする彼の手が一瞬止まるも、平静を装い気のない返事を返した。
「チャンスだよ」
Twitterで試しに絡んでみれば?なんて、からかう彼女の言葉に彼は目を伏せて答える。
「あるわけない」
川瀬さんは面食いだからね、と付け足して言う。美女にありがちではあるが、例にもれず川瀬愛の彼氏は常にイケメンだ。骨格から細くて華奢で小顔で目が大きくて愛想が良くて男の子への反応に慣れている。おしゃれで何を着ても可愛く、いつもの下ろしたロングヘアをポニーテールにしてみせるだけで世界が七色に輝いて見える。そんな特別な女の子。皆がうっかり恋してしまう、憧れてしまうけど、彼女と対等に向かい合っていいのは選ばれた人間だけ。
そんな現実を、彼はよく知っている。
Twitterで意味のない独り言を発するだけで、たくさんの人達が好意的に交流を図ろうとしてくれる。生まれながらのお姫様と、しかし彼は御伽話で喩えれば、お付きの従者にさえなれない。村人その1……いや、その98くらいだろうか?同じクラスに存在しているというだけで、辛うじてその序列だろうけれど、本来関わるはずのない、別人種。そんな身分違いな川瀬愛ちゃんに、大真面目に惚れてしまったのだ。彼は。この哀れな村人その98は。そして叶わぬ恋に苦しめられた彼が選んだ行動というのは、普通考えるまっとうな選択肢とは大いに異なっていた。
びっくりする程、遠回りで不確実で、現実逃避的で。
でも、信じられないくらい前向き。
「何度も言ってるけど、資産1億円を作るまでは本名と素性を晒してSNSは絶対にしない。いずれもっとちゃんとフリーランスで成功するその時までは、学校の人達に僕のこのアカウントを知らせるメリットがない」
そしてまた滔々と彼は自身の人生設計について、彼女へ語り聞かせる。
「大学生にでもなったら、川瀬さんだってお金持ちと結婚したいと思うに決まってる。可能性があるならその辺りからだよ。高校時代はまだイケメン信仰が強力だからね。僕が今勝負に出るのは愚策中の愚策だ。今でしゃばっても恥をかいて終わるだけ。僕はそのへんの可能性はしっかりと諦めがついてるし、さすがに計算出来る」
そんな変わらぬ彼のいつもの調子に、彼女はくすくすと笑った。
「悪い悪い。ちょっと言ってみただけ」
と、彼女はTwitterを再びスクロールし、しばらくして画面をオフにする。
それからお互いの作業の進捗を交互に語り合った。彼が学校の人達には秘密にしている仕事用のアカウントで、フォロワーが2000人を達成したこと。先月よりもアフィリエイトの売上が好調なこと。あとは、最近加入したオンラインサロンについて。うっかり出会ってしまった詐欺の情報商材屋の話。エトセトラエトセトラ……。どれも彼女には未知の領域で、こんな地味なクラスメイトがそんな世界観で頑張ってビジネスしているだなんて、嘘みたいな話だな、と彼女は聞きながらしみじみ思った。そして、彼女も色々な話をした。直近の模試の結果について。最新の効率的な勉強方法について。海外の面白い論文について。新しい脳科学の研究について。志望先である海外の各大学のカリキュラムと自分の思い描く医師のキャリアについて。そして最後に、化粧品の話。彼女はまるで化粧っ気のない一見真面目そのものの女の子ではあるが、こう見えて化粧品の成分については詳しい。今は最低限のお手入れと日焼け予防、そして食事と運動管理をする程度だが、女性は年齢を重ねるにつれ、必要なお手入れがどんどん異なってくる。なので、常に状態に応じたアップデートをし続けることが大切なのだ。今はまだ、この程度にしか手を入れていないけれど――と、何度も説きつつ、彼女はかの有名なココ・シャネルの名言をいつも大切そうに彼に語り聞かせる。
「“20歳の顔は自然からの贈り物、30歳の顔はあなたの人生。でも、50歳の顔はあなたの功績”だよ」
と彼女は常々言う。
「でね、私は今16歳でしょ。だから今、私の美しさを構成しうるのは、せいぜいこの不平等な遺伝子に振り分けられた貧弱なステータスそのものだけなの。でも大人になったらお手入れの積み重ねとセンスの研究、それこそが女性の美を作り出すんだよ。そしてお手入れにも身だしなみにもお金がかかる。私は自立した優雅な大人になって、凡人でしかない自分を少しでもエレガントに見せてくれる経済力と余裕を手にしたい。そして知識と教養を磨いて、今の私が憧れるような素敵な大人になったら、きっと素敵な恋愛をするの」
だからその時までは。私はただのガリ勉でいいの。私にとっての青春は今じゃない。私は未来に賭けてる。だからいくらでも、今という時間と労力を捧げられるし、それは苦でもない。
大体雑談の終わりには、そんな真面目で暑苦しい夢と理想の話になってしまうけれど。
だけども彼女のそんな言葉を、彼だけは馬鹿にはしなかった。それは彼女も同じで、正直ブログとかビジネスなんて自分の興味あるところではないのだけれど、それでも物凄く親近感を感じているし、実際彼は彼女にとって、かけがえのない唯一の盟友のようだった。
「でもさ」
と、彼が微笑みながら言う。
「溝内君はそれまでフリーでいるかな、運良く」
いくら幼馴染でいつもそばにいるとは言え、彼は誠実で優しそうだから。なんなら今の彼女と長く付き合ってそのままゴールイン、なんて事も有り得なくはなさそうだよね、と。そうでなくとも、あの手の爽やかイケメンは競争率が高い。また、彼が自分より高学歴で高収入な女性を好きになるのかも、正直分からないわけで、と。
彼女は笑った。「山井、分かってないなぁ」と零しながら。
「それとこれとは別なの。私が恭介を好きなのはもうしょうがない。でも努力したいのもしょうがない。どうせダメ元。ただ、隕石が直撃する確率で、あり得ない妄想上の奇跡を願ってるだけだよ、私は。そういう意味ではもうきっぱり諦めついてるの。私は異性として見られてないからさ」
と、彼女は溝内恭介と、その隣にいる可愛い別クラスの女の子の姿を、思い浮かべた。お似合いな二人。幸せそうな二人。溝内恭介が恋人に求めるものは、彼女が今躍起になって追い求めている自立や知性や教養なんかじゃない。経済力やキャリアや社会的地位なんかじゃない。彼女を魅了する幼馴染が生きるのは、普通でありふれた幸せな高校生活。現実的できらきらとした、青春の胸の高鳴り。彼女の幼馴染が恋をしたのは、未来を生きる完璧な自分なんかじゃない。恋をしたのは、あの整った欠点のない横顔、派手じゃないのにぱっと目を引く可愛らしい瞳。ふわりと内巻きになった前髪。白くて華奢な手脚。それはもう、同性から見ても羨ましいくらいの――。
ふう、と彼女は溜息を吐いた。そして、やっぱり余計な冗談を言うもんじゃないなと、自分の発言をちょっぴり後悔する。
愛ちゃんのことでからかった件、あれ絶対ちょっと根に持ってるだろ、山井め。そのせいでいらない反撃を食らってしまった。
彼女は心機一転、「さー、残りの午後もやるぞ」と意気込んで、トレイの上を整理した。そしていつも通りじゃんけんで負けた方がトレイをゴミ箱へと運んで片付けて、また各々の課題へと向き合う。
不器用で、遠回りで、全然素直なんかにはなれないけれど。
でも大真面目に、強気に、健気に、勤しんでいるんだ。
人生はどうしてもどうしようもなくて、だからこそ、どうにかするしかない。
投げたサイコロの目に期待して、この人生をベットしてやろう。
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