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いつかパリに行ってみたいっていう時のいつかって、いつ?

「英語よりもフランス語のほうが耳に馴染むっていうか、抵抗感ないよね」

というまた唐突な一言から、今日も会話が始まる。とある会社の昼休み。アラサーアラフォーあたりの女性4人のグループで、毎日あれやこれやと日替わりで話題が飛び交う。今日はどうやら語学のお話らしい。カップ麺とおにぎりを交互にほうばりながら、事の発端である彼女は続ける。ちなみに彼女曰く、「英語は"はうわーゆー、あいむふぁいんせんきゅー"しか無理」とのこと。彼女を仮にA先輩とする。

「なんかフランス語なら肌に合う気がする。英語よりはマシかなーって。やっぱわたしフランス好きなんだよね。心の故郷」

その台詞をまともに受け止めて、わたしはいくばくか考える。わたしは…仮に、N子とでもして下さい。なぜB子じゃないかって?まぁ、このお話をどう受け止めるかは、このお話の受け取り手の任意で、ということで。つまりは任意のNですね。星新一作品のN氏みたいな。

――と、まぁ、わたしは考えます。N子は考えます。LとRの発音なんかに比べれば、フランス語で"花"という時のあの独特に気怠げで色っぽい音声は、案外勢いで振り切ればそれっぽくなるのかもしれない。英語より聴き慣れていないぶん、巧拙の判断もつきづらいという点も、あるいは…

「フランスいいですねぇ。でも高いですよねぇヨーロッパ」

ここでおっとりと同期Bがぼやく。趣味は海外旅行で、ついでにアイドルに夢中。ゆえに、いつもお金がないが口ぐせ。たしかにわれわれ事務員のお給料ではね。ここにいるみんなはほぼほぼ給与が同一とお互いに充分想定されるので、一様に深くため息を吐いて頷く。そういえば…と、C大先輩が思い出して言う。C先輩は経理の元締めで、立場的に外部のお客様等々とお会いすることが多い。

「この前ね、会社の税理士の先生が来られたんだけど、まさにご家族でニューイヤーパリしてきたんだって。三つ星レストランやらブランドショップ巡りやらでざっとお値段、4人家族にして250万円。てことは、1人頭62.5万…1人分でさえわたしの新婚旅行より断然高いのが地味にショック〜」

はぁ…と、またため息が溢れる。諦めと、憧れと、でもまぁそんなもんよね、という色々まぜこぜになったため息。

「税理士の先生ってすごいんですねぇ。さすがは国家資格。エリートは海外行き放題。追っかけもし放題?いいなぁ…」

「儲かるんだろーなー。羨ましいよね。うちなんて子供の矯正費でカツカツ。あ〜わが故郷遠し!」

「わたしも、洗濯機故障したから最近キツくてねぇ。しばらくは節約の日々ね」

「最近ライブチケット取れすぎちゃったので、海外はしばらくお預けですよ〜。お金ないですー。貯金しなきゃー」

「そうだよ、貯金大事だよBちゃん。そしてたまにはご両親に仕送りしてあげて。偉い先生様を除き、親というものは、いつでも懐が寂しいんだから」

「えー、でも奨学金は自分で払ってますもんー」

「奨学金…はぁ。家のローンに奨学金に、洗濯機。庶民にはパリは遠いわねぇ…」

別に、そんなに贅沢がしたいってわけじゃあないんだけどね、とC先輩は少し寂しげにぽそりと嘆く。と、そこでA先輩、一転ぽんと手を打って、目を輝かせて言う。

「貯金。よし、貯金しよう。あのさ、いい事考えた。毎月3000円ずつ貯金して、それでいつかおばさんになったらみんなでパリ行こうよ。で、その先生様達と同じグレードの超贅沢旅行にしよう。まぁ、ざっと計算して17年後だけどさ、でも、そのかわりパリ滞在中だけ、謎のセレブ実業家中年ごっこするの。…どう?なんか楽しくない?」

…ってまぁ、もう中年だしおばさんだけどさー!とA先輩はからからと笑う。B同期も少し考えて「謎のセレブ…うふふ。なんか楽しそう。毎月3000円なら…うーん、なんとか…うーん…どうかな…」と苦しいながらも算段を始める。C先輩も「おかしい。でも、楽しそうですね。わたし達がセレブなんて」とわりと乗り気である。そして、どの星付きレストランで食事しようか、どんな高級ホテルに泊まろうか、果てはどこの銀行で積み立てようかなどなど早速ネットの海を放浪中である。と、B先輩はご機嫌なハイテンションで目を輝かせてわたしにこう問うのだった。

「ね、定年間近にさ、最高の卒業旅行じゃない?」

ーー夕方6時過ぎ。わたしは忙しなく移りゆくテレビ画面のニュースを眺めている。最近少しずつ日課になりつつある、会社帰りのトレーニング。わたしと同じような、あるいは全然似ても似つかない会社員達がジムのフロアに徐々に集いつつある。ちょうど仕事帰りの頃合い。わたしはランニングマシンの床を絶え間なく蹴り出しながら、目まぐるしく世間の出来事が羅列されている様を観ている。と――画面に1人の男の姿が映し出された。近年なにかとお騒がせの、若きIT社長。その彼が、今度は自家用ジェット機でヨーロッパを周遊中らしい、とのこと。奇しくも、わたしの眼前には彼が凱旋門を背景にマスコミに笑顔を振りまくシーンが繰り広げられている。パリ、パリ――憧れの、パリ。こんなに軽やかに、夢のまた夢のまた夢の世界に舞い降りて、彼は言う。「きのうは1本100万円のワインを開けましてね。ワインは昔から大好きで」。ははは、とそんなともすれば反感を買いそうな台詞をけろっと言ってのける彼――庶民にとっては得体の知れない実業家である彼――は、庶民のわたし達にとって、いわばミスターXだ。謎のパワーにより謎の成功を収めた、嘘みたいな正体不明のヒーロー。彼は明日にも南仏へ旅立つらしい。なんて軽いフットワーク。わたし達の17年をたった1日で飛び越えていける、ミスターX。わたしは、ふと呟いた。

「わたし、17年待たないとパリに行けないの?」





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