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「続く」ということ

曰く「世の中バランスが大事」と言う。それはまったくその通りなのだが、他人が複数いる中、個人の意思だけで全体のバランスを取ることは難しく、結局「バランスが大事」というのは「出しゃばらない」の言い換えていどにしかなっていないように思う。

もちろん「出しゃばらない」こともたいへん大事なのだが、ここでしたいのは少し違う話である。

妥協することや、周りにサービスして譲歩すること、つまり自分の主張を押し殺して大勢に迎合することも、全体をスムーズに回す意味では必要だったりする。

だが、それとは真逆の、妥協しないことや譲歩しない姿勢というのは、自分が何かを作ったり表現する際には非常に重要な要素になる。
特に自分以外の人と何かを一緒にする場合、立場によっては自分がそうやって一つの「壁」にならなくてはいけない。壁があるとみんなはそれに沿って動けばよく、ここまでやればいいのだなという指針ができるので、全体的にやりやすくなる。

それとは別に、まったく個人で行う表現行為というのもある。
例えば文章を書くことなどがそうだ。

文章はみんな書くといいと思う。
なぜいいのか?
それは、文章を書くことがミニマムの表現行為たり得るからである(もちろん写真や絵でもいい)。

ではなぜ、ミニマムな表現行為である文章を書くのがいいのか?
それは、誰しもが多かれ少なかれ、表現しながら生きているからである。
表現という根源的な行為を、文章を書くことで手軽に体感できるのだ。

なぜ人が表現するのかというと、理由はいくつも考えられると思うが、その代表的な一つは「自分自身というものを世界の中で確認したいから」ということではないかと思う。

誰しも、孤独な人ですら、基本的には人の中で人にまみれて生きている。
そして人は似たり寄ったりである。近視眼的に見れば個性の違いは明らかにあるが、もっとカメラを引いて見ると、人はだいたい似たようなものであり、わずかな差があるだけである。
誰しも似たり寄ったりな中で、わずかな差、わずかな優位性を求めて人は頑張ったり努力したり、苦労したりして生きている。

なぜそこまでするのか?
それは、自分の生に実感や手応え、達成感が欲しいからだろう。価値があると思いたいのだ。特に、周りの他人と比べて価値のある存在でありたい、という相対的価値の部分が大きいだろう。

それぐらい、ただ生きているだけでは人間はもの足りないのだと思う。
人間自身は容れ物であり、意志と行動によって何を成し遂げたかによって、尊敬されたり認められたり羨まれたりする。

認められること。では、自分を認めてくれるのは誰か?
それは「他人」だと言いたいが、結局のところ他人とは「わかり得ない存在」である。あるいは「移ろう存在」でしかない。他人のことはわからない。原理的に不明点が多い。自分についてすらすべてを把握できない中で、違う場所で違う時を過ごしている他人というのは、やはり「わかり得ない存在」だ。あるとき親密な関係になったとしても、時が経てば変わっていってしまう。
だからこそ、通じ合えたと思える存在は素晴らしく貴重であると言える。

「他人は移ろう存在」と書いたが、他人だけでなく自分もそうである。
つまり人は皆一つところに留まらない。瞬間瞬間の積み重ねが一日であり、一日の積み重ねが年月である。つまり実質は「今」という刹那的な時間である。結果的に長い時間として感じられるだけで、勝負はその都度決まっている。だから、その時どうであったか、がすべてと言ってもいい。
結局はそういう一つ一つの断片があり、それが奇跡的に積み重なっていく、それが「続く」ということだ。


やぶさかではありません!