社会の中で生きるのが何が大変かって、人と絡むことだと思うニャ。
社会の中で生きるのが何が大変かって、人と絡むことだと思うニャ。
人と絡むのは大変ニャ。
人はそれぞれの事情から圧をかけてくるし、独自の価値観を押し付けてくるし、こちらのリソースを(結果的に、あるいは意図的に)奪いにくるニャ。
さらに、感情の成熟度という係数がそれぞれの中にあり、ほとんど依存に近いものとか、ひどいのになるとサイコパス的な暴力的な言葉を発するのまでいるニャ。だがそんな中でサバイブしなければならないニャ。
これは「どう生きるか」ということニャが、そしてもう一つ「何をして生きるか」という要素があるニャ。これは、今の社会では経済活動のことを指すだろうニャ。
しかし、自らのありように納得して生きていくこと、いわば幸せに生きることと、経済活動はあまり相関していないニャ。
でも、社会は基本的に経済活動であり、経済的な強者のポジションにあることが人間関係にも少なからず影響を及ぼすニャ。だから経済活動を活発にすること、平たくいうと「儲けること」が多くの人が望んで生きるニャ。望んで生きるが、それで幸せになれるわけではないニャ。
逆に、経済価値観に特化したサイコパスの方が生きやすい部分はあるかもしれニャイけどニャ。
当たり前だがそうした生きる姿勢みたいなものに正解はないので、自分自身で選び取るという作業がどこかで必要になるニャ。
個猫的に思うのは、時々は金のかかる遊びもいいが、基本的には金をあまり使わず楽しめる方が幸福度は高いということだニャ。
あと、SNSを頻繁にしていると忘れそうになることニャが、誰かにパッとわかってもらうことがすべて良いことではないということニャ。自分の中だけで思っていること、練っている気持ちがあることがいかに重要かということニャ。
自分一匹だけの大事な時間を「聖なる時間」と呼んだりするらしいが、そういうのが大事ニャ。自分の中に誰かの価値観が入り込まない、そういう時間ニャ。それは依存みたいなガチャガチャした気持ちとは対極のものだニャ。
ちなみにタイトルをどうしようかと迷って、冒頭の一行目をそのままタイトルに持ってきた。これは夏目漱石の「吾輩は猫である」のスタイルでもあるよね。なので最後に、すべての文に「ニャ」をつけたニャ。🐈
やぶさかではありません!