とらわれとしての完璧主義。

 完璧主義は一つの美意識だとも言える。完璧であることに、ある種、美的な満足を覚えるのである。九十九パーセントでは満足できず、百パーセントを求めることに徹底的にこだわるのだが、九十九パーセントと百パーセントの実質的な効果の違いがほとんどないことを考えれば、それが極めて心理的なとらわれであることがわかる。その意味でも、審美的満足としか表現しようのないものである。完璧であること、つまり一切の瑕疵を免れていることに特別な価値を置くのである。それは、言語的、表象的なとらわれと密接に結びついている。なぜなら、完璧な状態というものは、言語や記号といった表象なくしては、存在し得ないものだからである。ある表象と完全に一致することが完璧な状態であり、それを追求するのが完璧主義なのである。
 つまり完璧主義とは、創造的なものでなく、その本質は、同一を求める反復強迫だと言える。完璧主義の人にとっては、予定されていた者との同一性を実現することが、最大の目的なのである。その反復強迫が、そもそも何のためであるかは、あまり重要でない。同一性を反復することが、根源的とも言える衝動なのである。
 ここまで考察すると、完璧主義というものが、一つ間違うと強迫的な反復行為と結びつきやすいわけが明らかとなる。そして、強迫的な反復行為というものは、反復すること自体が目的となっていくのである。
 完璧主義の人が陥りやすい、さまざまな嗜癖的行動、仕事中毒、過食と嘔吐の反復、体重を減らすことへのとらわれ、自傷行為や虐待を止められなくなること、アルコール依存などの依存症、それらの背景には、本来の目的を忘れて、ただ繰り返すために繰り返すという反復強迫の病理が、程度の差はあれ認められるのである。
「あなたの中の異常心理」岡田尊司(幻冬舎新書)


 「異常」の一言でくくることで、我々は問題を自分の反対側へ置こうとする。けれどそれは程度の差に過ぎない。「まとも」と「異常」はグラデーションの中の一部に過ぎず、地続きである。決して「あちら」と「こちら」ではない。
 上記の引用で思うのは、人間のもの哀しさである。特に「完璧主義とは、同一を求める反復強迫」というあたりだ。理性や志というコントローラブルなものでは決してなく、どちらかというと反応や反射、快感を求める動物的な神経回路が、人を社会性から遠ざけていく感じ。

 本書では、完璧主義をはじめとして、人の心理的病理の周辺について実例を挙げて掘り下げている。
 軽い依存みたいなものについては誰しも心当たりがあるはずだ。ここでいう「とらわれ」みたいなね。それくらい反復というのは何か、いわく言いがたい安心感や抗いがたい快楽があるのだろう。例えば暴力もそうである。暴力のもたらす、自らが強者になったかのような感じ方には中毒性がある。それを関係の中に見出した時に不幸が発生するわけだが、快楽原則的には甘美な関係ということになる。つまり暴力を振るう側が快楽に依存しているのである。

 上記にもあるけれど、完璧さというのは概念的なものだ。現実とは違う。だから完璧を求める人というのは他人とは相容れない。他人は現実だからだ。本人の頭の中の世界が現実と乖離しているならば、そこには強いフラストレーションが発生する。そのフラストレーションは他人へと向けられる。現実の住人である他人にとって、非現実を求める人の相手は苦痛でしかない。
 なぜある種の人は完璧を求めるようになってしまうのか?それはトラウマに原因が求められたりもするのだけど、生得的なものも当然あるだろう。そのような「本当にさまざまな人がいる」という現実そのものが、人間が概念的な存在ではなく、あくまで現実的なものであるというループになっている。

 人は「こうだったらいいな」「こうであるべきだ」「こうでなければならない」という思いにとらわれがちな存在で、自分を思い返してもまさにそうである。でもそれは現実ではない。いかに不快でも、思い通りにならなくても、現実は現実として受容するしかない。そこからスタートすることで、初めて現実に対応できる。良くしていく、望んだ形に近くしていく改善の目が見えてくるのである。

やぶさかではありません!