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震災の日の長い夜のこと。

揺れた瞬間は会社にいて仕事していた。多くの人がそうであるように。晴れた金曜日の午後は、巨大で悲惨な災害などには似つかわしくない感じがした。その少し前から大きい地震はあったように思う。何かで読んだのだろう、揺れた時は手近の窓を開けるくせがついていた。

金曜の午後。机に座っていて、あまりに大きく揺れたので、何人かと一緒に階段で会社の外へ出た。会社といってもキッチンや風呂もある居住できるタイプの広めの低層マンションだったので、すぐに外へ出ることができた。会社の隣には数年前に古い住居を取り壊してできた空き地があって、数年後に億ションが経つことになる。そこへ3人だか4人だかで集まった。会社にいた残りのメンバー数人は、外に出ては来なかった。それどころか、あれだけの激しい、かつてない激しい揺れではあったのに、普通に座ったまま仕事をしていた(ように見えた)。あとで聞いたら「めちゃくちゃビビってましたよ」と言っていたが、本当かどうかはわからない。

とにかくしばらく空き地で佇んだ後に、会社へ戻ってみた。揺れによって家財が倒れてグチャグチャに荒れた家も多かったようだが、会社はそうではなかった。仕事よりも状況が気になった。誰かが動画をネットで見ていたので、一緒になって見た。昔住んでいた宮城県の、名取市が津波に飲まれる様子だった。いや、それを見たのは後日だったのか?そこは記憶が曖昧になっている。だけど一緒に一度外へ逃げた年上の男性のAさんが「うおお、すげえ」みたいにパニック映画を観るような半分以上喜悦のような声を上げているのを聞き、この状況で何を考えているのかと軽蔑したことは覚えている。

電話は当然のように通じない。家族のことはとても心配なのですぐに帰りたいが、電車が止まっていた。歩いて帰れる距離でもない。ネットであらゆる情報を集める。誰かが「会社の自転車を使っていいんじゃないの」と言ってくれて、それに乗ることにした。夕方の6時近くだったかな。ママチャリだったし、タイヤの空気もパンパンだったわけではない、それでも自転車が使えるのはありがたかった。数時間かかるだろうが構わない。家族のことがわからない状態で会社に泊まりたくなどなかった。娘も3歳、まだ小さい。それでも自転車で帰れる距離に家があり、その体力もある。携帯の充電は十分だから、途中で電波が通じたらすぐに家に電話をしようと思った。もし途中のどこかでタクシーが拾えるようなら自転車をそこに一旦乗り捨てて、後日拾ってそこから会社まで自転車で来ればいい。

自転車を漕いで表参道を下り、原宿駅までまた登って、代々木公園の脇の道を走り、代々木上原あたりへ向かう下り坂を降りていった。ここからの長い道程を思うとクラクラしたが、どうなってしまうのかと思いながらも、自分の状況は随分恵まれているように思った。津波もないし、倒壊にも遭ってない。妻子の待つ自宅へ向かって元気に自転車を漕いでいるのだ。ただ、ちょっとその時間が長いだろうというだけで。

西へ向かう道は、徒歩帰宅を試みる人がたいへん多く、その間をかいくぐるかのように自転車を漕いた。車はあまり流れていない。車と歩行者の間をスイスイと行くのだが、それほどスピードは出せなかった。自転車で自宅へ向かうのは当然初めてだったが、道がまったく不案内なわけではなかった。会社で調べてきたというのもあるが、何より何度か深夜タクシー帰宅で通った道だった。かなり何度もタクシーで帰ったので、大体の方向感覚は掴んでいた。高速道路に乗ることが最近は多かったが、まだ試行錯誤の段階では下を通って帰ることも多く、それが功を奏した。基本的には甲州街道に乗って、西へと向かえばいい。いくつかの路地を通って、広い道へ出た。甲州街道。

甲州街道はさらに歩行者も車も多かった。広い歩道から人が車道にまではみ出て歩いて行く。車も相変わらずノロノロで、その間に自分の道はあった。西へ西へと向かう。途中で止まって携帯を見るが、まだ電波は繋がらない。家に電話できるのはもうちょっと後になるだろう。もう何時間も自転車を漕いでいる。さすがに疲れてきた。

ここからしばらくは平坦な時間が続く。長い距離を延々と走るだけだった。

そして…そしてついに、携帯の繋がるエリアへ来た。家族と電話…いや、電話は繋がらなかった、メールしたのではなかったかな。当時はまだLINEもなかった。無事を告げ、このまま自転車で帰ることを伝える。とりあえずお互いに無事で何よりだった。しばらく自転車を走らせて、コンビニに寄った。途中で見たファミレス、どこも満席だったのが印象的だった。コンビニで肉まんを食べてカフェオレを飲んだ。腹ごしらえが終わるとさっさと出発。一刻も早く家に帰りたかった。

ついに地元の街に着いた。あの瞬間は忘れられない。自転車で走りきった疲れもあるし、非常時の中での帰宅という状況が、安堵感をことさらに強調していたのかもしれなかった。それから家に着き、家族と対面して無事を喜び合うと、テレビで東北の状況に引き続き戦慄した。特に原発関連の毎日のニュースは本当に生きた心地がしなかった。不吉に崩れた原発の建物と、枝野官房長官の青い服。

当時のツイートがいくつかあった。自転車での帰宅途中で書いたのもある。時系列がどうもめちゃくちゃなので正しい順序ではないようだが、記録として貼っておきたい。

ちなみに、二時間なんて甘すぎた。

これは帰宅後のツイートだ。



やぶさかではありません!