「期待しなければ絶望もしない」の本当の意味
「期待しなければ絶望もしない」はよく聞くフレーズだ。
その通りだと思う。
他人に期待なんかするから、その期待が得られなかったときに絶望したり失望したりするのだ。だったらはじめから期待しなければいい。その通りだ。
理屈としてはよくわかる。
トレードオフみたいに、買い物みたいに、とてもシンプルだ。
でも、少し立ち止まって掘り下げてみたい。
感覚的にはもう少し何かあるような気がするからだ。
この言葉は、気持ちがネガティブなときに頭に降りてくるか、あるいはポジティブなときに頭に浮かぶかで印象が少し変わってくる、と思う。
ネガティブなときはネガティブな状況ありきでこの言葉を使うことになる。
期待すべきではなかった、そうすれば絶望したり失望したりせずに済んだのだ。他人のことなんてどうせわからないのに、そんな不確定要素にすがった自分もばかだった、と。
そもそも「期待しなければ絶望もしない」という言葉が、否定の二段重ねでできているのだ。言葉の見た目からしてネガティブではないか。かのタワレコの名コピー「No music, No life!」とどうしてこうも違うのか。
逆に、ポジティブなときはポジティブな結論ありきでこの言葉がハマってくる。
つまりポジティブなときは「他人に期待する必要はないな、結局自分がどうかだな」という自分軸の言葉に変換して、この言葉を捉えられる。
他人に期待するとき、失望したりするほどに期待するときというのは、やはり依存状態にあると言っていいと思う。
(ただ、仕事などの場合は別。仕事は「戦時」のロジックが適用されるタイプの特殊状態であると自分は思う。ここは掘り下げるとまた長くなるので機会をあらためたい。)
依存するというのは「待ち」である。自分主体でない。コントロールの主権を失っている。だから苦しく、イライラする。相手の問題なので、場合によっては憎しみにも至る。仕方ない。相手の判断や行動がこちらの不自由さを生み出しているからだ。
結局は捉える自分がどうであるかだ。
そして「期待しなければ絶望もしない」とは、その判断はあなたの自由である、という意味なのである。
人は自由の実感を得ると元気になる。
自由とは「自らに由る」ということだ。
自分の中に他人を介在させすぎることなく、不自由な世界を、自由に歩く。
人にまみれて生きる以上、完全に自由ということはない。
だが目指すことはできるだろう。
いつか時計の止まるその日まで、自由を目指したなと言えるよう、
健気に、誠実に、心を柔らかく、
できるだけのびのびと生きていこう。
これが今朝の気づきである。
やぶさかではありません!