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炎上という暇つぶし。

当たり前だけど、人はみんな違う。
みんな違うが、それを前提とするわりには、誰もが人との違いに敏感だ。
違うよね、というそれだけではおさまらない。

ネット(ソーシャル)というのは面白くて、本来であれば知り得たはずのない同士を出会わせてしまう。その人の考えや嗜好、どんな行動規範で生きているかということを照らし合わせ可能にしてしまう。

誰かが不用意に、あるいは確信的にかもしれないが、発した言葉がネットで人目に触れる。それが可燃性を伴うものであれば(という言い方もあまりにネット的ではあるが)、時に炎上という形での総叩きが起こったりする。

ここでいう「可燃性」とは、「多くの他人から見て平均的であることから逸脱しているユニークな価値観」であったり、「コミュニケーションとして歪さを伴う、偏った振る舞いと考え方」であったりする。
まあ、言い方はいろいろとできるが、どれも同じことだ。要するに「それちょっと変じゃね?」ということだ。

しかし考えてみればこれもおかしなことで、人はみなどこかしら変であろう。変という言い方が悪ければ、誰もが偏りがあると言えばいいだろうか。例えばどこの家庭でもそれぞれ独自のルールがあるように、例えば個人レベルでも茶碗の持ち方がそれぞれ微妙に違うように、誰しも偏りはあるのであって、皆一律ということはありえない。
ありえないが、人が自らの偏りを表明することで炎上は起こる。

先ほど「可燃性」と書いたが、炎上しやすい話題というものがあるのだ。
人の茶碗の持ち方など他人はどうでもいい。
炎上するのはもっと社会的な、親子関係、男女関係、職場の上司部下…要するに、他人事ではないコミュニケーション事案である。

そして、ネットでの「炎上」「叩き」を見るにつけ思うのは、多くの人が表層的な理解でその当事者を断じている、ように見えるということだ。
当たり前だが、人はネットに自分の全てを書くわけではない。何かが起こってそのことについて書いたとしても、前後関係やディテールの全てをくまなく説明的に書いてなどいないだろう。また、その必要もない。
なのに、そこに書かれただけの「印象」で人はその人を断じ、結構な勢いで叩くのである。

そこには「自己投影」というガソリンが振りまかれている。

人が他人のことで感情的になる時、自己投影の要素が全くないというのはちょっと考えにくい。見知らぬ他人の話であれば、基本的には捨て置くべきことであるし、最初に書いた「茶碗の持ち方」レベルのことではないか。
もっと言えば、人の話について何か言うべきという話なら、もっとサジェスチョンすべき問題は世の中にたくさんあるではないか。
つまり、「たまたま見かけたから口を挟んでみた」というのが炎上という現象の偽らざる構造なのである。言葉は強いが、それは暇つぶしという行為に属する。

だが発言する本人は義憤にかられている。つまり炎上案件について何か言うことは「善」であり、草の根レベルから世の中を善くしようというある種の正義感が伴っているはずである。その正義感によって自らを正当化している。正当化して、石を投げている。そうでないと自分は醜い暴徒になってしまうし、それは心情的に許しがたい。
誰であれ、そんな自己正当化の心理が働いているのではないかと自分は思う。

だが、こう書いていてわかるのは、石を投げる行動自体は間違いなく「暴力」なんだよね。

それはコトの大小に関わらない。無名の一個人が炎上していると「何もそこまで」と思ったりするけど、社会的にもう少し有名な、しかも口も評判も悪い人が批判されたりしていると「まあ、もっともだな」と思ったりする自分もいる。そういう人は石を投げられ慣れているかもしれないし、ちょっとした炎上なんて歯牙にもかけてないかもしれない。
ただ、石は石だし、自分の行為は自分の行為だ。自分はそんなことをする奴でいいのか?という視点は持っておきたいなと素朴に思う。
暇つぶしなら、もっと豊かになれるものが世の中にはたくさんあるのだから。

やぶさかではありません!