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オリジナル

自分がオリジナルだなどと言い出す人は、
きわめて傲慢である。
傲慢であると言わなければならない。

キリスト教的に言えば
人間は神の模倣されたものであるので、
その時点でオリジナルという主張は却下される。

人がオリジナルを主張するとき、
それは本来的な意味から離れている。
その人は優位性が欲しいのだ。
この、誰しも似たり寄ったりな人間の、
有象無象がより集まった社会というやつで、
一目置かれて良い気分になりたいだけなのだ。

なんと人間的であろうか。
好感が持てる。
その人間くささに。小ささに。

だが所詮、誰もがそのていどの優越感を
勲章として大事に思うものなのだ。
神は自らに似せて人間を作った、
などという話が聞きたいのでない。

人はやりたくもないことを仕事として一生を終える。
または自分に思い込ませ、自分を洗脳して、
これがお前のやりたいことだよと、
目の前の仕事を天命として受け入れようとする。
人は自分のことがわからないから、
すでにあるものを親鳥のように運命として受け入れる。

検証する時間は人生にない。
検証したっておそらくわかるまい。

ひとつしか選べないのが自分というものだ。
なぜか。
その答えは簡単で、時間というものが不可逆だから。
同時に2つは選べないから。
たとえダブルワークしたって、
ひとつの時間にできる仕事はたったひとつだ。

もともとあるものを、
まるでオリジナルのように扱わなければならないのが
人間の悲哀であり滑稽さだ。

学ぶことは真似ぶことだそうだ。
そりゃそうだろう、
すべてのことは世界にすでにある。

どこかで見たようなものの中に
我々はオリジナリティを見い出す。
だがそれはオリジナリティではない。
工夫、というくらいのものだった。

読み物であれなんであれ、
サービスし過ぎるのは良くない。
不特定多数の読者や視聴者に目配せすると、
自分の書きたいことそのものから離れる。
愛想笑いみたいなものだ。

本物は愛想笑いをしない。

やぶさかではありません!