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2023年の大みそかイブ

おはよう。年末ではあるが大晦日ではない12月30日。朝起きて空っぽのぼんやりした頭で何か書き始めてみようとnoteを立ち上げる。
その前にコーヒーを沸かして飲んでいる。知り合いにおすすめされたスタバのコロンビアブレンドの個包装。吝嗇家の私は平時には大瓶のインスタントコーヒーを飲むため、コロンビアの残り本数はなかなか減らないでいる。

一年の振り返りとか総括とか、そういうことをしたくなる時期である。どこか大掃除のマインドに似ている。振り返りや念入りな掃除などは普段からやってもいいことなのに、一年の区切りの季節という理由で特別感を出して大仰にやりたがってしまう。もちろん、それが悪いだなんて思わない。似ているなあというだけだ。

年末というのはしみじみする。懐古的になるのである。いつのことだか思い出してごらん、あんなことこんなことあったでしょう?という歌のごとくに振り返る、というのは嘘で、さすがにこれだけ生きていると日常というのはそこまでしみじみしない。もっと長いスパンならある。娘の小さかった頃との差異がそれだ。iPadを愛用しているのだが、時々フォトアルバムがそんなメモリアルな写真を表示してくる。娘を肩車している私。思い出のサジェスト。不意のノスタルジー。この10数年は娘を最優先事項として生きてきたなあ、としみじみする。自分自身については私はもうちょっと淡々としていてドライである。

年を経るごとに実感として思うのは、「どうでもいいことはもう心底どうでもいいな」ということである。これは自己判断を外部化することへのアンチテーゼであり同調圧力への主体的な反駁である、というのは嘘で、単に興味が薄れているのである。本当は興味がないものを周りに合わせてそれらしく振る舞うとかもう耐えられないし、そんなことをしてる暇はないなと芯から思う。老化なのかもしれない。だが人は誰もが老化しながら生きている。老化という言葉が気に入らないなら変化である。その変化のベクトルが自ら気に入るものかどうかは自分次第である。

自分に嘘はつけないなどというが、それこそが嘘で、好きなだけ嘘はつける。ただ、嘘をついてもしょうがないというだけだ。自分でもコントロールできない本心というのがあるのだ。そう思うと「自分」というのは面白い。徹底的に利他な生き方をするとする。ガンディーのようなやつだ。となると、自分を動かすエンジンが別に要る。思想とかイデオロギーとか、大きな行動指針のようなものだ。そういうのがあれば自分は傀儡でいられるから、利他的に振る舞える。普通はそこまで自分を何かに委ねられない。恣意性を捨て去ることは容易ではない。人間は理論で考え感情で行動すると言われるが、それはきれいすぎる言い方で、おそらく感情でも考えている。「感情的だ」というのは往々にして悪口となる。理論的というのは代替可能なロジックがあるということだ。感情的というのはその逆で、共有化できない、つまりわけのわからないその人だけの屈託のことで、ある意味で危険だし、何より自分勝手な振る舞いを指すものだから非難される。

まあしかし、年末に思う「来年はこういう風に生きよう」みたいな思いは賞味期限が短い。日常の奔流に流されているうちに、そのような初心というのは忘れられていく。「初心忘るべからず」という言葉がわざわざあるということは、初心がそれだけ忘れられやすいからだろう。だとしても、こういう時ぐらいは区切りとしての思いを新たにしてもいい。大掃除のメタファーで言えば、掃除はいつでもしていいし、決意はいつでも立てていい。一本の線があるのではなく、細かい点が繋がって一本の長い線に見える。映画のフィルムに似ている。その区切りは細か過ぎて本人にすらわからない。我々はそんなふうにして生きている。

やぶさかではありません!