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Netflix「ドライブ・マイ・カー」視聴メモ【思考の断片】

監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介、大江崇允
撮影:四宮秀俊
音楽:石橋英子

【キャスト】
家福悠介:西島秀俊
渡利みさき:三浦透子
家福音:霧島れいか
イ・ユナ:パク・ユリム
コン・ユンス:ジン・デヨン
ジャニス・チャン:ソニア・ユアン
ペリー・ディゾン
アン・フィテ
柚原:安部聡子
高槻耕史:岡田将生

2022年米アカデミー賞国際長編映画賞受賞
2021年カンヌ国際映画祭脚本賞
2022年ゴールデングローブ賞外国語映画賞
ほか受賞多数

ずっと観たかった「ドライブ・マイ・カー」がやっとNetflixに来たのでさっそく試聴した。思ったとおり、あるいは思った以上に良かった。

観た後で、原作となった村上春樹の短編集「女のいない男たち」を買ってきて読んだ。この映画は、短編集に収録されている3本の小説が原作になっている。「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」「木野」である。

さらに言えば、小説「ドライブ・マイ・カー」では僅かに登場するだけのチェーホフの悲劇「ワーニャ伯父さん」(小説内の表記は「ヴァーニャ伯父」)が、映画そのものの主題に強く影響を与えている。

という前置きをしておき、あとは映画を観ながら思考の断片をメモしていく。

【きっちりネタバレしてますのでご注意】

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オープニング

・オープニングは夜明けのベッドルームで物語る女、これは短編「シェエラザード」のシークエンスから。

・都会に暮らし、知的職業に従事する十分に裕福な暮らしの男女、子供はいない。村上春樹らしいといえばらしいシチュエーション。

・奥さんの名前は「音(おと)」、これは映画オリジナルらしい。

・主人公である家福(かふく)の乗るスウェーデンの車・サーブは、映画で重要な役割を果たす装置であり舞台。原作ではボディの色は黄色だが、映画では画面の映えを考えて赤に変更された。2シーター。ナンバーは多摩503の「つ」の39-82(これは単なるメモ)。

・西島秀俊って、やはり村上春樹原作の映画「トニー滝谷」でナレーションを務めていた。村上作品との親和性があるのかもしれない。「トニー滝谷」はとても良い映画なのでオススメ。
以前、noteにレビューも書いた。

・岡田将生演じる高槻を、舞台の後の楽屋で音に紹介される家福。初見だとそこまで思わなかったが、高槻への扱いがかなり邪険で、一人になった後に服を椅子に投げるカットがあり、イラついた描写なのだとわかる。(映画的には後で明かされるのだが)家福は妻の浮気癖を知っており、高槻で4人目。こいつとも寝てるのか、というイラつき。

妻の情事に出くわすシーン

・外出したはずが事情が変わり、自宅に戻ると妻が他の男と寝ているのに出くわす。そこで怒るでもなく、気づかれないようにそっとドアを閉めて出ていく家福。これは短編「木野」のシークエンスから。そして、ここは結構ポイントのシーン。こういう場面でも怒らないのは、一つは家福が妻のそういう性癖を知っていたから。もう一つは、家福が現実とちゃんと向き合うのを避けていた、さらに言えば逃げていたから。

・その後に事故を起こす家福。物語の流れとしては、妻の浮気現場の目撃が運転に影響したとも見えるが、原作ではちょっと違う。緑内障に加え、少しアルコールを飲んでいたという設定。

・家福と音の間に生まれた女の子が病気で亡くなり、その子が大きくなっていたら(家福の運転手をすることになる)みさきと同じ歳、というのは原作と同じ、だが年齢はちょっと違う。

・法要の帰りの車の中の会話のセリフがいわゆる「ハルキ風」ではあるが、映画を通してはここぐらい。「僕は君のことを深く愛してるけど」とか「私ね、あなたのことが本当に大好きなの」「ありがとう」とか。しかし手は繋いでいるものの、その言葉に熱はない。

・音は、どこか常にうわの空に見える。言葉の発し方も心と乖離している。

・夫と寝ながら、行為の最中にずっと「口寄せ」状態で物語を語り続ける音。何かに取り憑かれているようで恐ろしさがある。

・ソファの上でしている時、左手で目を覆う家福。彼女の語る物語と、自分の見た妻の情事のシンクロを思い出したかのよう。

・音に「昨日の話(行為の最中に私が話した物語のこと)覚えてる?」と聞かれ、「ごめん、覚えてない」と答える家福。明らかに覚えているが、思い出したくないということだろう。

・スタイリッシュな二人の家。音楽もレコードだ。CDとかSpotifyとかじゃない。上質さを重視する人種という感じ。

・車の中で戯曲「ワーニャ伯父さん」のセリフをテープで流す家福。ワーニャの部分だけセリフがなく、そこは車の中で家福がしゃべる部分となっている。セリフの練習というより、家福の精神安定剤的なメソッド。これが音の死後になると意味が変わってくる。死者との対話のような構図になる。

・物語全体と「ワーニャ伯父さん」のセリフが絶妙にリンクしている。リンクというか、基調音のように流れ続けている。

・家福は左目に緑内障の目薬をする。左目である。

・「今夜話をしましょう」と音に言われていたが、悪い予感からわざと帰りを遅らせた家福。帰ったら音はくも膜下出血で急死していた。原作では音の死因は乳がん。

・音が死んでからも車の中で戯曲のテープを流し続ける家福。死者の声が響き続けている。

広島へ。みさきとの出会い

・赤いサーブで広島へ向かう家福。ここでオープニングクレジット。ちなみに原作は広島が舞台ではない。

・広島で家福を迎える二人が良い。安部聡子は独特の存在感と確信的な態度。あと、ユンスさん役のジン・デヨン。ユンスさんはこの物語の中でもっとも懐の大きな雰囲気を持つ人。いいね。

・安部聡子さんを誰も説得することは出来なさそう。

・みさき(三浦透子)登場。原作の描写を拾いながら、絶妙なキャスティングだと思う。この映画の主役の一人。

・広島という街がとてもクリーンな印象で描かれている。

・みさきは「運転が大変にうまい人物」という設定だが、それを演じるってハードル高いよね。

・棒読みメソッド。最初は「ん?」となるが、最終的にはきちんと仕上がるのは面白い。この辺のメソッドの意味は劇中で垣間見えるのだが、確かに考えられたメソッドだ。「演じる」ということの嘘。嘘くささをクリアすること。

・家福は物語を通して基本的に感情を抑制した話し方をする。まるで棒読みから始まる家福の演出メソッドそのものみたい。

・この映画はさまざまなものがシンクロしている。

・みさきのぶっきらぼうさ、心地よい。

・しゃがみながらタバコに火をつける、みさきの癖。

・俳優たちのオーディションが始まる。俳優といえどルックスは普通の人。なんというか、普通の人ってこうだよなあと思わせる。映画のフレームに普通の人がいるという違和とリアリティ。

・高槻は原作よりも随分若い。独自の役柄になっている。高槻はこの後、自ら不幸の淵に落ちていく。

・劇中で高槻の口からも自ら語られるが、高槻の空虚さ、空っぽさ。見た目は美しいが、空っぽ。だからクライマックスシーン(車の中での告白)で音の言葉が憑依したのか、とも思わせる。あのシーンは高槻の口を借りて音が喋っているのだと感じた。

・韓国手話を使うイ・ユナ役のパク・ユリム。とても良かった。特にラスト(劇中劇の「ワーニャ伯父さん」のラストでもある)は圧巻。すごい。

・「ワーニャ伯父さん」は読んだことがなかったが、この映画を見るだけでもだいたいのあらすじは見えてくる。僕はその後に別途ストーリーを調べた。

・テーブルノック方式。多言語劇なのでなおさらこれは必要なのだろう。

・感情を入れずにまず話すメソッド、という前提で見ると高槻の読み合わせは違うなとわかる。でも「感情を入れずにただ読む」というのは難しそう。

・みさきのプロフェッショナリズム。みさきは感情をほとんど出さずに話す。

・バーで飲んでいる時に写真を撮られる高槻。俳優の有名税。でも、それに注意というか攻撃を仕掛けていく。この攻撃性、狂気が彼の命取りになっていく。

・ユンスさん素敵な人だね。

ユンスさん宅での食事

・食卓のシーンがとても良い。時間の流れが優しい。ほとんど笑わない家福が笑うし、みさきの運転も褒める。みさきは照れて犬を愛ではじめる。みさきはラストシーンでも犬を連れている。犬が好きなようだ。

・家福がみさきの運転をほめている時のみさきの顔をじっくり見てしまう。ほめられ慣れてない感じすごい。でもその微妙な差異を感じようと見入ってしまう。声に小さい人の声を聴こうと耳をそば立てるように。

・ユナさん、非常に聡明で意志が強い女性。言い方はあれだが、隙がない。

・チェーホフのテキストが物語の中心にある映画とも言える。登場人物たちの心の中心に「ワーニャ伯父さん」のテキストがある。それが、家福が車の中で流すテープによって、音の声として物語中に顕在する。

・食事で心がほぐれ、帰りの車の中で、今まであえてしなかった話をする家福とみさき。心がほぐれた時ってそうだよね。日常のくびきの中で、あえて言葉にしないことというのは多い。そこがほぐれると、溜まっていたものが溶け出すように言葉を外に出す。そしてここで初めてみさきの過去がみさきの口から語られる。

・この映画は虐待描写があるという指定が入っているが、虐待描写は行動だけじゃない。言葉による説明もそう。

・ちなみに、原作小説における高槻についての家福の評価がこちら。かなり辛辣ではある。このセリフはみさきに向けて話される。

はっきり言ってたいしたやつじゃないんだ。性格は良いかもしれない。ハンサムだし、笑顔も素敵だ。そして少なくとも調子の良い人間ではなかった。でも敬意を抱きたくなるような人間ではない。正直だが奥行きに欠ける。弱みを抱え、俳優としても二流だった。それに対して僕の奥さんは意志が強く、底の深い女性だった。時間をかけてゆっくり静かにものを考えることのできる人だった。なのになぜそんななんでもない男に心を惹かれ、抱かれなくてはならなかったのか、そのことが今でも棘のように心に刺さっている。

村上春樹『ドライブ・マイ・カー』より

・これに対してみさきは「心なんて惹かれていなかったんじゃないですか、だから寝たんです。女の人にはそういうところがあるんです」と答える。

・小説の高槻と映画の高槻は人物像が違う。映画の話に戻る。

ごみ焼却場のシーン

・ごみ焼却場のシーンで、母の死因と自分の来歴を語るみさき。そこでみさきの年齢も判別する。23歳。

・この後の港のシーンも良い。家福が投げたライターを、くわえタバコのまま逆シングルでキャッチするみさき。ハードボイルド。

・みさきの「へえー」は極限まで感情がない。感情を入れない。

・ほとんど笑わないみさきだが、「私あの車が好きです」というセリフの時に少し笑っている。

・「ワーニャ伯父さん」の中のワーニャの年齢は、そのセリフによると47歳。自分はワーニャより年上になってしまっている。この年齢になって生きていると、本当に多くの人が年下である。

・公園でのエレーナとソーニャのシーン。家福が「いま、何かが起きていた」と言った場面。確かに見入ってしまう。元の筋も知らず、役柄もよく知らないのに演技自体に見入るというのはすごい。演じているというよりも、役柄の人物そのものがそこにいたような。

高槻との対話

・公園での稽古にみさきを呼んだことに、礼を言うみさき。そこに高槻が現れる。またもや家福を飲みに誘う高槻。不安なんだろうなと思わせる。「僕は自分が場違いに感じています。僕はこの役に合っていません」

・無断で自分を撮影したカメラ小僧を追いかけ、おそらくは殴ったであろう高槻。暴力そのものを映さないのは良いと思った。

・そのあと、みさきの運転するサーブの後部座席で重要なセリフを話す家福と高槻。この映画の中でもっとも昂まるシーン。

・音の男性関係まで高槻に話す家福。家福は相手の一人が高槻だと知っている。

・「音の中にあったどす黒い渦のような場所」

・女子高生が初恋の男の家に空き巣に入る話。家福が知らなかった(聞いていなかった)話の続きを、高槻は知っていた。話の続きを高槻は語り始める。それによって、音の相手が高槻だったということは結果的にバレることになる。その覚悟の見えるような高槻の目。

・このシーンは車の中の空間が深淵そのもののようで、高槻の口を借りて死んだ音が喋っているのだとすら感じさせる。そしてこのシーンの高槻は別人のようだ。

・狭い車の後部座席でのカメラワークが、家福と高槻とを交互に映し出すので、観ている我々がその会話をしている当人のように感じられるカメラワーク。

・その話の最後のセリフは(つまり音が語った物語の最後のセリフは)「私が殺した」というものだが、この告解のような言葉が、この車の中にいる三者それぞれに突き刺さっていく。高槻はこの以前に無断で撮影した男性を公園で殴打して傷害致死の罪を犯しているし、みさきは地滑りで家の下敷きになった母親を助け出さなかったことで罪の意識を感じている。そして家福はもちろん音の件だ。あの日、早く帰らないことを選んだせいで彼女が死んだと考えている。生きている三者それぞれに、すでに死んでしまった音の語る物語(高槻の口を通して語られる物語)が刺さるのだ。そして三名それぞれのために用意されたかのように、このセリフは三度繰り返される。私が殺した、私が殺した、私が殺した。

・「結局のところ、僕らがやらなくちゃならないことは、自分の心と上手に、正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと思うなら、自分自身を深く、まっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います」と言って高槻は涙を流す。これは小説とほとんど同じセリフだ。そして少なくとも小説版はここが主題だと思う。

・高槻をホテルの入り口で下ろし、車は走り出す。建物の入り口で立ったままじっとこちら(車)を見る高槻。その姿はどんどん小さくなる。長回しがとても印象的。

・そしてこのシーンから家福は、みさきの運転する車の後部座席ではなく助手席に座る。これは明らかに関係性の変化を表現しているはず。何かが変わったのだ。

・「それが真実かどうかわからないけど、高槻さんは自分にとって本当のことを言っていました」と語るみさき。チェーホフ的セリフ。

家福の潔癖について

・車の中で二人でタバコを吸う。車中に匂いがこもらないようにルーフを開ける。これは当初からのルールだが、車の中でタバコを吸うのは原則として禁止していた家福だった。なので、みさきは「いいんですか」と言う。家福の潔癖について、ここで少し扉が開く。のちに、みさきの実家跡のシーンで土に手を触れたみさきを引っ張り上げ用とする家福に対し「汚いですよ」と言うみさき。みさきから見ても家福は潔癖をよしとする人間という認識がある。これは音の語る女子高生の物語内で、「母親の影響が強くあるがゆえにやけに整頓された男性の部屋」に通じる。音はその潔癖さを深層心理で嫌悪している。

・二人で何かを捧げるようにタバコを持つ。「私が殺した」という高槻のセリフからの流れを思うと、二人にとってのそれぞれの追悼の儀のようにも感じられる。

高槻の退場

・劇場。「ワーニャ伯父さん」がやっと仕上がってきたところへ、高槻の逮捕のシーン。11月24日、日曜日の夜7時半頃、新天地公園で男性と喧嘩になり、彼の顔面を殴打した。間違いありませんか?その男性が、昨日病院で亡くなりました。「僕がやりました。間違いありません」と高槻。すべてを覚悟した表情。連行される高槻だが、家福に向かって深く礼をし、退場していく。高槻の顔は、映画前半からすると別人のようだ。

・新天地公園での事件ということだが、家福と飲んだ夜とは別という印象を持ったのだが、どうだろうか?彼は頻繁にこういうトラブルを起こしていた。

北海道、上十二滝村へ

・ワーニャ役がいなくなり、講演を中止するか、それとも家福がワーニャ役をやるか。決断の猶予は2日。ここでみさきの故郷、北海道は上十二滝村へのロングドライブが始まる。

・上十二滝村は架空の名前で、村上春樹の小説には「十二滝村」という場所がたびたび登場する。

・映画のラスト30分というのはだいたい何かが起きる区切りである。この映画においてはここがそれにあたる。ドライブをスタートさせるのがラスト35分というところ。

・広島→新潟からフェリー→北海道、というルートか。

・あの夜からずっと、家福の座る席は助手席になっている。

それぞれの告白

・音が死んだ夜の悔恨の気持ちを告白する家福。「もしほんの少しでも早く帰っていたら。そう思わない日はない」

・呼応するように、みさきは地滑りで家が潰れて母が死んだ日のことを告白する。加えて、左頬の傷のことを話す。手術で消せるはずだが消す気になれない、みさきの傷は過去への囚われのシンボルになっている。(それが証拠に、ラストシーンでは傷が綺麗に消されている。過去との訣別の象徴)

・お母さんが死んだのは君のせいじゃない、と言いながらも「君は母を殺し、僕は妻を殺した」と話す家福。現実を認めなければ何も始まらない。

・フェリーから夜の海のうねりを覗き込む家福。僕も実際、フェリーで夜の海を眺めたことがあります。真っ暗で、底が見えなくて、果てしなくて、結構怖いんですよね。

・フェリーの仮眠室、テレビのニュースで高槻の事件が報じられているが、家福はまったく反応しない。

・雪景色の中、車は一度止まる。何かと思ったら「お花・やさい直売所」で手向けの花を買ったのだろう。あとでみさきが一輪ずつ投げるあれだ。

・「車がないと何もできない」田舎の雪景色は、自分の生まれ故郷を思い出させる。まさにこんな感じですよ。

みさきの実家跡、感情の吐露

・他に家のない山の中の斜面。見晴らしはそこそこ良いが、ここに家があったとは思えないような寂れた場所。

・ここでみさきは、花を一輪ずつ投げながら、母の別人格「サチ」の話をする。みさきを虐待した後に出てくる、8歳児の人格。「母の中にある最後の美しいものがサチには凝縮されていました。サチは私のたった一人の友達でした」この言葉を誰かに話したのはおそらくみさきは初めてだっただろう。家福とそれなりの時間をかけて、サーブを運転しながらそれぞれの傷を少しずつ見せ合うことで、心の深いところにある話ができるようになった。赤いサーブの中はカウンセリングルームのようだ。

・雪を掘って、土にタバコを刺したみさき。タバコを線香に見立てた、これは墓参りだ。この映画ではタバコが象徴的に使われている。

・小説の中のみさきのセリフ「女ってそういうところがあるんです」にあたるセリフをここで話す映画のみさき。「音さんのこと、そのすべてを本当として捉えることは難しいですか。ただ単にそういう人だったと思うことは難しいですか。音さんには何の矛盾もないように私には思えるんです」

・「僕は正しく傷つくべきだった」と話し始める家福。これは短編「木野」の中にある重要な主題となるセリフ。

・ここまでほぼ棒読み演技のような態度だった家福が、感情を昂らせるシーン。長い本読み期間を経て、ようやく仕上がった「ワーニャ伯父さん」の舞台とシンクロしている。

・「音を怒鳴り付けたい」「そして謝りたい」さまざまな感情を、本音として吐露する家福。

・ここがポイントなのだが、感情というのは矛盾していていいのだ。むしろ矛盾を併せ持つのが自然であって、それはおかしなことではない。それが現実なのだ。ただそこにある現実そのものを見つめて受け入れるということが、それこそが必要なプロセスなのだ。

・両義性。

「ワーニャ伯父さん」公演

・「ワーニャ伯父さん」の公演のシーン。稽古からずっと見てきていると、到達点の高さを感じる仕上がり。

・「ワーニャ伯父さん、生きて行きましょう」から始まるソーニャの韓国手話のシーン、とても心を打つ。これは実際の戯曲のラストシーンだが、家福たち登場人物の人生にそのまま響く言葉として機能している。

・原作小説だと「ワーニャ伯父さん」はここまで物語に組み込まれない。

・みさきも観客として観にきている。

・背中越しの手話、美しい。

韓国でのエピローグ

・エピローグは、韓国で買い物をするみさき。髪を伸ばし、身なりも綺麗に整え、洋服も垢抜けている。

・駐車場を歩くと、ヒュンダイの車がずらりと並んでいる。そこに見慣れた赤いサーブが韓国ナンバーをつけて停まっている。なお、このシーンは結構カラーコントロールをしているように感じる。みさきとサーブ以外の風景と他の車は彩度を落とし、グレイッシュにまとめている?

・後部座席に犬を乗せて、サーブはまっすぐな道路を走り出す。マスクを取るみさきの左頬は綺麗になっていて、手術で除去したのだろう、過去への囚われからの訣別を表しているようだ。

・また、サーブは家福のものを譲り受けたであろうことから、家福も過去(死んだ妻である音)と訣別をして、新たに人生を前に進めただろうというところまでは読み取れる。

・みさきの口元は少し微笑むようで、明るい表情で車を運転している。ここで映画は終わる。

・韓国ってそうか右側通行だ。

ラストの解釈について

・ラストについてはいろんな説があるようだが、あまり細かいところまでは明らかにされていない。そういう作り方なのだろうと思った。

・明らかであろうことは、みさきは韓国で暮らしている、愛犬がいる、サーブは家福から譲り受けたもの、頬の傷は消して新しい人生を歩き出した、あたりだろうか。

・家福とみさきが恋人になって韓国で暮らしている(サーブは相変わらず家福のもの)、という意見もあったが、それだと物語は終わらないのでは?というのと、みさきは家福の「亡くなった娘の幻影」という要素もあったわけなので。

・そういう意味では家福は、テープによって死んだ音と対話し、生きていたら娘と同い年というみさきと対話することで、死んだ娘とも対話していた。

・家福の韓国公演にみさきは運転手としてついてきていた(ユンスさん夫妻も韓国に来ているので犬はユンスさんのところの犬)、という説もあったが、そうであればもう少し違う見せ方をすると思う。あと、犬は違う子だよね?

・一番面白かった説が、「ラストで家福が犬になっちゃった!」というもの。なんでそうなる、最高。

・というわけで素晴らしい映画でした。

・「我々は幸せになるためにではなく、運命を受け入れるために生きているのだ」という言葉があるが、それを思い出した。

・運命は人によって違うが、それぞれの運命に対する態度がどうか、ということだ。

「ワーニャ伯父さん」とのリンク

・一応書いておくが、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の登場人物と、この映画の登場人物はリンクしている。エレーナが音、アーストロフが高槻、ソーニャがみさき、家福がワーニャと、そしてセレブリャコフ。


やぶさかではありません!